第2話 高いところ(1)

 照りつける太陽と地面から湧き上がる熱に挟まれて体の中の隙間がすべて押しつぶされた。足を踏み出す動作さえ難儀に感じられる。仮面と顔の間に熱がこもり、涙のように大粒の汗が顔を伝った。西村は周囲に人がいないのを確認して仮面を外し、顔をぱたぱた扇いだ。顔の表面に当たった風が一瞬涼しさを与え毎秒去っていく。

 四号棟の空気は水の冷たさだった。汗ばんだ肌が冷やされて粟立った。再び仮面で顔を覆い、西村は階段を上って誰でも相談室に入った。


 アルプスの山々に囲まれながら書類を整理しているとノック音が響いた。

「どうぞ」

「すみません、西村先生。さっき当日予約が入りました。十四時からなんですが大丈夫ですか」

 ドアから半身でこちらに話しかけるのは富津だった。眼鏡をかけた三十代くらいのスタッフで、男性なのか女性なのかよくわからない。言い聞かせるようにハキハキとしゃべるのが特徴的だ。少し前に相談室が模様替えとして白だった壁紙を群青に変えていたが、その際にはハキハキ声で全然気分が落ち着かないとひとしきり愚痴っていた。

「大丈夫です」

「覚えてますかね、去年ちょっとだけここに来てた急須さんって人なんですけど。西村先生が担当してましたよね」

「ええ、覚えていますよ」

 教員が私的な交流を求めてくるので困っているという内容だった。教員からの発言や連絡を証拠として残し、ハラスメント窓口へ持ち込んだ。

 急須はおおらかでいかにも経済的余裕のありそうな雰囲気の学生だったと記憶している。

「んじゃよろしくお願いします。さっき聞いた感じだと友達関係のトラブルみたいですね」

 言うと富津の半身は素早く消えた。


 予約された時間になり、急須がドアを開けた。

「お久しぶりです、先生。昨年はすごくお世話になりました」

「お久しぶりです」

「またお会いできてうれしいです」

 言いながら急須は座った。長い黒髪がさらさら音を立てた。

「私もうれしいです。今日はどうされましたか」

「ええと、私には別の大学に通う友人がいまして、中学の頃の同級生なんですが、彼女との関係がちょっと……うまくいっていないんです」

「なるほど。うまくいっていないというのは」

「その……先生、大学の前でよく抗議活動みたいなことしている集団がいるでしょう」

「いますね」

 つい今朝も見た。魔術師の大学だからだろう、毎日のように拡声器越しの彼らの主張を聞いている。魔術は巨悪である、我々は魔術を滅ぼさなければならないと繰り返している。

「私の友人が……そこに入ってしまって……」

「ああ」

 西村は嘆息した。

「すごく仲良くて、私が長い間付き合えている唯一の親友なんです。でも、あの人たちとかかわるようになってから明らかに私のことを避けていて……」

「それはお辛いでしょう」

「そうです。でも悲しんでばかりいても仕方がないですから、どうにかよりを戻してくれないかと考えているのですが……以前私の悩みを解決してくださったときみたいに、先生の知恵をお借りできればと思いまして」

 急須は粗末な椅子の上でも背筋を伸ばし、心から西村を信用しているような表情をしていた。

「急須さんが魔術師であることが分断の理由になっているのなら、魔術師であることをやめてみては」

「そうですね……本当に必要になったらそうするべきかもしれませんが……」

「冗談です。やはり、ご友人をあの集団から引き離すのがいいのでしょうね」

「それができるなら一番いいんですけど、かなり傾倒しているというか、そんなの信じる価値ないと言っても全然聞く耳を持たない感じでして」

「もう説得は試みたのですね」

「はい……」

 急須は悲しげに口を引き結んだ。

 部屋が夜の暗い森になった。

「そのご友人はどんな方なんでしょうか」

「私とは真逆って感じです」顔に少し柔らかさが宿った。「服装とかメイクが結構派手ですごくかわいいなって思います。私には一生まねできないからうらやましいです。明るくて誰とでもすぐに仲良くなれるのでいつもあの子の周りには人が集まってます。頭はあんまりよくないんですけど感情が豊かで、私にはできないものの見方ができているのですごく尊敬します。あんな素敵な子が、私を気にかけてくれているってだけでとてもうれしいんです」

