魔術は救えない
合野(ごうの)
第1話 朝寝
正門をくぐると世界が一変した。
正面通りの両側にまっすぐに伸びた新緑のポプラとサークルの新歓。体験入部や飲み会や公演のビラを配る手が右から左から前から伸びてくる。ダンス、囲碁、討論、テニス、アカペラ、映画、ボランティア……。もしそれを一つでも手に取ろうものなら新入生とみなされ人の群れに飲み込まれてしまうだろう。昆虫の死骸に群がるアリのように。しかし、大学生たちが西村を標的とすることはなかった。顔全体を覆う仮面のせいかもしれない。
並木を抜けてすぐに左へ進路を向けるとすぐに四号棟が見える。飾りのない灰色の直方体。他の建物と比べると学生の出入りはまばらである。
簡素な自動ドアが開くと、光に慣れた目が暗闇にさらされ、西村はしばし何も見えなくなった。二階まで吹き抜けるエントランスは、足元の間接照明と二階の高さの小さな明り取り窓しか光を許さず、日中であっても不安なほど暗い。目を凝らせばエントランスには四人掛けのテーブルが十脚ほど据えられており、学生が勉強や歓談に興じるのを促しているはずなのだが、この空間では相手の顔を見るのも文字を判別するのもままならないだろう。実際、今は西村以外の人影はなくいっそう静けさと暗さが沁みた。壁際にはアップライトピアノが置かれていたが、それが弾かれているところは見たことがない。
西村はエントランスの奥の螺旋階段を三階まで上った。たどり着いたフロアは一階と比べると幾分明るかった。入口の側には大きな講義室が一つ、建物の奥の方には一つ廊下が伸び、手前からカウンセリングルーム、誰でも相談室、キャリアセンター。目的地は二番目の扉で、木製の重厚なそれには「誰でも相談室」という表札と、手書きで「どんなお悩みでもOK!気軽にどうぞ!」という文字の踊る張り紙がある。ギチャチャチャと音を立てながら開けると明るく無菌ぽさのある部屋があらわれた。
正面の受付のスタッフが軽く会釈し、西村も形ばかり頭を下げた。受付の向こうにはスタッフたちのデスク、右手には机と椅子、左手には法律問題や精神疾患や魔術師向けの就職活動に関する書籍の並ぶ本棚、本棚の上にはポスターが見える。「一人で悩まないで」「メンタルヘルス講義 参加無料 申込は5月15日」「誰でも相談室 月~土・九時~二十一時」。西村は本棚の奥、部屋の入り口から見えない奥まった場所に三つ並ぶ個別相談室のうち中央のドアを開いた。
燦燦と陽光の照らす茶畑を歩き、西村は部屋の中央のデスクに荷物を置いた。三つのドアの並ぶ間隔からすると部屋の内部空間は明らかに広すぎるのだがそのことを深く考えたためしはなかった。デスクの対辺に椅子が二脚向かい合わされ、入り口から見て奥側の、パソコン画面の見える方が西村の席、もう片方が相談者の座る席だった。無造作に置かれたリモコンのスイッチに触れると茶畑が深海になった。相談室の六面、壁床天井が映し出す映像だった。
西村は今日のスケジュールを確認した。今日の相談者は四人。うち、昼の休憩時間直後の時間帯を予約しているのは新規の学生だった。予約内容に目を通す。
「朝起きられないせいで、必修講義の単位を落としてしまいそうです。どうすればいいでしょうか。」
座面と背面に申し訳ばかりのクッションを備えたワーキングチェアに深く座るとギギッと鳴った。誰でも、どんな悩みでも、気軽にを標榜している効果か、他人に言うまでもないような相談もたびたびやってくるが、悩みの外郭だけでは内心は計れない以上どんな相談者にもちゃんと向き合うを相談室の指針にしている以上、西村はそれらを軽視しないよう心掛けていた。部屋から出て受付カウンターの内側のコーヒーメーカーで一杯コーヒーを淹れて戻り、西村は相談者を待った。
「もともと早起きが苦手なんで去年は一、二限に授業入れないようにしてたんです。でも、今年は一限に必修講義が入っちゃって、おととい二回目の授業だったんですけど連続で欠席しちゃいました。あと四回休んだら落単なんですけどこの調子だと絶対無理じゃんって。でも必修だから落とせないし、落とせないってわかってるけど朝起きられなくて。もうピンチです」
「朝起きられない原因はわかっているのですか」
「はい。すごく朝弱いっていうのもあるんですけど、私、目覚まし止めちゃうんですよ。無意識で。止めても大丈夫なように三つ目覚まし時計用意してスマホのアラームも設定してるんですけど、それでも止めちゃうんです。なんか、無意識で念力使っちゃってるみたいで。軽いもの動かすぐらいのサイコキネシスなら簡単な魔術じゃないですか。だから鳴った瞬間に体が勝手にポチポチーとしちゃってるんです」
