第13話 記憶の扉
あたしは小さい頃、一人で行動することが多かった。
それは習い事が多かったことや、なるべく親に迷惑をかけたくなかったから。子供心に可愛がられているのは感じていた。
その日は珍しく迎えに来てくれる日だった。だから嬉しくて浮かれて、携帯電話を忘れるなんてポカをしたのだろう。
「お姉さん!」
自分の声に世界が一気に色を取り戻す。
無音の世界と鮮やかな色。音だけがない世界で、小さなあたしは必死に女子高生に呼びかけていた。
彼女の白いシャツはどんどん赤く染まっていく。
赤いしずくが滴り、地面に花のように広がった。
必死に抑えれば、赤はあたしの手にまで広がる。どこまでも赤い液体が世界を埋め尽くしている。
夢を見ていた。まだ小さかった自分と、寅川さんの夢。
「いや……!」
声にならない悲鳴が喉の奥で押し潰される。
これはあたしの声か、10歳のあたしのものか。自分でも分からない。
小さなあたしは必死に寅川さん——立夏さんを支えようとしていた。
「助けなきゃ……」
口から言葉がこぼれる。ただ子供ながらに、彼女の命がこぼれていくのは感じていた。
自分には何もできなかった。ただ見ていることしか。そう思ったときに、彼は現れた。
「君、このお姉さん助けたい?」
すらりとした男の人だった。パパよりは若いはずだけど、学生にしては落ち着きすぎている。
黒いシャツに黒いパンツ。普段だったら近づかない人だ。
彼の顔には微笑があったが、その笑みはどこか空虚で恐ろしさを孕んでいた。
何もかも吸い込みそうな色の薄い瞳だけが、ランランとしていて怖い。
だけど彼の低く響く声が耳を打った瞬間にあたしは頷いていた。
「助けたいっ」
間髪入れず答えた。
自分でも驚くほど即答だった。迷いはなかった。
男はあたしの答えに微かに口角を吊り上げ目を細める。あたしの反応を楽しんでいるような顔だった。
「じゃあ、僕と取引をしよう……君の命と交換だ」
とんと胸を突かれた瞬間に視界がぐるりと歪む。
世界がモザイクのような粗さに変わり、徐々に輪郭を失っていく。
これがあたしが忘れていた記憶だった。
*
目を開けた。天井がぼんやりと見える。
息が荒い。汗が額に滲み、背中がじっとりと冷たく濡れていた。
悪夢。いや、記憶と言った方が正しいのだろう。
「最悪……」
頭の痛みはなくなっていたが、それ以外はすべて最低の状態だった。
喉がからからに渇いていた。唇を舐めるが、意味をなさない。
乾燥してひび割れる前にケアをしないと。女優のあたしがそう言ってくるが、夢の残渣が身体にまとわりついて離れない。
鼓動が速い。まだ夢の続きの気分だった。いや、実際そうなのだと知ってしまった。
「おや、やっとお目覚めかい?」
声がした。さっきまで夢の中で聞いた声だ。
甘さを含んだ声は男性と女性を曖昧にさせる。どこかくすぐるような響きもある。
視線を横に移すと、ベッドサイドの椅子に男が座っていた。
長い脚を組み片手を顎に添えながら、にこりと笑ってこちらを見ている。
「……綺羅」
男の名前もするりとあたしの口から飛び出していった。
取引を思い出したんだから当然か。
あたしはただ彼を見つめた。
「ずっと側にいたんだね。見えないだけで」
「そうだよ」
綺羅は肩をすくめ、あたしの言葉に頷くと足を組み替えた。
その顔には相変わらず軽薄な笑みを浮かべている。
「とうとう代償を貰う日が近づいてきたみたいだからね」
その言葉に、背筋がぞくりと冷えた。
代償はあたしの命だ。あたしの命の代わりに、立夏さんの命を助けてもらったから。
今まで忘れていたにしては、やけにはっきりと契約について思い出せる。
これもすべて思い出したからなのか。
「立夏さんと会ったから?」
「そう!」
あたしは立夏さんの名前を口にした。寅川さんと呼んでいたけれど、名前でいいとレッスン終わりに言われたのだ。
今日初めて会ったと思っていた人。目を見た瞬間に惹かれた人。
それがこの記憶のせいだとしたら——あたしは自分の胸の中に苦いものを流し込まれたような気分になる。
