第4話『存在証明』

第1話:学内事故


炎天下の昼休み。青木理沙は図書館から研究棟へと急いでいた。腕には大量の資料を抱え、眼鏡が少し曇っている。


「あぁ、暑い...」


普段は決して見せない弱音が漏れる。その時—


「理沙さーん!気をつけて!」


村上咲の声が聞こえた瞬間、理沙の視界に白い影が飛び込んでくる。


「えっ!?」


咲が全力疾走で駆けてきたのは良いが、止まり切れずに。


「わわわっ!」

「きゃっ!」


二人は見事に衝突。資料が空高く舞い、理沙は咲を庇うように抱きかかえたまま、芝生の上に転がった。


「いってて...」理沙が目を開ける。「咲さん、大丈夫ですか?」


「はい...」咲が理沙の胸の中で小さく答える。「理沙さんが守ってくれたから」


その姿勢のまま、二人は固まる。


「あの...」

「え、えっと...」


「きゃー!青木先輩たち、真昼間から何してるんですかぁ!」


周囲の学生たちが黄色い声を上げ始める。


「違います!これは...」理沙が慌てて立ち上がろうとする。

「あ!」咲も動こうとして。


結果、さらに絡まって動けなくなる二人。


「もう!」理沙の顔が真っ赤になる。「咲さん、どうして突然走ってきたんですか!」


「だって!」咲が理沙の白衣を掴む。「大変なことが...」


「大変なこと?」


「研究室で、実験装置が...」


その時、研究棟から歓声が聞こえてくる。


「すごーい!山田先輩の実験、大成功!」


「え?」理沙が首を傾げる。


「あ、あれ?」咲も混乱する。「でも私、煙が出てるって聞いたから...」


実は—

山田の実験は、ドライアイスの演出で成功を祝っていただけだった。


「また咲ちゃんったら」中村翔子が現れ、呆れたように言う。「人の話を最後まで聞かないで走り出すから」


「えへへ...」咲が照れる。「心配で...」


「もう」理沙が溜息をつく。「そんなに心配なら、私と一緒に確認に行けば...」


「でも!」咲が真剣な顔で言う。「理沙さんが怪我したら困るから、私が先に...」


理沙は言葉を失う。確かに咲は、自分のことを考えて飛び出してきたのだ。


「あらあら」翔子がにやにやする。「理沙、顔真っ赤よ?」


「そ、それは暑いからです!」


「またその言い訳」咲が笑う。「理沙さんの定番ですね」


周囲から笑い声が広がる。理沙は恥ずかしさのあまり、散らばった資料を慌てて拾い始める。


「あ、手伝います!」咲も四つん這いになって。


「気をつけて...って!」


今度は額をぶつけ合う二人。


「いってて...」

「すみません...」


「青春っていいわねぇ」翔子が満足げに見つめる。


真夏の陽射しの中、二人の慌てぶりは、見ている者全てを微笑ましい気持ちにさせていた。



第2話:理沙の負傷


「うう...」


保健室のベッドで、青木理沙が小さく呻く。額には可愛らしい絆創膏が貼られている。


「理沙さん、まだ痛みますか?」


村上咲が心配そうに覗き込む。理沙は反射的に顔を背ける。近すぎる。


「大丈夫です。これくらい...くしゅんっ!」


「あ!」咲が飛び上がる。「やっぱり熱があるんです!」


実は理沙、衝突の際に額をぶつけただけでなく、芝生で寝転んだせいで微熱を出していた。


「保健の先生に言ってきます!」


「待って!」理沙が咲の袖を掴む。「そんな大げさに...」


その時、保健室のドアが開く。


「おやおや、まだ安静にしてないの?」中村翔子が顔を出す。「理沙ったら、意外と甘えん坊なのね」


「ち、違います!」理沙が慌てて袖を離す。「単に咲さんが大げさに...」


「私、理沙さんのこと心配で...」咲の目が潤む。


「あ...」理沙の強がりが一瞬で溶ける。


「可愛い可愛い」翔子がくすくす笑う。「ねえ咲ちゃん、お手製の梅干しおにぎり、まだあったでしょ?」


「あ!」咲が思い出したように弁当箱を取り出す。「理沙さん、食べられますか?」


「え?」理沙が驚く。「咲さんの手作り...?」


「実は」咲が照れながら。「理沙さんの好みを研究室の皆に聞いて、練習してたんです」


理沙の胸が高鳴る。咲が、自分のために...