本日二人目つまり新規の相談者は庭日みもざ、商学部二年の女子だった。初めて入る個別相談室に戸惑う様子を見せていた。服装が上から、薄い黄色のカーディガン、黒の着け襟、白地に英文の書かれたTシャツ、紫のひざ丈のプリーツスカート、ピンクの便所サンダルという西村には理解のできない一貫性の通った服装だったため入室した姿を見るなり言葉を失ってしまったが、話してみるとごく普通の学生であった。彼女は朝起きられないことを真剣に悩んでいるようだった。
「なるほど。三限以降に授業が入ったときは問題なく起きられるのですか」
「起きられます。別に睡眠時間が足りないわけではないと思うんです。ちゃんと寝てるし。朝にすごい弱いだけなんで、朝早くなければ普通に出席できてます」
「魔術を使ってしまうことで朝起きられなくなるということなら、いっそ魔術を使えないようにしてみるというのはどうでしょうか」
「適性の除去手術のことですか?嫌ですよ……」
庭日は椅子の上で背を丸め、軽いボブヘアが揺れた。
「冗談です。高校生の時はどうでしたか。起きられていましたか」
「うーん、その時は実家だったんでお母さんに叩き起こされてました。それでも体がだるくて学校休んじゃうこともありました」
「体のだるさを感じることがあるのですね」
「はい。眠いっていうのももちろんあるんですけど、なんか体が重いっていうか疲れてる時とおなじで動かす気力がわかなくて動けないみたいな感じで」
それなのに魔術は使えるものなのかと西村は思った。
「あくまで可能性の話ですが、朝に起きられないのは魔術だけでなく病気が関係しているかもしれません」西村はキーボードを引き寄せて心当たりのある病名を調べた。「ほかにも立ち眩みや疲れやすいなどの症状があるなら一度医者に掛かってみたらいいかもしれません」
「そんな病気あるんですか?」
「はい。これまでここに来た学生にも同じ症状の人がいました」
「確かに立ち眩みは結構します。貧血かと思ってた」庭日は自分に確かめるようにうなずいた。「病院行ってみようかな」
「もし診断書が出れば、授業を休んでも教授に代替措置など取ってもらえる可能性があります。治せる病気なら治療や努力ができます」
西村は病名を伝えた。庭日は慇懃にスマホにメモした。
「私、病院行ってみます。寝すぎちゃうのどうにかできないかなってずっと思ってたし。先生本当にありがとうございました。なんか、こういう相談室って話聞くだけで役立つアドバイスとかしてくれないんじゃってちょっと思ってました。来週また来ます」
相談者は元気に立ち上がって出て行った。
西村はそれを見送り、報告書の作業に取り掛かった。この時期は新しい壁に行き合う学生が多く、当日予約も入りやすい。手早くまとめて提出し、二杯目のコーヒーを取りに行くと、暇そうなスタッフに呼び止められた。愛宕という若く少し化粧の派手な女性だった。単調な仕事は甲斐がないのか西村の姿を認めるとしばしば立ち話を持ち掛けていた。「さっきの子、すごい嬉しそうに出ていきましたよ。さすが西村先生ですね」
「いえ、私は解決の手助けをするだけなので」
「それがすごいんじゃないですか。なんか先生って、仕事のできる女性って感じがしますよね」
「ありがとうございます」
「そういえばどうして大学で相談員を始めようと思ったんですか」
「大した理由はありませんよ」
西村は早くこの会話を切り上げようと簡素に答えた。
その次に訪れた学生も魔術に関する悩みを抱えているようだった。弟に食べられたくないお菓子を見えないようにしていたら、自分でも戻し方が分からなくなってどこに置いたかもわからなくなってしまったしまったという相談だった。匂いでどうにかわからないか、別の魔術を使ってみれば戻るのではなど、どうにか解決策をひねり出そうとしたが上手くいかないまま二週間が経過していた。現状見えないだけなら困りごとではないのではないか、ふとした瞬間に見つかる可能性もあるという慰めでどうにか納得してもらった。
連続で魔術師がやってきたのは偶然ではない。この大学は魔術の適性を持つ者のみにその門戸を開いているのだ。魔術に関する学問を授けているというわけではなく、魔術師にも均等に教育の機会が与えられるようにという理念を基としている。そのような思想の隆興もここ三十年ほどの出来事で、大学も比較的新しくきれいな施設を備えている。
