第2話 油絵は歪に嗤う

 自宅や学校、友人の家などではなく、この廃墟と化したアパートを心の拠り所にしたきっかけは、あの日、自室に置いてあった油絵のキャンバスをざっくりと切り裂かれてしまったからだった。


 キャンバス上の傷口は、油絵具で描かれていた鈍色の曇り空に羽ばたく天使の微笑みを、真っ二つに引き裂いていた。


 その微笑と無表情の間のような表情を描くのに、素人に毛が生えた程度の画才しか持ち合わせていない私は、随分長いこと悩んだのだけれども。


 ざっくりと切り裂かれたキャンバスの裂け目は、光すら届かないような深い谷底のように、そして、絵を描くという趣味に並外れた情熱を傾けた私を嘲笑う、歪んだ唇のように見えた。


 私にとって絵を描く行為とは、油断をすればすぐに訪れる心の空白を、喜びに変換する作業だった。


 もとより絵で生計を立てられるなどとは考えてもいなかったけれど、いつしか、単色の日常は絵筆を動かすことによって色彩を帯び、唯一の輝きを纏っていった。


 絵を描くことは私の生きがいになり、拠り所となり、命を明日へとつなぎとめた。かつてはモノクロで構成されていた私の心は、春の息吹で目覚めた花畑のように、太陽でいっぱいになっていた。


 その絵が、切り裂かれた。


 私が私であるために必要な軸が、ぼっきりと折られてしまったのだ。


 呆然としてキャンバスの傷口に触れる。乾いた絵具がぱらぱらとフローリングへ落ちてゆく様子をみて、唐突に、この絵が砂のように崩れ落ちて消えてしまったらどうしようという激しい不安に取り付かれた。


 肌が粟立ち、四肢ががくがくと震える。やっと手に入れた、糞みたいな現実と折り合う方法を、永久に見失ってしまうかと思った。


 めげずにまた新しい絵を描けば良いだけの話。いつの日か、そう思える時が来たのかも知れなかったけれど、その瞬間の私は、もう二度と絵は描けない、という確信があった。その絵は私の精神の均衡を保つ、生命線だったのだろう。


「なんだ、帰ってたの、陽(はる)」


 絶望と現実への拒絶が混ざって出来上がった浮遊感が、胃の底からせりあがる。


 背後から投げ捨てられた母親の言葉には、一切の感情が込められていなかった。私は必死に、母へ突き刺す言葉の刃を探した。


 ようやくそれらしきものを手繰り寄せると、意を決して背後を見る。


 ひゅう、と、舌の上まで出かかった言葉が、喉の奥でガラスに変わる音がする。


 言いたいことは山のようにあった。しかしそれらは、母の顔にぽっかりと空いた枯れ井戸のような真っ黒な双眸に、呆気なく飲み込まれてしまった。


 私は母のこの、底なし沼のような目がたまらなく恐ろしい。耐えられなくなって母の背後に視線を逃がす。


 中途半端に開かれた自室のドアの向こう側に、大量の空き瓶が散らばっている。どれもアルコール飲料のものだ。思い出したかのように、彼女の呼吸にあわせて、つんと鼻腔をつく酒の臭いがやってくる。


(また、飲んだのか。)


 吐き気を胃の中にねじこみつつも現状を把握すると、私は頭の片隅に、分厚い氷の扉を思い描いた。それを夢中でこじ開けて、悲観的な展望やら傷つきやすい心やら、楽しかった思い出やら母への反発心やら、浮かんできた全ての感情を片っ端から突っ込んで、ガチャンと乱暴に閉じ込めてしまう。


 決して錠をかけ忘れてはならない。どんなに罵声を浴びせられたとしても、どんなに殴られたとしても、心だけは生き残っていなければならないのだから。


 しかし、その日の母は予想に反して声を荒げることはなく、静かに言っただけだった。


「燃えるゴミの日は、明日だから」と。


 私にとっての生きる糧は、母にとってはゴミなのだ。


 自分を守るために編み出した心の防護壁は、たったそれだけの言葉によって、粉々に崩れ去ってしまった。




 覚えているのはそこまでだった。


 それからの私は何に対しても執着するということがなくなり、気がつくと、常に己の感覚に不透明な膜をはって生きるようになっていた。


 それはまるで、水底に沈んだ硬貨のようだ。


 水鏡の狭間を通して水上で何が起こっているのかを知ることはできるけれど、それはすべて、どこか別の世界の出来事であるかのような、自分の身に差し迫った出来事ではないような感覚。まるでもう一人の自分が生まれて、かつて〝私〟だったものを遠くで他人事のように眺めているような、そんな感覚。




 母に絵を引き裂かれてから、どの位の時間が経過したのかは覚えていない。


 ある時は瞬きをすると翌日であったし、ある時は考え事をしている間に夜がふけた。


 その頃には、私は母の姿を全く見ないで一日を過ごす術を会得していた。厳密に言えば、彼女の存在を全く〝認識〟せずに日常生活を送っていたというのが正しい。


 もともと母は私よりも酒を愛する類の人間で、あの事件以来、私に一切接触しなかったことも彼女の存在から開放された要因の一つだっただろう。


 嘘のように本当の話だ。


 朝起きて、酒瓶を枕に眠っている母がいるリビングへは向かわずに、そのまま必要最低限のものだけバッグにつめて、裏口から玄関へ出る。近所のコンビニで腹ごしらえをした後、通学用の定期券を使ってあてもなくふらふらと彷徨った。


 ――幸か不幸か、私は「女子中学生」という一生に一度しか持つ事のできないブランドを纏っていたにも関わらず、容姿が醜かったためだろう、変質者から目をつけられたことは一度もなかった。それどころか、街の住人や警察官の目にすら、端から映っていないようだった。


 それが格別に不自然だとは思わなかった。私の存在はどこへ行ってもそんなものだから。誰の目にも留まらない、ありふれた石ころ。それが私だ。


 ――あんな母親がなんだ! 今逆境に負けたら将来は絶望的だ! お金を貯めつつ学校を卒業し、家を出て独立すればすむこと、甘ったれるんじゃない‼ ――そう自分に鞭を打って、逆境に立ち向かおうとした時期もあった。しかし残念ながら、私の精神力はそこまで強靭でなかったらしい。


 家に帰り、あの切り裂かれた絵をつい、目で追うと、まるで魔法にかかってしまったかのように体から力が抜けて、すべてがどうでもよくなってしまうのだ。


「生きがいを失ってしまった」もしくは、「疲れきってしまった」。


 言葉にすればたったの十文字前後しかないそれが表す感情は、深海のような絶望だ。


 もはや「絵」とはいえないそれを私はついに捨てることができず、母の目につかない部屋の隅にそっと立てかけておいた。


 頑張って自分の人生を確保しようが、もう一度さらに美しい絵を描こうが、賽の河原で延々と石を積み重ねるが如く、母に台無しにされるに決まっているのだ。それなら、今はゆっくりと眠りたい。どんな騒音にも邪魔されず、昏々と眠りたかった。


 私は水底のコインでいることを選んだ。例え時が経ち、その身が錆でボロボロになろうとも構いやしなかった。


 かすかに残された理性がそれはただの甘えだと喚き散らしていたが、ゆっくりと水中に沈みゆく私にはぼんやりとしか聞こえない。


 私は自由になり、同時に、孤独になった。静寂は思ったよりも心地良かった。


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