第2話「VT250F」
金曜日、朝5時。夜が明けきる前の暁時。
怜は2階の自室から前夜にかけた梯子で車庫に降りる。銀色のシートを外して怜の新しい相棒、ホンダ「VT250F」を近くのガソリンスタンドまで押していく。
VTは先週納車されたばかり。タイヤにスピューが残るピカピカの新車だ。
苦労して手に入れたMBX50は、中型免許の教習を受けに行く脚として活躍してくれたが、制限時速30Kmの不自由さに負けて手放してしまった。時速90Kmのパワーを30Kmの鎖に繋いで走るのは、怜を切ない気持ちにさせた。
毎日ピカピカに磨いた相棒は、今はバイクショップで知り合った他校の男子生徒の元でミニバイクレースの競技車両として活躍している。
将来プロのレーサーになりたい言う彼は、次の最終戦で優勝すればシリーズチャンピオンに輝くらしい。
MBXは怜にレースという世界の存在を教えてくれた。
ホンダVT250Fは、水冷4サイクルDOHC4バルブ249cc Vツインのエンジンは40馬力を絞り出す。コンパクトで軽い車体に16インチという小径の前輪は、クネクネ曲がる山道でも軽快な走りができる。
怜の「もっと速く走りたい」と言う気持ちに応える新しい相棒だ。
早朝まだ開店前のガソリンスタンドに着く。洗車機の前にスタンドを立て燃料コックを開ける。
キーを回しニュートラルランプの緑色を確認して、スタータースイッチ押す。小気味良くセルスターターが回る。
「キュキュッ、ヴゥアアアアーーッ!!」
Vツイン独特のメカノイズの混ざった排気音が響く。タコメーターの針が軽やかに跳ね上がる。
「ヴゥアアヴゥゥゥゥ、ドコドコドコドコ⋯⋯」
アイドリングが安定する。Vツイン独特のサウンドが心地よい。
「ヴゥアァァァン、ヴゥァン、ヴァン、ヴァァンッ」
アクセルを煽ってエンジン回転の
早朝ということもあって暖気もそこそこに、サイドスタンドをはずして怜はVTにまたがった。
朝焼けの中、ゆっくりと国道16号線に向かって走り出した。
怜は茂樹が教えてくれたバイク漫画に出てくる峠道に憧れて今日まで腕を磨いてきた。
東京都八王子市にある大垂水峠は、「走り屋」と呼ばれる街道レーサーたちが集まる場所として知られていた。交通量の少ない平日の早朝には、プロのレーサーがこっそり練習に来ることもあるなどと、
公道レースは危険な迷惑行為だ。間違っても高校生が行く場所ではない事は怜もわかっていた。
怜がそこへ行こうと決めたのは昨夜のことだ。バイク雑誌に「走り屋の聖地」として大垂水峠を紹介していたのを見て、居ても立っても居られなくなった。
「よし!明日、学校に行く前に一人で行ってみよう!」と、あっさりと決めた。怜にとっては、ドキドキとワクワクの、ワクワクが勝っただけだった。
「死ぬまで生きる」ことに決めた怜にとって、やりたい事をやらない選択肢がなかった。
国道16号線で八王子方面に走り、橋本で津久井街道で相模湖を目指す。JR相模湖駅前交差点を右折して、国道20号線で八王子方面に向かうと急カーブが続く山道に入る。
のどかな山道を鳥のさえずりを聞きながら走っていると、一つ目の茶屋を過ぎて空気が一変した。オイルが焼ける甘い匂いが辺りを包むと、それは突然現れた。
「キィィーーン、バフゥオ!!パァアアア、ブシッ、パアアァアアーーアアアー⋯⋯⋯」
物凄い音量と迫力で4、5台のオートバイが数珠つなぎになって対向車線をすれ違う。
路面にヘルメットがつきそうなほど低く車体を傾けたライダーたちは、膝から火花を散らして駆け抜けていった。
その圧倒的なスピードと迫力に怜は面食らった。そのまま走っていると同様のバイク集団が数回通り過ぎ、やがて山間の空気がざわつき出した。
噂に聞いていた「峠の茶屋」の看板と大きな駐車場が見えた。奥にある木造の古ぼけた建物に茶飲み席が並んでいる。駐車場には色とりどりのオートバイがズラリと並び、その横には全身革ツナギのライダーたちがヘルメットを被ったまま談笑している。