翌週、再びやってきた庭日は予想に反して沈痛な面持ちだった。
「こんにちは。先週は病院に行こうという話でしたが」
「んーにちは。行きました、病院」
「どうでしたか」
今日は袖の膨らんだ赤青白のトリコロールのワンピースの下にスキニージーンズを履いていた。前髪に触れ、庭日は少し返事を迷っているようだった。
「朝起きられないと。そのせいで授業に出られなくて、大学で相談してみたら病気かもしれないって言われたと、言いました」
「はい」
「魔術を使えるなら自分でどうにかしろって言われました。お前らに医者は必要ないだろうって」
「……」
「それだけで、ろくに診察もしてもらえずに帰らされました」
「ひどいですね」
「ショックでした。これでどうにかなるぞって思ってたのに。おととい三回目の欠席しちゃいました」
「それは……」
室内の映像が水牛の群れから高層ビルに変わった。
「どうして、どうして魔術を使えるってだけでこんなひどいこと言われなきゃいけないんでしょう。私は悪いことしてないのに。過去の魔術師がしてきたことも私とは関係ないのに」
庭日は声を震わせ両手で顔を覆った。
現在、魔術師は人口の一パーセントにも満たないとも、もっといるけど隠しているだけだとも言われているが、まれな適性を持つ彼らに対する偏見、蔑視が根深いことは確かであった。その主原因は疑うまでもなく過去の悪逆非道の数々であり、先人の行いと現在未来を生きる魔術師たちは無関係であるという主張も筋は通っている。
「どうして、というと難しいですが医者はとりわけ魔術師を嫌う人種であるようですね。普通の人間にはできないことができるわけですから」
「それは魔術療法とか終末医療をやっている魔術師を恨めばいいだけで私にあんなこと言うのはおかしいです」
「おっしゃる通りです。坊主憎けりゃ、ということでしょう。道理じゃなく人情の問題です」
西村はカップを口元に運んだ。
庭日はしばらく黙って何かを考えている様子だったが、顔を上げ落ち着いた口調で言った。
「でも、確かに魔術でどうにかできるならそれで解決ですよね。朝起きられる魔術なんてのは聞いたことがないけどそれに近いものならあるのかも」
「なるほど」
「先生はどう思いますか。せっかくこの前はいろいろ教えてくれたのになんかごめんなさい」
「いえ、謝ることではありません。魔術で解決するということに庭日さんが満足できるのであればそれでいいと思います」
この言い方は癪に障るようだった。
「なんか魔術を使うのが悪いみたいですね」
「いえ、そんなつもりで言ったのでは」
「それならなんで、満足できるのであれば、とか言うんですか」
「……」
西村は咄嗟に答えられなかった。
「全部使い方次第じゃないですか。料理も人殺しもできるというなら包丁だってそうです。料理するのに包丁使うなんてずるい、とは言いませんよね」
「そうかもしれません」
「じゃあ」庭日は語気を強めた。「私は魔術を使います。魔術事典調べて、できれば簡単なのがいいけど簡単じゃなくても単位とるためなら頑張って覚えます。それでも別にいいですよね」
西村に善悪を判断するつもりはなかった。
「責任の話だと私は思います。包丁にしても魔術にしても使い方なら使う人間に責任が生じるでしょう。魔術は使ってなにが起こるか予想しきれないので責任も取りきれません。それでも使うべきなのか、考えるべきだということです」
「責任」
「はい」
「そうですか私は損得の話だと思います。今回は魔術を使えることで損したんだから魔術で得をしてもいいんじゃないですか。みんな口をそろえて責任だ信頼だと言いますけど、私が私に使う魔術ならどっちも大した問題じゃありません。違いますか」
「庭日さんがそうおっしゃるならそうなんでしょう」
今や庭日は西村の仮面の奥の目をまっすぐに見つめていた。何かを挑まれているようで居心地が悪いと西村は思った。しばらくにらみ合っていたがこちらに争うところはなかった。ため息をついて口を開いたのは庭日だった。
「ありがとうございました。私うまくやります。じゃあ来週また来ます」
昼休みの時間帯に電話での相談の対応を任されていた西村は遅めの昼食をとるべく、荷物をまとめて四号棟を出た。
初夏の心地よい風が木立を揺らし、ポプラの綿毛が周囲で舞い上がった。カフェテリアのオープンテラスから数名の笑い声が聞こえた。日差しのまぶしさに思わず目を瞑ると瞼を透かしてオレンジの熱がじんわり広がった。感情の起伏の表出しない西村もこの陽気には足取りが軽くなり黒のスカートがふわりと広がった。