「味見役の私が保証するわ」翔子がウインクする。「理沙の大好物になること間違いなし!」


「翔子さんまで...」


「はい、あーん♪」咲がおにぎりを差し出す。


「え!?そ、それは...」理沙が真っ赤になる。


「先輩!」廊下から声が。「青木先輩、大丈夫ですか!?」


数人の後輩たちが心配そうに覗き込む。


「な、なんでもありません!」理沙が慌てて起き上がる。


「あ!」咲がおにぎりを取り落とす。


「危ない!」


理沙が反射的に受け止めようとして、今度は咲と手が重なる。


「...」

「...」


保健室が静まり返る。


「みんな見てるよ〜」翔子の声が響く。


「きゃー!青木先輩と村上さん、素敵!」

「まさか保健室で!」

「青春だねぇ」


「も、もう!」理沙が布団を被る。「皆さん、帰ってください!」


「はいはい」翔子が後輩たちを追い出す。「二人の時間、邪魔しちゃ悪いものね」


「翔子さんまで...」理沙の声が布団の中から漏れる。


部屋が静かになり、咲がそっとベッドの傍に座る。


「理沙さん」咲が小さな声で。「本当に、ごめんなさい」


布団の中で理沙が動く。


「咲さんこそ」理沙が顔を出す。「私のために、そんな練習まで...」


「だって」咲が微笑む。「理沙さんが喜んでくれたら...」


二人の目が合う。


「あの...」二人が同時に。

「咲さんから」

「理沙さんから」


また同時で、思わず笑みがこぼれる。


「じゃあ」理沙が意を決したように。「そのおにぎり、もう一度...」


咲の顔が輝く。「はい!あーん...って」


「今度は自分で食べますから!」


理沙は顔を真っ赤にしながらも、咲の手作りおにぎりを一口。


「美味しい...」思わず本音が漏れる。


咲の笑顔が、夏の陽射しのように保健室いっぱいに広がっていた。



第3話:咲の奮闘


「よし!今日こそ完璧なお弁当を!」


早朝の実験室で、村上咲は意気込んでいた。白衣の上にエプロンを着け、小さなガスコンロでおかずを作っている。


「咲ちゃん、朝から頑張ってるのね」


中村翔子が覗き込む。実験台の上には、半分失敗したおかずの山。


「翔子さん!」咲が振り返る。「私、理沙さんのためにお弁当作ってるんです。でも...」


目の前の玉子焼きは、どこか形が崩れている。


「まあまあ」翔子が優しく笑う。「理沙のことだから、咲ちゃんが作ったものなら何でも...」


「何でも、何ですか?」


二人が振り返ると、青木理沙が立っていた。


「りっ、理沙さん!?」咲がパニックで調理器具を落とす。

「危ない!」理沙が咲を抱きかかえるように受け止める。


「...」

「...」


「あらあら」翔子がにやにやする。「朝から熱いわね〜」


「と、とにかく!」咲が慌てて理沙から離れる。「理沙さんは帰ってください!」


「え?」


「お弁当の中身、見られちゃダメなんです!」


咲が必死で理沙を押し出そうとする。が。


「わっ!」


エプロンの紐が実験台に引っかかり、咲が転びそうに。


「また危ない!」理沙が咲を支える。「もう、気をつけてください」


「すみません...」咲が申し訳なさそうに。「私、理沙さんのために頑張ろうとしたのに...」


理沙の表情が柔らかくなる。


「咲さん」

「はい?」


「お弁当、一緒に作りませんか?」


