第52話 天才と秀才
「ツズミちゃん、おてて怪我しちゃんたんだね」
包帯巻きになった右手を見て、先生は残念そうに声を落とした。
ジャングルジムから落ちたにしては手の捻挫だけで済んだ。それでも発表会当日に動かせるような状態じゃなかった。
「これだと発表会のピアノは、難しそうね」
「うっ、ひぐっ……」
「泣かないで。また弾けるようになったら、先生はツズミちゃんのピアノ聞きたいなぁ」
部屋の中で泣きじゃくる私を先生は宥めるので必死だった。練習を頑張ってきたこと、直前で全てが崩れてしまったこと、鈍い手の痛み。十年経っても昨日のように思い出してしまう。
「そしたら今度の発表会は予定通り、先生が……」
「せんせー! さささちゃん出来るよー!」
横で事情を聞いてたさささちゃんが天井に手を高く伸ばして、自信満々に提案してくれた。
「へっ、さささちゃんが?」
「うんっ。ツズミちゃんのピアノ、じょーずでいつも聞いてたの~!」
初めは、私の代わりにさささちゃんが弾いてくれることで肩の荷が下りた気がした。自分のせいで発表会が失敗しなくて良かったと。
――でもそんな思いなんて弾け飛んでしまうほどの、綺麗な旋律が私の全身を貫いていった。
「……へっ?」
流れるような音色、一つ一つが丁寧な打鍵、自然な鍵盤の息遣い。同じ曲をアレンジもなく演奏しているのに、何もかもが違った。どこを切り取っても、私より遥かに上手だった。
さささちゃんの体は揺れて、ピアノもつられて流れる。息を呑むような演奏は歌っていた他の園児でさえ、思わず止まってしまうほど。本当に美しい音色だったと思う。
「う、そ」
家で遅くまで練習を続けて、やっと弾けるようになったピアノを、さささちゃんは一日もない練習で覚えてきた。正直に言えば、あの瞬間に抱いたものは絶望の他になかった。
初めてだった。悔しくて、涙も出ないほど、深い悲しみに落ちたのは。
※
気が付けば発表会の当日になって、発表は無事に終わった。
見に来た保護者たちは皆さささちゃんに釘付けで、幼稚園とは思えない生演奏に終始会場がざわめいてた。
だから最初から最後まで、私が表情もないまま小さく口を動かしてたことも気にならなかったみたいだった。
拍手に包まれながら、私たちの組は控え室として隣の部屋まえ移動した。終わってから早々、その喝采を受けた本人が私の元へ真っ先に走ってきた。
「ツズミちゃん、さささちゃん上手くできたよ~!」
彼女は何も悪くない。悪いはずがない。けど子供心はそれに耐えられなくて、私は怒号をあげてしまった。
「――言わなくていいよ!!」
「え……ツズミ、ちゃん?」
驚いて固まってしまったさささちゃんの顔も見ずに、ただ自分勝手な悔しさと嫉妬の言葉を投げてしまった。
「あたしは練習して、ずっとがんばって、やっと弾けるようになったのに……さささちゃんは」
包帯の下に出来たマメの痛み、練習で酷使した腕の筋肉痛、胸を刺されたような悲しさ。溢れ出して止まらなかった。まだ小さな子供だったとはいえ、許されないことをしたと今でも思う。
「さささちゃんは天才だから! できなくて辛いことないもんね!」
言ってしまった。呪いの言葉を。
きっとさささちゃんが生涯初めて、その才能に悪意をぶつけられた瞬間だったかもしれない。
口に出してしまったところでようやく、自分が友達に何を言ってしまったのかを自覚した。
不安と恐怖の中で顔を上げると、そこには友達が見たこともないほど切ない作り笑いを浮かべてた。
「――ごめんね。ヤな気持ちにさせたいわけじゃ、なかったの」
さささちゃんは、泣かなかった。
温度が世界から消えてしまったような、寂しそうな表情のまま、無理に笑ってた。
その顔を見て子どもながらに、自分がどれだけ残酷な仕打ちをしてしまったかを思い知った。
※
友達にあんな顔させた自分が嫌で嫌で、熱が出るほど泣き続けて、私は数日寝込んで幼稚園を休んだ。