正門を出ると生臭いにおいが鼻を刺激した。大学を取り囲む膝ほどの高さの堀は水面が見えないほどゴミが浮かび、その中に哺乳類の死骸も見たような気がした。ゴミ袋が複数、これ見よがしに捨てられ粘り気のある汁が歩道に染みを作っていた。西村の耳元でぶぅんと羽音がしたので、頭を振って追い払った。大学の外壁には記述するのも憚られる落書きがあった。どれも魔術師を罵るものだった。時折クリーンを使える学生があたりを清掃しているようで、見るたび汚さにはばらつきがあったが今日は特にひどかった。大学から出てくる学生を迎え撃つように声を上げる中年集団は「政府は魔術師を囲い込んで国民を洗脳している」旨の主張をしているらしい。目の前を通ると湿った視線をこちらに向けてきた。西村は何か弁解したいような気持ちを抑えて歩き駅前のパン屋に入り、小説を読みながらサンドイッチをつまんだ。食べ終えるとそろそろ三限の終わる時刻だった。
ふと、庭日はどんな魔術を使うのだろうと思った。上手くいくといいのだが。しかし目線を頁に戻すと、思考はすぐに物語へ入り込んでいった。
自分に使う魔術なら責任は問題でないという言葉を西村は深く考えずに流してしまったが、果たしてそうなのだろうかと考えたのは庭日の三回目の訪問の時だった。
庭日は予約の時刻から十五分遅れで顔を見せた。「すみませんすみません」と軽く頭を下げながら椅子に座る彼女の姿は風邪をひいている人間のような妙に浮かれた雰囲気があった。
「こんにちは」
「こんにちは」
「先週は……ええ……」
「やだな忘れちゃったんですか。魔術を使って解決するって私言いました」
「そうでしたね」忘れていたのではなく話の切り出し方に迷っていたのだとは言わなかった。「それで、首尾よくいったのですか」
「ああもう大成功です」
庭日はにこやかに言った。
「それは良かったです。どんな魔術をお使いになったのですか」
「私朝起きられないって言いましたけど実はそれだけじゃなくて、夜になるとすぐ眠くなっちゃうんです。本当に九時とか十時とか。そのくらいになるともう目開けてられないくらい眠くなって、それで次の日の九時とか十時にいならないと起きられないわけですから、一日の半分寝てるんですよ。小学生の生活リズムじゃないですか。我ながら寝すぎだなって思うし、でも体質だからしょうがないしなって。ですけど私、友達の家で朝までお酒飲むとか映画のレイトショー見るとかキャンプして星の観測とかそういうのやってみたいなってあこがれてたし」庭日はやりたかったことを指折り数えた。「まあすぐ眠くなっちゃうっていうのは大学の履修とかにはそんな関係ないんですけど、なんでこんな話してるかっていうと、私見つけたんです。眠気覚ましの魔術があって。言葉通り、眠くなくなるんです。しかもそんなに難しくなくて、すぐに使えるようになりました。すごく便利です。初めて夜更かししました。徹夜して一限の授業にも出られました」
「出られたのですね」
「はい、やっと。落単せずに済みます。うれしくて、ここ三日ずっと寝てません。これまでの人生を取り戻したみたいな気分です」
庭日は心の底から喜んでいるように目を輝かせた。
西村は仮面の下で眉をひそめた。
「眠くならなくても睡眠はとるべきではないでしょうか。体調にかかわりますよ」
「んー今のところは特に不調とかないし、体悪くなってきたら寝ますよ。魔術使わなければ寝られるわけですし」
「体が悪くなってきてからでは遅い気がします。特別な事情、それこそ休めない授業の前の日とか、夜に予定の入る日だけ使う方がいいのではないでしょうか」
「えー、せっかく起きられるようになったんですよ。一限出る以外にも使いたいじゃないですか」
庭日は口を尖らせた。
「適度に使いましょうという話です」
「適度ってなんですか。何も悪いこと起きてないんだから不適切ということはないと思いますけど」
「そうですか……」どうして白黒で考えようとするのかと思いつつ西村は言葉を探した。「その魔術は三日間使ってらっしゃるということですが、これからも使い続けるつもりなのですか、体に不調が出るまで」
「あー、多分寝ますよ、気が向いたら。今はずっと起きてられるのが楽しくてテンション上がってるだけです」
こう言われてしまうと食い下がることができなかった。
庭日は壁に映る馬頭星雲を眺めていた。
「とにかく、睡眠時間はしっかりとってください」
「わかってますから。私今日五限のあとに友達と飲みに行くんです。初めて。すごい楽しみです」