「え?でも、サプライズで...」


「それより」理沙が真剣な表情で。「咲さんと一緒に作る方が、嬉しいです」


咲の目が輝く。


「本当ですか!?」

「ええ。ただし...」


理沙が実験台を指さす。


「実験室で調理は禁止ですから、家政科の調理室を借りましょう」


「あ...」咲が周りを見回す。「そうでした」


翔子が声を出して笑う。


「もう、笑わないでください!」咲が頬を膨らませる。


「ごめんごめん」翔子が涙を拭う。「でも、こういうところも咲ちゃんの可愛いところよ」


「えっ」理沙が思わず声を上げる。

「あら」翔子が意地悪く笑う。「理沙も同感?」


「そ、それは...」


その時、廊下から声が。


「おはようございます!」山田健一が顔を出す。「あれ?皆さん揃ってるんですか?」


「山田君!」咲が救われたように声を上げる。「ちょうど良かった。私たち、調理室借りたいんですけど」


「調理室?」山田が首を傾げる。「今日は文化祭の準備で使えないはず...」


「えっ!」咲がショックを受ける。


「大丈夫です」理沙が咲の肩に手を置く。「じゃあ、放課後は私の家で...」


言いかけて、自分の言葉の意味に気づく。


「あの!その...」理沙が慌てて訂正しようとする。


「理沙さんの家...」咲の顔が徐々に赤くなる。


「おお〜」翔子と山田が同時に。


「違います!」理沙が必死で否定。「ただの料理の...」


「理沙さん」咲が小さな声で。「行きたいです」


理沙の言葉が止まる。


「本当に?」

「はい!」


「じゃ、じゃあ...」理沙が眼鏡を直しながら。「放課後、正門で」


周囲から温かい視線が注がれる中、二人は互いに頷き合った。




第4話:真相への接近


青木理沙のマンションの前で、村上咲は深呼吸をしていた。買い物袋を両手に持ち、少し緊張した様子。


「お待たせしました」


振り返ると、理沙が郵便物を確認しながら近づいてくる。


「理沙さんの家...緊張します」

「私の方が緊張してます」理沙が小さく呟く。


「え?」

「い、いえ!さあ、入りましょう」


玄関を開けると、整然と片付いた部屋が現れる。本棚には哲学書が整然と並び、机の上には実験ノートが。


「さすが理沙さん」咲が感心する。「きちんとしてて...あれ?」


その時、目に入ったのは可愛らしいクマのぬいぐるみ。


「あ!」理沙が慌てて隠そうとする。「それは...」


「可愛い!」咲が目を輝かせる。「理沙さんにこんな意外な一面が」


「そ、それは誕生日に翔子さんが...」


「へえ〜」咲がクマを手に取る。「お名前は?」


「ハイデガー...」理沙が顔を真っ赤にして小声で。


「えっ!?」咲が声を上げる。「哲学者の...」


「だ、だって...」


二人は顔を見合わせ、思わず吹き出す。


「理沙さん」咲が笑いながら。「本当は、可愛いもの好きなんですね」


「まあ...」理沙が観念したように。「咲さんにだけは、言えるかも」


その言葉に、二人の心拍数が上がる。


「あ、あの!」理沙が話題を変えようと。「お料理、始めましょうか」


「はい!」


キッチンに立つと、咲が買い物袋から材料を出し始める。


「えっと、まずは...」


「包丁、気をつけて...」


理沙の言葉が終わらないうちに、咲が指を切りそうに。


「もう!」理沙が後ろから咲の手を包む。「こうやって...」


