第21話「雨上がりの香り」

 「ふう⋯⋯、家に帰ってくるのは、いつぶりだっけ」

 怜が自宅に帰るのは1ヶ月ぶりだった。

 2月に開幕し11月まで約9ヶ月に渡って競うシリーズ選手権に参戦する怜は、シーズン中は日本各地のサーキットを巡る生活だった。

 今回は筑波サーキットで開催された大会の後、そのまま夏休みを利用して合宿に参加していた。

 神奈川県北部にある怜の地元に着いたのは、まだ明るい時間だったが、チームのオーナーに合宿の報告をして家についたのは夜10時を回っていた。


 一方通行の入り組んだ静かな住宅街をエンジンの音を抑えて走る。家から少し離れた駐車場にトランスポーターを停める。旅の生活用品が入った大きなボストンバッグを肩に掛け、家の玄関を静かに開ける。

 常夜灯の薄灯りを頼りに下駄箱の上の手紙の束を取る。不在時の怜宛の手紙はいつもそこに置いてある。

 リビングのドアフックを肘で降ろして、肩でドアを押し開ける。

 灯りの消えたリビングには誰もいない。

 肩掛けの荷物を床に転がして、リビングの奥にあるキッチンを見回す。

 カウンターテーブルの上に、ラップをかけた真っ白なおにぎりとタッパーを見つけた。

 食欲をそそるスパイシーな香りがした。

 タッパーの中身は怜の好物の麻婆豆腐だ。

 ケースを両手で包むとまだ温かい。

 「お袋、⋯⋯ありがとう」

 もう寝てしまっている両親の寝室に目配せをして、タッパーと塩むすびを盆に乗せ、リビングのテレビの前にある座卓で胡座あぐらをかく。


 封書とハガキの束をめくりながら、好物のマーボ豆腐をスプーンで掻き込む。

 リモコンを操作して選曲した深夜ドラマは、すっかり展開がわからなくなっていて頭に入ってこない。

 艶々の塩むすびを頬張りながら、半ば機械的に手紙を捲り宛先をなぞっていると、一通の見慣れた絵柄のハガキに意識が戻る。


 「真っ青な空に入道雲⋯⋯」

 裏面に差出人の名前はない。

宛名に記された筆跡は、見間違うはずもない。

 ⋯⋯⋯はるかだ。

 「山田 怜さま」

 バランスの難しい「怜」の文字が、

 優しく、伸びやかに描かれていて気持ち良い。

 敬称を平仮名で「さま」と描くたおやかさが彼女らしい。

 裏面に返すと鼻先に懐かしい香りがした。


 彼女が怜の前から姿を消してから、ずっと会っていなかった。

 二人が交際していた頃も、彼女は何か辛いことがあると手紙を書いてきた。


 「あいかわらずだなぁ」

 書かれていたのは彼女の近況だった。

 日常の些事が止め処なくしたためられた日記のような手紙だった。

 「元気にしてるって、⋯⋯言いたい訳でもなさそうだな」

 やはり何かあったことが手紙から見てとれた。

勝ち気な彼女は、決して弱音を語ろうとしない。

 しかしそのことがかえって、怜を彼女の気持ちに敏感にさせていた。



 「○月△日23:00、あの場所で待っています」

 手紙の最後に、そう書き添えてあった。

 「○月△日⋯⋯か、今日は何日だったっけ⋯⋯」

 長い遠征で日にちの感覚の麻痺した怜は、カレンダーに目をやった次の瞬間、好物のマーボ豆腐を食べ残して車に乗り込んでいた。


 外は雨が降り出している。

 フロントガラスに吹きつける雨粒で、センターラインがよく見えない。

 どう飛ばしても40分はかかる。

時計はすでに23時をまわっていた。

車を飛ばしながら怜は必死で考えていた。

 「あの場所」

 思い出の場所はいくつかあった。

しかし、彼女がもっとも大切にしている場所は何処なのか。

 雨が強さを増していた。

 時間が時間だ、間違ったらもう会えないだろう。

 初めて約束したあの場所⋯⋯⋯


 怜が選んだ思い出の場所は、二人で初めて行った遊園地の待ち合わせ場所だ。

 小田急線「よみうりランド駅」の裏路地をゆっくり走りながら、歩道に目を凝らす。

 街頭はなくネオンに照らされるだけの細い路地は、真っ黒い隅を塗ったように暗く、人影は見てとれない。

 約束の時間から、すでに50分が過ぎていた。


 (待っているだろうか?

  そもそもここであっているんだろうか?

  別の場所で心細く待っているのではないか⋯⋯)

 不安がよぎる。

 路地の終わりにさしかかり、別の場所へ向かおうとした時だった。

 建物に寄り添うように、細い影が見えた。

 怜は車道に車を放ったまま、引き寄せられるように歩み寄った。

 酔ったサラリーマンが影のそばを通ると、

 影が一瞬ビクリと動いたのがわかった。

 「⋯⋯ いる」

 怜の直感が確信になったその時、影も怜に気づいたのがわかった。


 ビルの影から出てきたのは、懐かしい泣き顔だった。

 強がるくせに、こういうときの彼女はいつも泣いていた。


 黙ったままの彼女を抱き寄せると、懐かしい香りがした。

 シャンプーと涙の香り⋯⋯


 道はもう交わることが無いことを、二人がよくわかっていた。

 雨はあがっていた。

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