 立て板に水の賛辞だ。

「とても大事な方なのですね」

「はい、とても」

 うなずく急須を見て、西村はどうするべきか考えた。

「学内ではカルト系のサークルやマルチ商法にまつわる相談や取り締まりに力を入れていますが、外部の集団、学生となると働きかけるのも難しいです」

「ええ」

「ですから、あくまで個人間の問題として対処しなければならないでしょう。急須さんがそのご友人を引き戻すということです」

「私が……。説得できなかったのですが、できるでしょうか」

「やってみないことにはわかりません。ご友人がなぜあの人たちに取り込まれてしまったのか。どのような思想でものめりこむにはそれなりの理由が必要ですから、それを突き止めるほかないでしょう」

「そうですね……私も、なんで彼女が急にあんなところへ入ってしまったのかわからないのです。でも、どうやって調べればいいのでしょう」

 どうやってと言われると西村に考えはなかった。

「どうやってと言われると考えはありませんね」

「あら」

「来週までの課題とさせてください。それまでに考えてきます。急須さんも、ご友人と連絡を取ってみることはできないか、取れるならなぜあんなものにはまっているのか聞いてみてください」

「わかりました。メッセージは全部既読無視ですが、聞いてみます」

 急須は優雅に礼をして部屋を出て行った。


 いつの間にか出勤していた愛宕がノックもせずに「すみませーん」と相談室に入ってきて「クッキーあるんで食べませんか」と言った。

「今行きます」

 相談室のドアから入って手前の丸机にはすでに富津が腰かけていた。その上に青のクッキー缶。

「あーお疲れ様です」

「お疲れ様です。頂き物ですか」

「そうなんですー。三吉先生の担当されてた学生さんがお礼に持ってきたんですけど、次三吉先生来るの夏休み後なんで、勝手に頂いちゃおうって」愛宕がアイスコーヒーの入った赤いマグカップを持ちながら富津の向かいに座った。「私チョコクッキー食べたいです」

 三吉は法律問題にまつわる相談の相談員で、ひと月二回しかここに来ない。西村も何度か言葉を交わした程度の関わりだったが、正直なところ耄碌した七十がらみの男という印象だった。それでもクッキー缶をもらえるくらいには頼りになるのだろう。

「まあ三吉さんクッキーよりも煎餅って感じだしね」富津は迷いなく一番豪華な見た目のジャムクッキーを手に取った。

 西村も手前のプレーンのクッキーを食べた。そうでなくても和気あいあいとした職場というわけではないのに乾いたものを食べると余計会話が滞った。バターの香りと、何か口の中でざりざりする粉の食感をゆっくり楽しんだ。

 富津が口を開いた。

「急須さんだいたい一年ぶりですよね。去年と同じ話なんですか」

「いえ、全然違いました。なかなか難しい悩みをお持ちのようです」

「えー急須さんって美人ですごいお嬢様って感じの子ですよね。こんなお金持ちで美人でも悩むこととかあるんだなって思ったのでなんか覚えてます。もしかして恋愛相談的な?」

 愛宕が口を開いた。

「そこまでは言えません。お金を持ってるかとか容姿とかが悩みと関係しますか」

「そりゃしますよ。ここに来てまで相談することでもないから先生あんまりピンと来ないかもしれませんけど、私の悩みなんてだいたいその二つあれば解決するかも」

 富津は二つ目のクッキーに手を付けた。

「美人には美人なりの、金持ちには金持ちなりの悩みがあるんじゃないですか。自分は最近寝つきが悪くて朝なのに結構疲れちゃうんだけどこういうのってどうにもならないですよ、本当に」

「えーでもお高い睡眠導入剤ならよく効く、みたいなお金系ソリューションってあると思います」

「まあ確かに」

 西村も確かにと思った。物質で解決できる問題なら対価を持っていればいるだけ手の打ちようがあり、それなら魔術も同じはたらきをすることがあるのだろう。

「美人なり、お金持ちなりの悩みなんて私にはすごく贅沢に思えます」

 電話が鳴った。愛宕と富津は顔を見合わせ、愛宕が立ち上がった。

「お金系ソリューション、ね」富津はまたジャムクッキーをとった。「お金に頼らずとも、すべての悩みが物の過不足でできてるんならここの学生は悩まなくて済んだのかもしれませんが。自分たちは魔術を使えないのでどうにもわかんないですね。先生はどう思いますか」

「魔術で解決する悩みがあるぶん、魔術によって生まれる悩みもあるようですね。そう簡単に衡量はできません」


 定時、夕方、校門の外に件の集団がいた。ゴミに囲まれている。これまでまともに耳を傾けたことがなかったが、何かの役に立つかもしれないと西村は考えた。ポプラにもたれながら丸太のような声に集中した。しかし演説の内容はとりとめがなくどうにも魔術師を敵視しているらしいということしか頭に入らなかった。ポプラと西村の姿が強い西日に焦がされ大きな影小さな影を落とした。小さな影が集団に近づいた。