「!!」


二人の手が重なったまま、玉ねぎを切る。理沙の体温を背中全体で感じる咲。


「り、理沙さん?」

「集中してください」理沙の声が少し震える。


その時、玄関のチャイムが。


「えっ!?」二人が飛び離れる。


「理沙〜!いるでしょ〜」


中村翔子の声。


「翔子さん!?」理沙が慌てる。

「きっと心配で...」咲も苦笑い。


ドアを開けると、翔子が満面の笑みで立っていた。


「やっぱり二人きりね!」

「違います!ただの料理教室です!」


「あら」翔子が台所を覗き込む。「なかなか良い雰囲気だったみたいね」


「そ、それは...」


「私も手伝うわ」翔子がエプロンを取り出す。「せっかくだから、パーティーにしましょ!」


「パーティー?」


「ほら」翔子がスマホを見せる。「山田君たちも、準備できたって」


「えっ!」理沙が驚く。「みんな来るんですか!?」


「だって」翔子がにやり。「青木理沙の初お家デート。見逃せないでしょ?」


「デートじゃありません!」


咲は台所で、クスクスと笑っていた。


「咲さんまで...」


「でも」咲が優しく微笑む。「理沙さんの新しい一面、たくさん見れて嬉しいです」


理沙は何も言えなくなる。


「さあさあ」翔子が二人の背中を押す。「素敵な思い出作りの始まりよ!」


結局その日は、研究室メンバーを交えた手作りパーティーに。


しかし—


「ねえ」帰り際、咲が理沙に囁く。「今度は本当に、二人きりで...」


理沙は小さく頷いた。


ハイデガーのクマが、そんな二人を見守るように微笑んでいた。



第5話:山田の告白


研究棟の屋上で、山田健一は深いため息をついていた。昨日の手作りパーティーの光景が、まだ頭から離れない。


「ああ、やっぱり咲は...」


「何を悩んでるの?」


振り返ると、中村翔子が立っていた。


「翔子さん...」山田が苦笑する。「見透かされてました?」


「幼なじみの咲ちゃんが、他の人と親密になっていく様子を見るのは複雑でしょ?」


「まさか」山田が慌てて否定する。「僕は咲のことを、妹みたいに...」


「あら」翔子が意地悪く笑う。「妹だったの?青木理沙に負けないくらい真っ赤な顔して」


その時、階段から声が聞こえてきた。


「理沙さん、気をつけて!重いですから」

「大丈夫です。咲さんこそ、無理しないで」


青木理沙と村上咲が、実験器具を運びながら現れる。


「あ」山田と目が合う。

「山田君!」咲が明るく手を振る。


「咲」山田が決意を固める。「ちょっといいかな」


「え?」


「私も聞きたいわ」翔子が口を挟む。「せっかくだから、みんなで」


理沙は何か察したように、咲の方を見る。


「その...」山田が言葉を探す。「実は僕、咲のことを...」


全員が息を呑む。


「ずっと、心配してたんだ」


「え?」予想外の言葉に、全員が首を傾げる。


「咲って」山田が優しく笑う。「昔から失敗ばかりで、実験も壊しちゃって。でも最近は」


山田は理沙の方を見る。


「青木先輩と一緒にいる時の咲は、いつも生き生きとしてて。それに、実験も上手くいってて」


「山田君...」咲の目が潤む。


「だから」山田が深く頭を下げる。「青木先輩、これからも咲のこと、よろしくお願いします!」


「えっ!?」理沙が慌てる。「そ、それは...」


