女神の約束

須能 雪羽

第1話:美弥【崩落─1】

※ この物語はフィクションです。登場する名称、法制、出来事等すべて架空のものです。




 ◆ ◆ ◆




 アンティークめいて木目の浮き出たテーブルに、黒い電子レンジ大のパソコンが低く唸る。

 画面には小数点を抱えた数字ばかりがずらり並び、対応するグラフや分布図が収まる場所を行列で待つ。


 にもかかわらず寄掛よりかけ美弥みやは、千鳥格子に似た布張りの背もたれへ体重を預けた。ふと見た時計が午後五時を指していたからだ。

 慣れた──慣れすぎたと言っていい作業に、悩むところはない。だというのに眉間には、指でマッサージを施さねば消えない溝が形作られていた。


 細く息を吐き、背を伸ばしつつ、赤銅色のペン立てからリモコンを取る。常に開け放したままの隣室、リビングのテレビを点けた。

 チャンネルを順送りにしていけばニュース、アニメ、またニュースと映し出される。


 続いてローカル局のワイドショーが眼に撥ね、指の動作が止まった。埼玉では有名な、子育てアドバイザーの女性が大写しになっていた。

 もちろん美弥も知っている。知りすぎると言っていいほど。


 隣に座る女性アナウンサーと遜色ない、上手いメイク。六十歳も間近と加味すれば、かなりの化け上手と評して間違いない。

 二十七歳の美弥は、自身の化粧けのない頬に触れた。

 いやメイクはする。週に一、二度、勤務先へ向かうとき。近所のスーパーへ買い物に行くとき。


 ほかには、ええと。

 そう記憶を辿る素振りがハッタリなのは、ほかでもない美弥がよく知っている。

 画面越しの子育てアドバイザーは、つややかに見えた。なにを愉しみとするやら知らないが、人生を満喫しているという風にしか思えない。


 いやいや、と。かぶりを振るのには少しばかりの努力をした。

 勤め先へ顔を出すたび「食事でも」と誘ってくれる顔が何人か浮かぶ。大学時代から、ずっと慕ってくれる相手も。


 その中からどうやって選べばいいのか。それ以前に、選ぶ権利があるのか。そこのところの答えを出す方法が、美弥には分からない。


「子どもには、明確な目標を与えなければいけません。当人に合うかどうかは、そのあとの話です。どこかへ旅するのだって、なにか仕事をするのだって同じでしょう?」


 子育てアドバイザーが、はっきりとした口調で言いきった。


「目標なんて……」


 誰にでもできるプレゼン資料を作るだけの毎日なのに?

 続く想いを声に出す気はなかった。在宅勤務を許してもらったのは、美弥の希望によるものだ。その先にどんな目標を置けるかなど、勤め先に問えはしない。


「目標を置いたといって、なにがなんでも達成させるということではありません。達成に向けて子どもは成長していく、それでも無理のありそうなところを親が見極める。互いに変化を恐れず柔軟な姿勢を持つ約束が、親と子の間になければ破綻しますね」


 今にも頭痛のしてきそうな、耳に痛い言葉。目を逸らせば良いけれど、それもできなかった。

 この人の言うことは間違っていない。ほかの考え方もどこかにはあるだろうが、否定まではされないはず。

 などと唇を噛んだまま、子育てアドバイザーの出番の終わるまで、およそ十分の拷問に美弥は堪えた。


 ──一時間ほどのうちに、救いもあった。

 娘の陽葵ひまりから【今日、会いに行っても大丈夫?】とメッセージが入った。

 直ちに【待ってるね】と笑顔のアイコン付きで返す。あと少しのプレゼン資料を保存して終了し、いそいそとキッチンへ立った。

 美弥の母が陽葵を連れてくるのは、午後八時から九時の間が多い。それまでにあり合わせの食材で、娘の好物を作らねば。


 玉ねぎを刻み、挽き肉とともに炒めつつ、なにを話そうと考える。母親の仕事の都合もあって、娘と会えるのは月に一度あるかないかだ。

 学校でなにかあったか。問うて娘の話すに任せるのは容易いが、それでは自分の役目を放棄している気がした。


「もし、お母さんと一緒に暮らそうって言ったら」


 そう伝える妄想は、これまでに何回を数えたか。本当に言えば、陽葵は間違いなく喜んでくれる。

 喜んでくれるはず。

 喜んでくれたらいいな。

 離れて住む理由が自分にあることを思い出し、美弥の意気は消沈していく。


 できるわけがないのだ。

 激しく打ち始めた胸の鼓動を、震える手で押さえ込む。落ち着けと自らに言い聞かしもした。「陽葵には関係ないんだから」と。


 やがて、玄関前のチャイムが鳴った。母親が暗証番号を知っているので、マンションの入り口で鳴らされることはない。

 下準備の済んだところだ。あとは陽葵がテーブルに着いてから、溶き卵を焼いて包むだけ。手を洗い、キッチンから扉一枚を隔てた玄関へ向かう。


「お帰りなさい」


 別居の子に向け、なんと白々しい言葉だろう。ほかに相応のなにかないかと探したこともあるが、見つからなかった。

 引き攣るような頬と口角を必死で上げ。吐きかけたため息を微笑みの吐息に変え、金属製の扉を押し開ける。


「久しぶりだな」


 陽葵ではない。母でもない。

 頬骨の浮いた痩せ顔でありながら、通路の灯りが皮膚の脂に照る男の顔。

 見覚えは、あった。ありすぎるほど。

 次にどうしようと考える前に、美弥の身体が動く。扉を閉めようとしたが、既に男の手がかかって動かなかった。


 大げさと思える厳重な防犯チェーンが目に入る。なぜ使わなかったと己を責めながら、自分と似た背丈の男に手を伸ばした。

 しかし押し返そうと腕を突っ張っても、叩いても、男は構わず侵入する。終いに両腕を大きく広げ、美弥の全身を抱きしめた。


「いやぁっ!」


 悲鳴の域に達する拒絶の声と、男の後ろで閉じる扉の音が重なった。

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