第22話「怜のオートバイ」
「怜、今週末の掃除は市役所だからな。
土日、朝8時に現地集合。遅れるなよ」
深夜3時。レッドファクトリーでのマシン整備を終え、ガレージのシャッターを締めながら茂樹が言った。
「あー、わかった。じゃ明日な」
「おう!もう今日だけどな」
疲れた深夜に交わす、しょうもない笑いで二人は帰路につく。
「四時間は、眠れるか⋯⋯」
無意識に睡眠時間を逆算する癖がついていた。
「でも、今夜は家だから、手脚を伸ばして眠れるな⋯⋯」
マシンを乗せたトランスポーターを運転しながら、怜は独りでほくそ笑む。
もうそんな生活が当たり前になっていた。
レース活動を続けるために怜たちは、アルバイトに精を出す。
コンビニのアルバイトの他に、朝市の肉屋のバイト、隣町の喫茶店。役場や学校の清掃から工場の加工作業と色んなバイトをかけ持っていた。
高校卒業後の進路は、レース活動をしたい気持ちと次々に進路を決めていくクラスメイトたちの間で揺れ、父親の勧めで工学系の専門学校に行く事にした。
「やりたいことがあるならあと2年、学生の内にやってみろ」
そう言った父親は学業とレース活動の両立を前提に、学費とレース資金を援助してくれた。
その金で怜は最初のレーシングマシンを買うことができた。
しかし、レースはそんなに甘いものではなかった。一年にかかる費用は、整備用にマシンをもう一台分のパーツ代がかかる。
その他にも、サーキットの練習走行に支払うチケット代、日本中を転戦する為の高速代、生活費などの遠征費用。シリーズ戦にエントリーする費用も馬鹿にならない。
とにかく、レースは湯水のように金がかかる。
それでも、それは必要最小限の資金だ。
上位に食い込むチームは、更に高価なスペシャルパーツを装備し、最高速度を2Km/hでもマシンの戦闘力を上げてくる。
ギリギリの戦いの中では、そのわずかな差が勝負をわける。
資金だけでなく、もっぱら怜の悩み事は、とにかく時間が足りない事だった。
父親と約束した学生が本業と釘を差されながらのレース活動は、思った以上に過酷だった。
学校の出席日数と成績は落とせない。
幸い学校の授業は電気や機械の基礎知識の講義や実習だったので、子供の頃から家業を手伝う怜にとっては経験のおさらい程度の簡単なものだった。
サーキットでの走行の他に、走行前後のメンテナンスが欠かせない。エンジンやブレーキをバラバラに分解して組み立て直す必要があった。
わずか30分の走行でも極限まで性能を引き出すサーキット走行は、レーシングマシンに大きなストレスがかかる。
メンテナンスには様々な消耗部品の交換の他に、たった2時間走っただけでボロボロになってしまうレーシングタイヤやブレーキパッド、ドライブチェーンなど、あげたらきりがない。
それらすべてが街乗りの耐久性重視の部品とは別物の、特殊素材を使った速く走るためだけに設計された精密機械だ。
レーシングマシンとは、最高のパフォーマンスを発揮するためだけに創られた鋼鉄のサラブレッドだ。
その性能を発揮する為の繊細なメンテナンスは、上限がない手間がかかった。
サラブレッドを駆るレーサーたちの殆どは、怜と同じように幾つものアルバイトをかけ持ちして、いつか走りに専念できるワークスチームに入る事を夢見てプロを目指しているのが実体だ。
そんな夢に全てをかける若者たちとの闘いの中で、怜にもその決断の期限が近づいていた。
「おれは、プロレーサーとしてやっていきたいのか?」
いつからか頭の中にずっとある、この問の答えを怜は探していた。
「オートバイ」は楽しい。
いや、怜にとって「オートバイ」は、怜を、今の怜にした、「怜」そのものと言って良い。
切り離せる一部などでもない。
殻であり、核だ。
「怜」という存在を形成する、無くてはならない要素だった。
その在り方を、怜は自分の在り様を選択する時を迎えていた。
このまま、プロを目指し、全て可能性を捨ててレースに人生を注ぎ込むか。
それとも別の道を選ぶか。
もうレース以外で関わる同世代の友人たちとの関係を続ける限界を迎えていた。
怜は、レーシングティームの社長に相談した。
社長は、いつものくたびれたツナギ姿で、怜の話を聞いてくれた。
そして、かつてプロとして全国各地を転戦した社長の「レーサーの現実」を話してくれた。
レース業界の現実は、華やかさとは裏腹にスポンサーに振り回される生活だ。
怪我や大事故で下半身不随になることも珍しくない。
ろくに生命保険にも入れず、将来への保証は何もない。
それをわかっているレーサー同士も、速く走るプライドよりも、スポンサーを獲得してより良い条件を手に入れる事を競う現実。
レーサーという職業を少しでも長く続ける為に潰しあう、ドロドロとした世界であること。
怪我が身体を痛めつける以上に、常に危険と隣合わせのストレスが心を蝕む、あまりに短い現役生活であることを話してくれた。
ここまでやってきて、怜もそれくらいのことは承知の上だった。
それでも現実問題として、レーサーの選手生命は短い。
引退した後は、自分のレーシングティームを持ったり、社長のようにオートバイの販売店を経営しながら若手に道を開く事に務めていく。
選手として輝くわずかな時間よりも、その後の
時間の方が圧倒的に長いのだ。
怜は嫌だった。
そんなにすぐ道を譲るのも、若手が育っていくのをただ見守るのも。
やっぱり自分が走っていたいと思った。
どうせ人生を賭けるなら、一生現役で戦いたい。
そして何より、たったそれだけの期間でしか培われない技術や知識なのかと。
世の中を見回したときに、ロードレースの世界とはそんなにちっぽけなものだったのかと、そのとき怜は思ってしまった。
レースは、怜の「オートバイ」ではなかった。
シーズン開幕直前。
この一年めいっぱい走ろう。
その先にきっと何か見えるはずだ⋯⋯
怜はそう心に決めてシーズンにのぞんだ。
怜の心は、やけに晴れ晴れとしていた。
そしてこれが、サーキットを駆ける怜の最後のシーズンになった。
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