「あら」翔子がにやにやする。「まるで結婚の承諾みたいね」


「けっ、結婚!?」理沙が真っ赤になる。


「そんな!」咲も慌てて否定するが、頬は赤い。


「でも」山田が真面目な顔で。「お似合いだと思います」


「山田君まで...」理沙が眼鏡を直しながら。


その時、実験器具が傾く。


「あっ!」


咲が受け止めようとして、バランスを崩す。


「危ない!」


理沙と山田が同時に駆け寄る。が—


「わっ!」


三人で絡まって、まとめて転んでしまう。


「いってて...」

「大丈夫ですか!?」

「みんな...」


「あはは!」翔子が声を上げて笑う。「青春って素晴らしいわね!」


「もう...」理沙が呟く。「いつも咲さんのせいで、こんな」


「えー!」咲が抗議する。「理沙さんだって、私を支えようとして」


「二人とも」山田が苦笑。「変わってないなあ」


三人は顔を見合わせ、思わず笑い出す。


「ねえ」翔子が意味深に言う。「山田君の告白って、本当はもう一つあるんじゃない?」


「あ...」山田が顔を赤らめる。「それは...」


「もしかして」咲が目を丸くする。「翔子さんと...」


「えっ!?」今度は理沙が驚く。


「まあまあ」翔子が山田の肩を抱く。「その話は、また今度ゆっくりと」


「翔子さん!?」三人が同時に声を上げる。


秋の風が屋上を吹き抜けていく。そこには、それぞれの想いを胸に秘めた青春の一頁が広がっていた。



第6話:理沙の決断


図書館の閉館間際、青木理沙は一人で本を整理していた。しかし、手元の哲学書に目は向いていない。


「お似合いって...」


山田の言葉が、まだ頭の中で繰り返されている。


「何を考えてるの?」


振り返ると、中村翔子が立っていた。


「翔子さん...」理沙が慌てて本を手に取る。「まだ残ってたんですか」


「あなたこそ」翔子が本を指さす。「その本、さっきから逆さま」


「あ...」


理沙が恥ずかしそうに本を直す。


「ねえ」翔子が理沙の隣に座る。「咲ちゃんのこと、どう思ってるの?」


「えっ!?」理沙が思わず声を上げる。「そ、それは...」


その時、図書館の入り口で物音が。


「あ!理沙さん、まだいました!」


村上咲が小走りでやってくる。手には、紙袋が。


「咲さん?」理沙が驚く。「どうして...」


「えへへ」咲が紙袋を差し出す。「実は、お礼を」


「お礼?」


「この前の手作りパーティーの。私の失敗、理沙さんがフォローしてくれて...」


理沙は紙袋を開ける。中には手編みのマフラー。


「これ...咲さんが?」


「はい!」咲が誇らしげに。「一週間かけて...あ、ちょっと歪んでるところは見ないでください!」


理沙は言葉を失う。一目一目に、咲の気持ちが込められている。


「あの」咲が不安そうに。「変でしたか?」


「違います!」理沙の声が響く。


「しーっ!」翔子が慌てて注意。


「あ、すみません...」理沙が小声になる。「とても、嬉しいです」


咲の顔が輝く。


「本当ですか!よかった...実は編み方、山田君に教えてもらって」


「山田君が?」理沙が驚く。


「うん。山田君ったら」咲が楽しそうに。「『理沙さんの好みは、こういうのでしょ?』って」


理沙は、さっきの山田の言葉を思い出す。


(みんな、私のことを...)


