第3話 立つことを忘れた葦のように

一際大きなギターの音が耳を劈き、離散していた私の意識をコンクリートの床へはっ倒した。脳天をかち割られるような衝撃に背後の扉を振り返る。すると、


 ブチッ‼ という耳障りな音が、愉快な音楽家達の演奏をかき消した。それは、賑やかな音楽を流していたステレオのプラグを、突然ひっこぬいたような音だった。


 おそるおそる、扉の向こうの様子を伺おうと、薄く開くドアの裂け目を覗いてみた。そして、顎を閉じることを忘れたまま、ぽかんとその情景に見入ってしまった。


〈邪魔するんじゃねーよ、クソ親父‼〉


 明らかにそれは、人間の声ではなかった。人の声にノイズを二重三重と加え、エコーをかけてぼやかしたような叫び声を上げながら、屋上でギターを振り回すその男の姿も、やはり明らかに人ではなかった。


 男の姿は、白くて細かい炎の集合体のようにゆらゆら揺れて頼りなく、明らかに、体の向こうに空が透けて見えている。まるで新しい立体アートの映像のようで、生身の体とはほど遠い。


――ついに、奴の姿を見た‼ やっぱり奴は、幽霊だったんだ‼


彼の正体を、人外の存在であると疑わなかった日は無いのだが、実際にその正体を目の前にした感激といったら‼


「見つけた!」


 私は興奮を抑えきれず、物凄い勢いで、その場に立ち上がってしまった。


 ショルダーバックが床に落ちる。バックから零れ落ちたアルミの筆箱が派手な音を立てて転げて口を開き、鉛筆やカッターやらを床へと吐き散らす。その弾みで床に鎮座していたビールの缶がふっとんで、階段の下へ転がり落ちていった。


 カン、カン、カン……リズミカルに響く乾いた音に、息を飲む。


 初め、私は奴が物音に驚いて、姿を消してしまうのではないかとおもった。それは当らずとも遠からずという奴で、アルミ缶の転がる音が一段落するまで、ドアの隙間から様子を伺っていた私を、奴は、ギターを頭上に抱えたまま微動だにせず、こちらを見ていたのだ。その様子がなんだか非常に滑稽に思えたので、私は思い切って、屋上の扉を開いてみることにした。


 ギギギィという、油の切れた鎹の悲鳴を疎ましく思いながら、一歩、また一歩、ゆっくりと氷の池をふみしめるように屋上へ踏み出してゆく。


 奴は、ぽかんとした顔で私を見ていた。まるで、幽霊でも見つけたかのように。


(幽霊は自分の方なのに)


 私は奴の様子があまりにも人間的で、想像していたような怪奇現象がまったく起こらなかったのが非常に愉快で、コロコロと笑い出してしまった。奴の存在はあまりにも、嘘のように本当だったのだ。


 止められない笑い声に酸素の供給が追いつかなくなった頃、突如として世界が歪みだした。


凍てついた冬空がバームクーヘンのような形になって、冷たいコンクリートは役目を終え、薄汚れた紙ナプキンに。立つことを忘れた葦のようにふわりと浮いた私は、胎児の格好で一回転をした。


 どうも酒に飲まれたらしい。アルコールの分解要素を、母の胎の中に置き忘れてきたのだろうか。


 ああ、だから母が異常にアルコールを欲するのかもしれない。全ては私が原因だったのだ――口にするのも汚らわしい考えも、今だけはただの音の連なり以上の何者でもなく。


 境界線が曖昧になってしまった世界で私は蹲り、酔いが覚めるのをひたすら待った。奴が興味深そうに、じぃっとこちらを覗き込んでいる。なんだか視線がくすぐったい。


 次に目を開いた時、奴はまだそこに居るだろうか? また、愉快なあの音楽を聞かせてくれるだろうか? もし、全てが私の幻想でしかなかったら……その時はまた、アルコールの力を借りようか。


 己の唇が醜く歪むのを感じた。所詮、私は母親の子供だという事実を改めてつきつけられたから。


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