第3話「失いたくないもの」
怜はオートバイに夢中だった。
毎日登校前に、早朝の峠道を街道レーサーたちと競うことが怜の日課になっていた。
端で見ていたら恐ろしいスピードも、怜にとっては恐怖に心臓を掴まれるこの世界だけが生きていることを実感できる時間だった。
恐怖心を無くした怜は街道レースにのめりこんでいった。
「もっと速く」「誰よりも速く」「誰にも前を走らせない」
そんな焦燥感の中で、怜は大きな事故を起こしてしまう。
VTは大破し、頭を強く打った怜は病院に運ばれた。
事故の大きさを考えれば、骨折も内臓破裂もないことは奇跡的だった。しかし割れたヘルメットのことを考えると怜の無事は疑うべきだった。
事故の翌週、怜は実習用の教材を買いに学校にいた。
事故後、体調は悪かったが、教材を買いそびれる面倒さよりも学校に行くことを優先した。
教材は職員玄関の外にある駐車スペースに業者が来て販売していた。昼食時間、大勢の生徒が行列をつくっていた。怜も同じクラスの忠志と列に並んでいた。行列はなかなか進まなかった。
怜は忠志の背中を眺めている内に気分が悪くなった。クラクラと目眩がした。やがて怜の周りの景色がぐるぐると回りだした。視界はゆがみ怜は立っていられなくなった。
「たのむ、教材、買っておいてくれ⋯⋯」
忠志に教材の代金を渡そうとすると、差し出された彼の掌が真っ白く消えていった。怜は握っていた代金を手渡すとひとり列を離れた。
やばいと思った。こんなことは初めてだった。ぐるぐる回る視界は、やがて外側から黒さを増し辺りはほとんど見えなくなった。
怜は校舎の壁伝いに職員玄関に入り、廊下を通って保健室に行こうとした。
怜が廊下に入る頃には周りは完全に見えなくなっていた。怜は壁にしがみつき、壁伝いに保健室まで行こうとした。
目眩でさらに狭まる視界の中で、今度はひどい腹痛が怜を襲った。腹痛はやがて全身のしびれになり、手足の感覚がなくなっていった。
「もう動けない」
保健室へと向かう長い廊下の途中で、怜はあきらめうずくまった。やがて怜の身体は氷のように冷たくなり動かなくなった。
全ての感覚を失い身動きもとれない、怜はたったひとり暗闇の中にいた。怜の意識はどんどん小さくなっていった。
「誰も助けてはくれない」
薄れていく意識の中で怜は覚悟を決めた。
すると真っ暗な怜の視界の中に、両親、兄弟、友達と過ごした記憶が浮かんでは消えた。
「ああ、僕の人生は今日終わるのか⋯⋯」
そう思ってみたが怜には何の心残りもなかった。
浮かんできたピカピカのオートバイたちも、怜は懐かしい気持ちで見送った。
何を見ても生への執着は感じなかった。
走馬燈の終わりが近づいている事がわかった。
そして舞台の終幕が降りるようにゆっくり意識が消えようとしたとき、急に「彼女」の顔が浮かんだ。
「雪村さん⋯⋯」
転がる消しゴムを見て笑いあったどうでも良い日常が再生された。陽だまりに包まれた温かな記憶だった。でも怜は何故そんな映像が流れるのかわからなかった。暗闇の中に消えていく意識の中で、怜の世界を薄く包んでいた感情に、その映像にはまるピースを探した。
「あぁ、そうか。僕は。まだ彼女にこの感情を伝えていない⋯⋯」
怜は自分でも気づかなかった感情にようやく気づいた。
「伝えなきゃ。僕はまだ、死にたくない」
怜は生まれて初めて、心から生きたいと願った。その瞬間、暗闇に消えようとしていた怜の世界は真っ白な景色へと反転した。
まぶしい光の中で怜をゆすり起こす先生と生徒たちの顔が見えた。
ゆっくりと怜はこの世界に還ってきた。
次の日、怜は雪村さんに「好きです」と告げた。
怜が生まれて初めてする告白だった。
自分以外の誰かを想い、その想いが心から溢れ出し、伝えずにはいられない感情の昂ぶりが自分の中にあることを怜は初めて知った。
怜は初めて恋をした。
そして⋯⋯⋯、あっさりとふられた。
当然のことだった。
雪村さんは怜のことなど何も知らない。
怜も彼女のことを何も知らない。
怜は思いを伝えた後の事を何も考えていなかった。
それでも怜は満足だった。
怜の雪村さんを想う心は確かにここにあるのだから。
怜は「失いたくないもの」を手に入れた。
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