「こんにちは」

 人の塊が震えた。「何だお前は」威勢のいい声が上がった。集団だと思っていたものはよく数えると七人だった。

「大学職員です」「魔女!」「違います。私は魔術を使えません」「じゃあなんでなのよその気持ち悪い仮面」「これは趣味です」「趣味?」「あなたたちについて知りたいのですが」「知ってどうするのよ。私たち殺すの」「殺しません。知られたくないのにここで話しているのですか」「何だお前は。適当なこと言うな」「少し質問に答えていただくだけでいいのですが」「近寄んないでよ」

 ゴミ捨て場にここまで長くとどまったことはなかった。どろりとした匂いが立ち上り、西村は吐き気を覚え、口を押えた。なぜ目の前のキンキン声たちはずっとここにいられるのだろうと思った。

「あなたたちのお仲間には若い方もいらっしゃるのですか」

「いるよ当たり前じゃないみんな魔術師のこと嫌いなんだから」

「なぜ嫌いなのですか」

「だって私たちひどいことしてきたじゃない。今もしてるじゃない。これからもするじゃない」

「ひどいことって例えば……」

 すると七人が一斉にしゃべりだした。ツバメのヒナのように大きく口を開き、肩をぶつけあっている。激しい声に頭がシェイクされ、喉元にクッキーがせりあがってきた。西村は喉に力を入れてせき止めようとして、その分めまいがした。

「そんなことも知らないの?」

「え?」

「魔術師たちが何をしてきたか何をしているのか何をするのか、知らないわけないよね」

「歴史上の事実については教えていると思いますが」

「いや、教えてないね。むしろ魔法で人を洗脳する方法とか殺す方法教えてるんだろ」

「魔術大学とは言いますけど、魔術師が通ってるというだけ……で、教えるててる内容はあの、普通の大学と変わらないんでぐげご」

 視界を次第に緑の砂が覆っていく感じがして西村はその場に膝をついた。

「大丈夫?」「誰かから狙われてるんじゃ」「ここで死なれたら困る」「熱中症じゃない、普通に」

 また口々に話し出すので西村は声を絞り出した。

「黙って」

 すると黙った。地面に近づくと体が蒸され、立ち上がろうとしたが力が入らず背中を打ち付けた。首にアスファルトが当たった。熱い。それでも体の芯は冷えて震える感じがした。青空と砂嵐と七つの顔が見え、もう駄目だと思ったし、そのあとの記憶はない。


 目を覚ますと毛足の短いグレーのカーペットの上だった。西村はそれほど広くない事務所のような場所の、ガラス扉のそばに寝かされていた。隙間風が体の右側に当たっている。中年男の顔がこちらをのぞき込んでいたので悲鳴を上げそうになった。

 ゆっくり体を起こすと先ほどまでの七人組が部屋におり、よく見るとそれぞれに顔があり、女三人に男四人の構成だった。

「起きたね」声の主はピンクのジャンパーを着た中年女で、おそらくさっき西村との会話を進めていた人物だった。空間の半分を占める応接スペースの革張りのソファに深く腰掛けていた。「嘘かと思ってたけどあんた本当に魔女じゃないのね」

 女は勝手に西村のバッグの定期入れの中から職員証を取り出していた。

「うん」

「おい、なんで魔女じゃないってわかるんだ」

「なんかカウンセラーとか民生委員とかそういう人間の心にかかわる人たちって基本的に魔術師はなれないって聞いたことあるのよ。相談員っていうのがなにかはよくわかんないけど似たようなものでしょ」

「本当?」

「本当だよ。心と魔術って相性悪いだろ」

 西村は言って机の上に置かれていた二リットルの緑茶を紙コップに注いで飲み干した。ぬるいが乾いた喉には美味かった。

「あんたさっき魔術師についてなんか言おうとしたから変な魔術かけられたんじゃないの」

「そうかも。怖いね」

「ポカリ飲むか?」

「もう大丈夫。ありがとう」

 西村は部屋を歩き回ってみた。一直線に並べられた木製の机に若干低い椅子が据えられ、五人が掛けている。壁際には扉付きの本棚があり、フロアの隅には流木のようなものが置かれている。妙に落ち着く空間だ。

