第35話 六年後

 華乃さんと付き合い始めた記念日には、僕が彼女にサプライズを仕掛けるのが毎年の恒例となっていた。意外性のあるプレゼントをしたり、予想もつかないデートに連れていったり、あえて記念日を忘れているフリをしてショボンとさせてから、不意をつく形で手作りパーティーを開いたり。そのどれもが、そこそこの成功を収めてきた。


 そして、六年目となる今日――二十三歳の夏――僕は彼女にプロポーズをする。


 自信はある。というか正直もう、確信している。オーケーをもらえると。漠然とだが結婚後の生活について話したこともあるし、あとはタイミングをどうするかの問題でしかないというのがお互いの共通認識のはずだ。


 週末、いつものように僕のアパートで晩ご飯を終え、リビングのソファでくつろぐ恋人――白石華乃さん。ノーメイクで、オーバーサイズのTシャツにデニムのショートパンツというラフな格好。何かを警戒する素振りもなく、完全に油断し切ったような雰囲気だ。そんな風に隙だらけであっても、相変わらず、金髪ショートのよく似合う、僕には不釣り合いすぎる美女ではあるのだけど。


「華乃さん、話があるんだけど」


 彼女の隣に座り、僕は話を切り出す。


「うふふっ、だよねー? ざんねんっ、実は気づいちゃってましたーっ。さすがのわたしだって、六年も連続で驚かされたりしないんだから!」


 得意げに微笑む彼女のその反応も想定内だ。晩ご飯だって、さりげなく豪勢なものを作ってくれていたしな。


「参ったな。バレちゃってたか」

「内容もだいたい予想ついちゃうしねー。当てちゃおっかな? プレゼントかな? 案外お手紙とかが攻撃力高いかも? ま、今回ばかりはどんなのが来てもやられないけどね!」

「これだよ。受け取ってくれ、華乃さん」

「え……?」


 ポケットから取り出したリングケースを開け、中身を見せるように、華乃さんへと差し出す。プレゼントはたくさんしてきたけれど、本物のダイヤモンドがあしらわれたものを渡すのは、これが始めてだ。


「僕と結婚してください」

「一太……っ」


 見開いた目で、僕を凝視してくる華乃さん。この後の反応は、彼女が口にする言葉は、取る行動は、ほぼ全て、わかっている。君はもう、僕の思いのままだ。手のひらの上なのだ。


 僕の恋人――いや、婚約者は――その小さな口を開き、


「ごめん。受け取れないよ、一太」

「えっ」

「……一太とは、結婚、できない……」

「ちょ……ちょ、ちょっと待ってくれ、華乃さん。それは、どういう、」

「だって一太、浮気してるじゃん」

「――――」

「気づいてないとでも思ったの? ずっと、浮気してるじゃん。結菜ちゃんと」

「違っ……違うんだ、華乃さん! それは誤解で、」

「言い訳とかいらない。」


 華乃さんはキッパリとした口調で僕の反論を遮り――


「一太がちゃんと自分で反省して浮気をやめてくれれば、一度や二度の過ち、見なかったことにしたげるつもりだったんだよ? それなのに、結菜ちゃんとの関係を続けたまま、プロポーズなんてしちゃってさ……わたしのこと幸せにしてくれる気なんて全然ないってことじゃん。わたしとの結婚に、将来に、覚悟なんていらないと思ってるってことなんでしょ?」

「だから違うんだって! 話を聞いてくれ、華乃さん!」


 ――そしてそのまま立ち上がり、彼女は僕に、震える背中を向けてしまう。


 不謹慎にも、思い出してしまう。六年前のあの光景を。僕と京子のことを誤解し、僕に背を向けてしまった彼女の姿を。


 僕はあの時、どうしたんだっけ。何て言ったんだっけ。若さと勢いと、そして恋心だけに突き動かされるように――いや、正確には、あれは恋心ではなく――


「じゃあね、一太。今までありがとう。指輪は結菜ちゃんの誕生日にでもあげればいいよ、もう二十一歳になるんだもんね、彼女も。あ、でも、今まで一太にもらったものはさ、わたし、ちゃんと大事にするから。なかったことには、できないもん」

「今までの、って……」

「全部だよ。高校生のころ、初恋の人にゲームセンターでぬいぐるみを取ってもらったときの嬉しさなんて、忘れられるわけないじゃん。付き合って初めてのデートで初めてプレゼントをもらった思い出を、捨てられるわけなんてない。知ってるじゃん、今でも、うさぎちゃんの耳にあのネックレスつけて飾ってることくらい」