寝すぎてしまうということが人生にどれだけの障壁となるのか西村には想像しきれなかった。自分に使う魔術でありそれで悩みが解消しているなら外から口を挟む意味はないのだろうか。何か腑に落ちない物があった。
「そうですか。楽しんでください」
「はい。短い間ですけど相談乗ってくれてありがとうございました。もう大丈夫です」
「では、もう来室はなさらないということですね」
「そういうことです。さようなら」
胸のざわめきに待ってと言いかけて彼女を引き留める理由がないことに気づいた。そのまま庭日は出て行った。音を立てて扉が閉じられると一瞬部屋が闇に包まれた。
西村には疑問に思うところが一つあった。西村は眠気覚ましの魔術というものを聞いたことがなかった。彼女の話を聞いた範囲では汎用性の高いものであるようだったが、それならもっと広く使われていてもおかしくないはずだ。
魔術と一言で言ってもその種類は分厚い事典でも到底まとめきれないほどある。簡単なものあり、複雑なものあり、法律で禁止されているものあり、免許制のものあり、効果はないという頓智のようなものまである。簡単で便利なものは好まれる、難しくても職能にまつわるものなら苦労してでも習得する人がいる、流行り廃りがあるので今どき魔術を使わずポットで湯を沸かす魔術師の方が多いらしい。そういった中でも常に不人気を誇り続けるのは、難しくて効果の低い魔術、使用者に危険を及ぼす魔術、そして依存性が高く一度用いると抜け出せなくなるような魔術であった。
報告書をまとめようとしたが手につかず、次回の来室予定の欄に「なし」と入力すると胸のざわめきが加速した。あの魔術には何かがある。使った者に不都合を生じるような何かが。
西村はたまらず個別相談室を出た。愛宕が「お疲れ様です」と遠くで言った。期待したわけではないが庭日の姿はなかった。今追いかけたところで、建物から出てしまっているなら広い大学構内で彼女を見つけるのは困難を極めるだろう。
「どうかされたんですか」
「いえ……何も」
西村はその場に立ち尽くした。
魔術は使う人間に責任が生じると以前言った。では、命令したり助言したり依頼したりした人間は無関係なのだろうか。悪い結果があったとき、本人のしたことだと無視を決め込むのはあまりに非情だと思った。
もし庭日がこのまましばらく寝なかったらどうなる。何日間寝ないと人間はこうなるという話なら聞いたことがあった。集中力の低下や幻覚、記憶障害……その先はどうなってしまうのだろう。
頭に糸を通されたような耳鳴りがする。数秒のうちに悪い考えばかりが頭に浮かんだ。
もちろんこれが杞憂で終わる可能性もある。西村はちゃんと忠告した。睡眠をとるようにと。しかし庭日がそれを守る確信も持てず、不安はなくならない。
そこでひらめいた。相談室は予約を取る際に利用者の電話番号を確認しているはずだ。
「愛宕さん」
「なんですか」
「さっきの……庭日さんに電話できますか」
「えーと、緊急性があるならできますけど、何かあったんですか」
「……先ほど伝え忘れたことがあったので、電話口で話したいのです」
「わかりました。ちょっと待ってくださいね。えーと、庭日さん……」
愛宕はパソコンの画面を確認しながらデスクの上の固定電話の数字を押し、受話器を渡した。
「ありがとうございます」
受け取って耳に当てた。呼び出し音と耳鳴りが混ざる。心音もする。庭日が出てくれることを願った。受話器を握る手に力が入った。
「もしもし」
庭日の声がした。息をつくよりも先に伝えなければ。
「もしもし、西村です」
「え、先生?どうしたんですか」
「庭日さんのおっしゃっていた魔術ですが、危ないものかもしれません」
「危ない?眠気覚ましするだけなのに危ないわけないじゃないですか」
「ですが、もしその魔術に」
「このあと授業あるんでもういいですか?」
庭日の声のほかに、数人の話し声や笑い声も微かに聞こえてきた。
「その魔術を使うのはやめた方が良いと思います」
「あの、しつこいですよ。もう私の悩みはなくなったんで口出さないでください」
西村の説得は空しく、
「ツーツーツー」
切れた。
西村は受話器を戻した。
耳鳴りと心音がする。
「あれ、切れちゃったんですか。まああとで掛けなおせばいいじゃないですか」
愛宕の言葉に西村はうわの空で首を縦に振った。
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