「理沙さん?」咲が心配そうに。「顔、赤いですよ?」


「い、いえ!その...」


その時、図書館の照明が一斉に暗くなる。


「きゃっ!」咲が理沙に抱きつく。

「だ、大丈夫です」理沙が咲を抱きしめる。


「あら」翔子の声。「閉館時間だったわね」


照明が完全に消える前、理沙は決意を固める。


「咲さん」

「はい?」


「今度は、私からも...」


「おーっと」翔子が二人の間に割って入る。「素敵な告白は、もっと素敵なシチュエーションで」


「こ、告白なんて!」理沙が慌てる。


「えっ!」咲も真っ赤になる。「理沙さんが、私に...」


「まあまあ」翔子が二人を促す。「とりあえず、図書館出ましょ。次のステップは、私がプロデュースしてあげる♪」


「翔子さん!」理沙が抗議するが、内心では感謝していた。


図書館を出ると、夕暮れの空が広がっている。


「ねえ」咲が小さな声で。「理沙さん、マフラー巻いてみます?」


「え?ここで?」


「寒くなってきましたから」咲が真剣な表情で。


理沙は、ゆっくりとマフラーを首に巻く。温かい。そして、どこか懐かしい香り。


「似合ってます」咲が嬉しそうに。


「ありがとう...」理沙の声が震える。「大切にします」


翔子は少し離れたところから、そんな二人を見守っていた。


「青春って」翔子が独り言。「こういうことよね」


夕陽に照らされた二人の影が、静かに寄り添っていく。



第7話:危機からの脱出


土曜日の朝、青木理沙は研究室の片付けをしていた。理沙の首には、咲の編んだマフラーが。


「今日こそは」理沙が小さく呟く。「咲さんに...」


その時、研究室のドアが勢いよく開く。


「大変です!」村上咲が駆け込んでくる。「理沙さん!」


「ど、どうしたんですか?」


「ハイデガーが...ハイデガーが...」咲が息を切らせながら。


「え?」理沙が混乱する。「私の部屋のクマのぬいぐるみが?」


「違います!」咲が理沙の手を引く。「図書館の貴重書庫から、ハイデガーの初版本が消えちゃったんです!」


「なっ!」


理沙も事態の深刻さを悟る。その本は、図書館の誇る貴重な資料で、咲が司書のアルバイトで管理を任されていた。


「私のせいです...」咲の目に涙が浮かぶ。「確認を怠って...」


「落ち着いて」理沙が咲の肩に手を置く。「一緒に探しましょう」


「理沙さん...」


その時、廊下から声が。


「おやおや、朝から仲良し?」


中村翔子と山田健一が現れる。


「翔子さん!山田君!」咲が飛びつく。「助けて!」


事情を説明すると、二人も真剣な表情に。


「分担して探しましょう」翔子が提案する。「私と山田君は新館を。理沙と咲ちゃんは...」


「地下書庫ですね」理沙が頷く。


「あの」咲が心配そうに。「理沙さんは、私なんかと...」


「咲さん」理沙がマフラーに手を当てる。「あなたは、私の大切な...」


「きゃー!」突然、廊下から女子学生の悲鳴が。


「どうしたの!?」翔子が駆け寄る。


「黒猫が...本を咥えて...」


「黒猫!?」全員が顔を見合わせる。


「温室の...」理沙が閃く。

「あの子だ!」咲も気づく。


四人は猫を追いかける。が、すぐに見失ってしまう。


「くっ...」理沙が息を切らす。「どこに...」


「あ!」咲が指さす。「温室に入っていきました!」


「でも」山田が困った顔で。「鍵がかかってるはず...」


その時、温室のドアがゆっくりと開く。


「えっ!?」


「不思議ね...」翔子が首を傾げる。


「私が先に!」咲が駆け出す。

「待って!」理沙が後を追う。


温室の中は、前より草木が生い茂っている。


「本を見つけなきゃ...」咲が必死で探す。

「気をつけて...って!」


咲が足を滑らせ、理沙も一緒に倒れ込む。


「いってて...」

「大丈夫ですか?」


気がつくと、理沙が咲を抱きかかえるような体勢に。


「り、理沙さん...」

「咲さん...」


その時、目の前で黒猫が本を置き、どこかへ消えていく。


「あっ!」二人が同時に。

「本が!」


確かにそれは、探していたハイデガーの初版本。しかし不思議なことに、ページが開かれていた。


『存在への問いは、時に心への問いとなる—』


「これって...」咲が息を呑む。

「私たちへの...」理沙も声を震わせる。


「おーい!」外から翔子の声。「大丈夫?」


「はい!」咲が答える。「本も見つかりました!」


「それは良かった」山田の声。「でも、二人とも早く出てきた方が...」


「その...」咲が理沙を見上げる。「起き上がらないと」


「あ、はい...でも」理沙が決意を固める。「その前に」


「え?」


「咲さん」理沙の声が優しく響く。「私...あなたのことが」


「理沙さん...」咲の目が潤む。


温室の天窓から、柔らかな光が二人を包み込む。


「好きです」


小さな告白は、しかし確かに咲の心に届いた。


「私も!」咲が理沙に抱きつく。「私も、ずっと...」


外では翔子と山田が、そっとドアを閉める。


「やれやれ」翔子が微笑む。「これで一件落着ね」


「翔子さん」山田が不思議そうに。「温室の鍵、どうやって...」


「さあ?」翔子がウインクする。「恋する二人に、神様は味方するのかも」


温室の中から、幸せな笑い声が響いてくる。







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