それが理由なのか――さささちゃんは転園してしまった。
親の都合って言ってたけど、きっとアレはあたしのせい。謝ることもお別れも言えないまま、さささちゃんは私の前から消えてしまった。
ずっとさささちゃんに、呪いの言葉を植え付けてしまったのだ。
謝ることもできずに友達を傷つけたままにした私は、その日から人前で音楽をしなくなった。
――自分を否定するためなのか、さささちゃんへの罪悪感を戒めにするためなのか、自分自身でも分からなかったけれど、音楽を辞めることはなかった。
人と関わらず、傷つけないように一人になって、次第に人との話し方も忘れた。
話し相手は年上で近所だったレイカとマナだけ。それ以外は部屋で楽器とだけ喋る生活が、中学生まで続いた。
そしてあれは確か、新しい楽器を買いに都会まで行ったときだった。バスで隣県まで向かってた際の途中。
偶然バスに乗り合わせた二人組の男子中学生の話が耳に入ってきた。
「なー知ってる? 隣の地区の中学のやつ」
「あれだろ? あのえっぐい天才女子」
「勉強、運動、文化系も賞状総なめ。どんだけエリートなんだよ」
「なんで普通の中学通ってっか分かんねーよな」
とにかく優秀で、別の地区まで噂が広まる人がいるんだと、途中まで聞き流してた。その名前が出るまで。
「さささちゃん、とかって自分のこと呼んでたっけ」
心臓が強く波打った。手の痛み、胸の苦しみ、記憶も全部が刹那の一瞬で蘇る衝撃が走った感覚だった。
「さささちゃん……そっか、そこに」
彼女の通う学校に行こうにも、目の前の二人とは学校が違う。それに直接聞けるほどの度胸もなかった。
何より謝ったところで、薄っぺらな言葉しか出せないことが怖かった。
――ごめん、さささちゃん。あたしまだ、臆病だから。あなたに謝れる自分じゃない。
だから私は音楽に力を借りて、貴方にきちんと謝まるって覚悟を決めた。
「レイカ姉ぇっ、マナ姉ぇ!」
その日の帰り、年上の幼馴染が住んでるシェアハウスに駆け込んだ。
「ツズミっ? どうしたの、学校帰りに突然」
「二人って今、音楽作って配信とかやってるよね!」
「そ、そうだけど……?」
「配信って言っても、レイカの歌ってみたが中心よ? 私は裏方で、たまにガヤに入るだけでぇ」
「それなら、演奏担当は枠が余ってる、よね!」
ずっと二人に対しても口数が少なくて消極的だった私の変わりっぷりには、レイカもマナも終始驚きっぱなしだった。
「それって、ツズミも一緒にやりたいってこと?」
「私たちは嬉しいし、ツズミの実力は見てきたから知ってるけど、中学生だと部活とか受験とか……」
「今からじゃなきゃ!」
さささちゃんと私は違う。私はずっとずっと努力しなきゃ、さささちゃんと同じところに一瞬でも立つことなんてできない。
どれだけ演奏技術が上がったとしても、あの日弾いた彼女のピアノに追い付くことはできない。
だから精一杯、私の人生を全て賭けてでも、さささちゃんのために音楽を捧げたかった。
「伝えたい、ことが、伝えたい人が、あるの……どこにいるか分かんないその子に、届けたいの」
――弾いて、弾いて、弾き続けた。口で伝えられなかった分を演奏で、指先で繋いだ。
レイカとのユニットが軌道に乗ってからも、配信業で実績を作っていっても、練習量を減らす日なんてなかった。バンドで使う楽器から管楽器も練習した。その倍の時間はキーボードに費やした。
レイカが表で輝いて、マナが色んな人と繋いでもらってる間、最大限の時間を演奏の練習に使った。
さささちゃんにまた出会えて、しっかりあの日のことを償えるように、その想いと一緒に指を動かしてきた。
――いつか私の音が、貴方の耳に届きますように。
そしてどうか貴方が、幸せでありますように……
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