そんなあたしと正反対に、綺羅はまるで出会いを祝福するように両手を広げた。
「とても良いね、久しぶりの再会での一目ぼれ……ロマンティックだと思わないかい?」
「知ってたから黙ってたの?」
あたしは布団を握りしめる。
彼女のために命を使っても、この感情まで操作されるのは嫌だ。
あたしの問いかけに綺羅は薄く笑う。
「さぁ、君が一目ぼれするかまでは僕がどうこうできるものじゃないよ」
その言葉にあたしは自分の中の苦しさが薄くなったのを感じる。
自分が生きていることを確かめるように、胸元に手を置く。
立夏さんを思い浮かべると口元が緩んでくる。
あたしは笑った。
「じゃあ、この感情はあたしのものね」
「そうだね」
「なら、いいわ。立夏さんに一目ぼれしたのまで綺羅のせいだったら、今すぐにでも死にたい気分だったけど」
立夏さんのために命を使うのは悪くない気がした。
実感がないからそう思えるだけなのかもしれないけれど。
あたしの言葉に綺羅は少しだけ唇をへの字にする。
「おっと、そんな味気ない死に方は止めてくれよ」
初めて聞く単語にあたしは首を傾げた。
死に方に味気ないも何もないだろう。少なくとも、彼が欲しいのはあたしの命のはずだから。
「そういう契約でしょ?」
「僕は死神じゃないよ」
あたしの言葉に綺羅は指を軽く振り、否定する。
どういうこと?
と、そのまま綺羅をまっすぐに見つめると、彼は顎に指をあてて答えた。
「命が欲しいわけじゃなくて、命に付随する感情も欲しい」
「感情?」
「うーん……なんていうかな、命だけだと味気ないわけ。そこにその個人の感情が乗って初めて美味しいわけ」
命が材料で、感情が味になる?
綺羅の説明をあたしなりにかみ砕く。
「調味料的な?」
「そうだね、そんな感じ……僕は、僕好みの感情を出してくれそうな人と契約するから」
「綺羅はどんな感情が好みなの?」
あたしは綺羅のお眼鏡にかなったわけだ。
あの時は目の前の優しくてきれいなお姉さんを助けたくて必死だったわけだけど。
そう考えるとあたしは10歳の時に、もう立夏さんに一目ぼれをしていたのかもしれない。
あたしの質問に綺羅はゆっくりと口角を吊り上げた。
「絶望の中で死ぬ魂」
「趣味悪っ」
絶望の中で死ぬ魂って、最悪の死に方じゃないか。
あたしは顔をしかめると吐き捨てるように綺羅に言った。
「そういわれても、しょうがないじゃない。嗜好品ってそんなものだよ」
酷いことを言われても、綺羅はまったく動じず肩をすくめるだけ。
嗜好品。彼にとって命は食べ物で、感情は楽しむものなのだ。
それにしても絶望の中で死ぬって——と考えて、あたしは顔をしかめた。
「ってことは、あたしは絶望の中、死にそうってこと?」
「君はね、欲しいもののためなら躊躇わないから……きっとすっごい幸せになると思う」
思っていたことと正反対の答えが綺羅から返ってきた。
思い切りが良いとは昔から言われるけど、綺羅の言い方だと不吉な匂いしかない。
あたしは理解できず首を右に左に大きく傾げる。
「うん? 駄目じゃない? あたし、褒められてるよね」
「すっごい幸せなれる人間じゃないと、絶望しないから」
ぱちぱちと瞼を何度か動かしたあたしに、綺羅は淡々と言う。
その言葉が胸の奥を鈍く刺した。
確かに幸せを知らなければ絶望を知ることもないだろう。
綺羅の言葉を噛みしめれば噛みしめるほど、胸の奥の苦みは増していく。
「……やっぱり趣味が悪い」
あたしは面倒な奴と契約したのかもしれない。
幸せの中で死ぬ魂が好きな奴はいなかったのだろうか。
なんて半分現実逃避のように考えながら、あたしは小さくため息をつく。
綺羅はあたしの様子に目を細め、にっこりと笑った。
「君が一番幸せな時に死ぬようにしてあげるね」
穏やかに、甘く、それでいて絶対的な死亡宣言。
あたしはその言葉に答えず、ただ頭を抱えた。
一目ぼれと、最悪の気分を一日で味わうことになるなんて思ってもみなかった。
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