「…………っ」

「できればさ、一太も、ちいかわちゃんくらい、大事にしてあげてね? だって、かわいそうじゃん……なんて、うふふっ」

「華乃さん……やっぱり話を、」

「幸せになってね、一太」


 その言葉だけを残して、華乃さんは歩を進め――二度と振り返ることもなく、アパートを、出ていってしまった。


 僕には、彼女を追いかける資格など、なかった。





「ちいかわって、これか」


 立ち呆けていたのは数十秒ほど。僕は指輪をローテーブルに置いて、寝室に移動していた。クローゼットの中から、例のぬいぐるみを引っ張り出すのにも、やはり数十秒ほどしかかからなかった。

 それは、ちょうど六年前、あの告白の直前に華乃さんにもらったものだった。


 フローリングにしゃがんだ体勢で、改めてそのハンドボール大のぬいぐるみを眺めてみる。丸っこい頭まですっぽりお洋服を着込んだ可愛らしいキャラクターで――


「ん……? なんだ、これ……」


 目に入ってきたのは、そんなお洋服の隙間からハミ出た――紙――質感的に、いわゆる感熱紙のようであった。


「…………」


 胸の高鳴りを感じながら、ちいかわのコスチュームを脱がす。クレーンゲームの景品クオリティなので、着脱には少し手間がかかった。そこら辺がまた、あの日、『僕』に似ていると言われてしまった理由の一つであるのかもしれない。

 そんな発想を、華乃さん相手に押し付けてしまうのも、また六年ぶりのことであった。


「これは……!」


 そして、やっとのことで取り出した、その紙に写っていたものは……!


「だーれだ♪」

「ふ……っ!?」


 そんなときだった。後ろから飛んでくる、弾んだ声。こういうとき、定石では僕の目を両手で覆い隠してくるものだと思うが、いま僕に当てられているのは肩に押しつけられた柔らかい双丘だけだった。


 この感触は、間違いなく、


「華乃さんだろ。一体これは……ふぇ?」


 おずおずと振り返った僕の唇に、華乃さんは、ちょんっと口を当ててきた――それがぬいぐるみの口だったのは六年前の話で――今はもちろん、華乃さん自身の桃色の唇を。六年前はぬいぐるみだと言い張っていた双丘も、今は間違いなく、華乃さんの胸で。だけどそれは、六年前よりも、いや、何なら今の僕がよく知っているはずのものよりも、なぜか少しだけ重く感じられて。


「あはっ……♪」


 ――彼女は、笑っていた。


 嗜虐的に細められた目、愉悦たっぷりに吊り上がっていく口角、もはや恍惚、絶頂寸前と言わんばかりに紅潮する頬。

 それは六年前まで毎日のように見ていた――いや、その毎日の笑みを全部集めて凝縮したぐらいの――小悪魔からかいスマイルであった。


「うぷぷっ……♪」

 小悪魔は、爛々と輝く両目で僕の顔を覗き込み、

「そりゃ、後ろにいるのはわたしに決まってんじゃーん♪ わたしが『だーれだ♪』って聞いたのは、その写真に写ってる子のことだよ……♪」


 歌うような声で促され、改めて手の中のそれを見てみる。画面の中央には、ぽっかりとした黒い円。その中に、わずかに白い影が写っている。まるで夜空の小さな星のように、頼りなげな、でも確かにそこに存在する何か。右上には、病院名と日付、そして『6w2d』という文字列が印字されていた。


「まさか……いや、まさかも何も……」

「そ♪ 正解はー♪ 一太とわたしの、赤ちゃんでしたーっ!」

「……えと、避妊はしていたような……?」

「しばらく飲んでなかった♪ 赤ちゃん欲しかったから♪」

「そ、そっか」

「そ♪」

「…………。……いや、うん。嬉しいよ。ありがとう。これからできることは何でもするから、足りないところがあればどんどん言ってくれ」

「うんっ♪ いっぱい言う♪」

「…………。……いや、違くて。僕が『まさか』と言ったのは、妊娠そのものについてというより……」


 その意地悪げな瞳に見つめられて、脳が焼ける。イタズラっぽく溢される笑い声に、心がざわつく。

 視界が滲む。指先が震える。喉の奥で何かが疼くように叫んでいる。警鐘を鳴らそうとしている。六年間、華乃さんの前で必死に抑え付け、隠し続けてきた衝動が、その小悪魔スマイル一つで、何かを思い出したかのように、暴れ出そうとしてしまっている。


「そうです♪ 全部うそです♪ 大ちゅきな一太のプロポーズを断るわけなんてありません♪ 結婚します♪ あはっ♪ ありがとね、指輪♪ トんじゃうほど嬉しい♪ どう? 似合ってる?」

「あ、うん。めちゃくちゃ。……で、全部、というのは……」

「全部は全部っ! 浮気なんてしてないってのももちろんわかってるし、てか、この作戦自体、結菜ちゃんにも協力してもらっちゃってるし……♪ 今日プロポーズされることもわかった上で、何とか赤ちゃん間に合わせてみました……♪」