「ここってどこ。私を運んでくれたの」

「私たちの事務所よ。車に乗せてきたけど大変だったわ」

「事務所?意外と小さいんだね」窓に近づいた。「あっスカイツリー」

「うちはオンライン中心だからこれでいいの。SNSのフォロワーだっていっぱいいるんだから。五千人くらいいたっけ?」

「いや、一万人くらいいるぞ」「五万人」「百万人」

「宗教?」

「違うわよ。魔術師から世界を守るために戦ってるの。神様なんていないしお金集めたりもしない。ここの維持費は善意でもらってるけど」

「ふうん」

「何?」

「思ったより真面目なんだなって」

「真面目よ。大真面目」ピンクジャンパーはよく見るとまともな身なりをしていた。「あんたこそなんであんな場所で働いてるの」

「趣味」「趣味?」

 西村はピンクジャンパーの向かいに腰かけた。合皮の表面が腕に張り付く感じがした。

「あのさ、聞きたいことがあるんだけど」

「何?」

「私の……友達がここにいるみたいで、気になったんだよね。なんでここに入ったんだろう」

「そのお友達の名前は?正式な会員なら名簿に載ってるかも」

「忘れちゃった」「忘れた?」「魔術のせいだ」「まあひどい」

「年齢とか、住んでる場所がだいたいわかれば絞り込めるんじゃないかね」男が分厚いファイルを持ってきた。

 西村は急須の話を思い出した。

「女、年齢は二十一…か二十二、多分東京に住んでるけど引っ越してるかも」

 男は難しそうな顔をしてファイルをぱらぱら捲った。

「うーん名簿なに順なんだ」「入会した順よ」「そうか。入会したのは最近か?」

「最近か最近じゃないかと言ったら、最近」

「おい、最近若者が結構入ってるぞ。なんだこれは」

「あらあなた知らなかったの?そういえばこの前の定例会休んでたね。若い子今すごい増えてるのよ。なんでかはよくわからないんだけどフォロワーも増えてるの」

 西村は名簿をのぞき込んだ。直近二、三か月、女、二十一か二十二、東京という条件でも五人以下に絞れなかった。

「へえ、でも若い子が大学の近くで魔術師を許すなーってやってるの見たことないんだけど」

「そう、声かけ運動には参加してくれないのよね。忙しいんじゃないの。講演会にはよく来るんだけど」

「講演会があるの?」

「あるよ。月一回ね」

「このフリヒトを始めた大河原先生が登壇して話してくださるんだ」ここはフリヒトというらしかった。「君ももし興味があれば来るといい」

「そうよ。初回は参加費が無料だからいいんじゃない」

「えっお金かかるの」

「当たり前でしょ。大河原先生がわざわざ来てくださるんだから」

 聞いたことのない名前だったが、ここの人達には崇拝されているのだろう。違うと言われたが宗教じみているではないかと西村は思った。

「なるほどね。確かに興味はあるかも」

 七人が嬉しそうに西村に視線を向けた。

 魔術師がこの世の悪であるとかどうかには興味がなかったが、急須の友人について知る機会になるのなら参加する価値があるのではないかと思われた。

 ピンクジャンパーが西村の両手をとった。かさかさした手のひらを感じた。西村の母親でもおかしくはない年齢だ。

「そう!じゃあ次の講演会がちょうど今週末だから、ぜひとも来てちょうだい。受付で名前を言ったら参加費払わずに入れるから」

 講演会の行われる会場を告げられた。

 勝手にソファでくつろいでいると、七人はいそいそとまた出ていく準備をしはじめた。

「忙しいね」

「そう。今から駅前で活動するからそんなに休んでられないよ。あんたも来る?」

「まさか」

 西村の言い方は笑いを含んでいたが、ピンクジャンパーが気分を損ねた様子はなかった。

「じゃあ鍵閉めたいから先に出てってちょうだい」

「わかった。お茶ごちそうさまでした」

「どういたしまして」

 西村はバッグを持って出ようとしたが、ひとつ聞きたいことがあって振り返った。

「あのさ、大学の塀に落書きしたり周りにゴミ撒いたりしてるのってここの人たち?」

 中年たちは眉を顰め舌打ちもした。

「あんな下らんことをすると思ったのか、俺たちが」

「どうだろう」

「見つかって捕まるようなことはしないわよ。いたずらみたいなことしたって世の中は変わらないし。言ったでしょ、魔術師はみんなから嫌われてるって。この前だって魔術を使った詐欺が話題になってたのもう忘れたの」

「なるほどね。もう一個聞いていい?」

「どうぞ」

「具体的に何をしたいの?あなたたち」

「魔術が有害だってみんなにもっと知ってもらって、魔術を使わない頼らない世の中にするの」 

 ピンクジャンパーの言葉は淀みなかった。

「ふうん。頑張ってね」

 返事を聞かず西村は事務所から出た。夏の日はまだ暮れ切っていなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る