怜が駐車場に入ると怜とVTに視線が集まったが、ジーンズにライダージャケットという出で立ちの怜を見て興味を失くし視線を戻した。
怜は隅の空きスペースにVTを停めて辺りを見回した。山側の落石防止フェンスの上にギャラリーが見えた。いつかテレビで見たラリー中継よろしく、真下を疾走する走り屋たちのバトルに熱狂する観衆が陣取っていた。
いったい自分は何処にきてしまったのだろう。怜は自分がレース場か、漫画の世界に入り込んでしまったような錯覚を覚えた。自分の知らないところで、こんな世界があるのだと素直に驚いた。
ピカピカのオートバイたちは、ここでは目にも止まらぬスピードで疾走している。その溢れるエネルギーは、怜に憧憬と同時に畏怖を抱かせた。
ふつうの高校生なら怖さが先だ。しかし死ぬまで生きるだけの怜にとっては、ただ見ているだけの方が怖いことだった。
怜は駐車場から山道を上り下りしているいくつかの集団をしばらく見ていると、中型バイクの一団に続いて走り始めた。
見様見真似でついて行こうとするが直ぐにおいて行かれる。坂下の茶屋でUターンするところに追いつくと、今度は登坂路を攻め上がる。「峠の茶屋」前のギャラリーたちの歓声をくぐり、頂上付近の退避スペースでUターン。また坂下の茶屋まで攻め下るのがこの街道レースの要領だ。
怜は最後尾の車両を見失わないように走るのが精一杯。先行するオートバイたちは同じ世界のものとは思えない速さだ。転んだら終わり。
カーブの度に胸の奥から湧いてくる心臓をギュッと掴まれるような衝動が怜に生への執着を感じさせた。自分はまだ生きていたいのだと実感できた。
追いかけて、追いかけて、離されてもまた追いかけて、怜は最後尾のヤマハRZ250に近づいた。得意のカーブでは近づき、苦手なカーブで離される。苦手なカーブをRZに習いながら少しづつ距離を詰めていく。怜の方が少しだけ速いカーブの進入で初めてRZの前に出た。RZは直ぐに抜き返した。抜きつ抜かれつを繰り返していると、RZは前を走っている緑のカワサキKR250を抜いた。
怜の眼の前がKRの吐き出す白煙で見えない。マフラーから飛び散ったオイルで怜のヘルメットシールドは虹色に滲んだ。
怜は時間を忘れて夢中で走った。
RZとKR、怜のVTで演じる抜きつ抜かれつのバトルは、怜にこれまで感じたことがない高揚と衝動を与えた。
何周回ったかわからなくなった頃、先頭を走る黒いVTが手を上げて「峠の茶屋」に入っていった。皆も続いて入っていく。怜も駐車場に入って我に返った。
時計を見ると7時半を回っていた。学校に行くなら帰る時間だ。怜は慌てて駐車場から帰ろうとすると、それを見ていたRZとKRのライダーが手を振っているのが見えた。
怜は一度後ろを振り返り誰もいないことを確認すると、手を振って駐車場を後にした。
怜にとってそれは、これまで経験したことがない不思議な体験となった。
子供の頃から高校まで、人付き合いは学校という誰かが決めた集団の中だった。学校もクラスメイトも自分では選べない。
趣味や考えが違っても「協調」という見えない力で集団に迎合させられた。
集団に属さなければ、自分が何者かも説明できない社会だった。集団から外れる事は恐怖でしかなかった。
怜は今、オートバイに乗るためだけに生きている。良い大人に成るためでも、良い会社に行くことでもない。生まれて初めて自分の為に生きていた。
その感覚を共有できる友達は周りにはいない。茂樹や翔太とも、真司とさえそれは共有できるものではなかった。
今日出会ったばかりの彼らと、言葉を交わしたわけではない。ヘルメットの奥の顔もわからない。名前も知らない。
それでも、恐怖をねじ伏せてしか届かない領域に彼らはいた。自分と同じ、ただ走るためにそこに在った。言葉を交わすまでもなく、怜にもそれがわかった。
「またな」
帰り際にこちらを見るヘルメットの中で、彼らがそう言っているのが確かに聞こえた。
怜はVT250Fに、言葉がいらない世界がある事を教わった。
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