「僕が結菜ちゃんにしてた相談とかも全て君に漏れてたってことか……ひどすぎる、やっぱあのガキ信用できない……!」

「うぷぷっ! 結菜ちゃんのせいじゃないでしょ、一太の慢心が引き起こしたミスだよー? この六年間、わたしに泳がされ続けて、自分がからかう側で、完全に上に立ってるって思い込んでたんでしょー? ま、そーゆー作戦だったわけだけどね♪」

「つまり……つまり……!」

「そうです♪ 六年間、『別の男子はからかうけど、大好きな彼ピ相手には、からかいなんて知らない慎み深い彼女』になっちゃってたのは、全部うそです♪ 前振りです♪」

「六、年……ずっと、演技してたって、いうのか……? 今この瞬間の……からかいの! ために……!」

「そうです♪ あはっ……どうだったかな、六年間、焦らしに焦らされて、完全無防備の、からかいセカンド童貞状態で喰らっちゃった、特大のからかいは……♪」


 ニマニマニタニタとした顔で見下ろしてくる僕の彼女、もとい、婚約者。僕の子どもの、ママ。


 僕は、床に崩れ落ち、四つん這いになって――叫ぶ。


「騙したなぁああああ!! くそぉおおっ! 華乃さんめぇええええっ!!」


 僕の妻は、結局ずっと、根っからの、からかいモンスターだったのだ。


「あはーっ♪ やっぱいい反応するなー、一太は♪ 身震いしちゃう♪」

「ひどい……ひどいよ、華乃さん……僕が六年間も、どんな気持ちで……!」

「うぷぷっ♪ からかわないことこそが最強のからかいになるだなんて思わなかったっしょ……? からかわれるなんて発想すらなかったから、何の気構えも心の鎧もないとこに、究極超えのからかい爆弾喰らっちゃったっしょー!」

「うぐぐぅ……! それにしたって……!」

「だってさ、悔しかったんだもん。やり返しなの。これと同じ、完全なる不意討ちが、六年前、わたしが一太に喰らっちゃった攻撃だったんだもん」

「え……? 六年前、僕が華乃さんに、攻撃? ……ここで言う攻撃ってのは、つまり、からかいって、こと、だよね……?」

「告白のこと! あんときさ、わたし、一太をからかってやるつもりでいたんだ」

「え。でも確かあのときって……そうだ。僕が京子に『華乃さんと縁を切れ』って言われたって話をして……それを君が、僕に拒絶されたと勘違いして、逃げ出そうとしたんじゃないか」


 僕はそれを引き留めようとして、その勢いのまま、告白までしてしまったんだ。


「うん、あれホントは、勘違いなんてしてなかったから。ショック受けて自分から身を引く素振りを見せることで一太が慌てまくる姿を観察してから、ネタばらしでからかってやるつもりだったの。どんだけわたしのこと大ちゅきなの、一太くんはーって」

「そう、だったのか……」

「なのに一太は、そんなわたしの想定を完全に超えてきちゃってさ。攻撃ばっかで全くの無防備だったわたしに、告白だなんてゆー、最大級のサプライズぶつけてきちゃってさ。わたし、初めて一太に驚かされちゃって。負けちゃって。それが悔しかったから、あの瞬間にはもう決めてたの。最大級を超えたやり返しで、一太をからかってやろうって」

「……まんまとやられたよ……一番のとばっちりは豪樹だけど」

「ま、いーじゃん。郷土くんもあっさり慣れちゃったし。一太と違って、すぐつまんなくなっちゃったし。だからこそ選んだんじゃん。一太みたいに、わたしのからかいに夢中になっちゃうよーな人じゃ困るもんね……♪」


 華乃さんの言う通りだ。高二のうちには、豪樹も華乃さんのからかいを真顔でスルーできるようになっていたし、卒業する頃には、華乃さんにからかわれても、笑って自虐ジョークを返せるようにすらなっていた。北関東中から恐れられていた不良が、今やイジられ上手の若パパ扱いされている。奥さんの弥生やよいさんも、華乃さんのことは夫の面白い友達の一人としてしか見ていない。


「くそぉ、華乃さんめぇ……!」


 僕はその小悪魔スマイルを睨みつけて、続ける。


「これからは毎日、昔のようにからかってくれるんだろうなぁ……!?」


「――――」


 ――妙な間があったような気がした。それは、ほんの一瞬で、だけど確かに、彼女の目が見開き、小悪魔の顔が歪んだように見えて――。


 しかし、次の瞬間には、やはり華乃さんはニマニマニタニタからかいフェイスで、


「あはっ♪ 安心して、お望み通り、毎日からかってあげるから♪」

「…………。華乃さん……っ」

「いっしょに幸せになろうね、わたしのチョロ旦那様♪ この子の、ざぁこざこパパさん♪」


 そうして華乃さんは僕の手を取り、大事な大事な宝物が眠るその場所を、優しく撫でさせてくれるのであった。

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