第11話 ラピスラズリ

 大切な少女が、ガーネットの海に溺れていた。

 床に皺を広げる白衣は、漣のように揺れている。


「っ、なんだよそれ·····」


 メルは、ソラの為に全てを捧げるといった。

 そうすれば、ソラの命が、ほんの少し伸びるから。


 きっとそれは、魅惑的で、希望的で、ソラがずっと望んでいた生で。

 喉から手が出る程に、欲しがっていた代物だった。


 そう、以前であれば。


「嫌だっ!」


 少年は考えるよりも早く、強く、そう言い放った。迷う時間なんて、一瞬たりともなかった。


「え·····」


 呆気にとられた彼女は、ぽかんと口を開けたまま、目を大きく見開いた。

 その瞳から、真紅の宝石が崩れる。まるで朝焼けの光を宿したガーネットの雫が、ぽろぽろと零れ落ちた。

 頬を伝い、細い指先を滑り、硬い床に触れるたびに、それはカラン、と音を立てて響く。


「な、んで·····?」

「どうしたもこうしたもない!」


 そう声を荒げると、少年の胸に鋭い痛みが走った。

 身体が軋むように苦しみを訴えかける。

 身体が悲鳴をあげていた。

 彼女同様、ソラだって病に犯されている。

どこかしこも不自由で、今にも倒れてしまいそうだった。


 それでも、彼は歯を食いしばり、メルをまっすぐに見つめた。


「嫌なものは、嫌だ!」


 臓器移植を施せば、彼女の言う通り、ソラは延命できるのだろう。

 日増しに重くなるこの胸の痛みも、もしかしたら和らぐのかもしれない。

 生きることの苦しさが、少しだけ軽くなるのかもしれない。


 けれど。


 彼女を犠牲にして得る明日は、一体どれ程の価値があるのだろう?


「でも·····、そうしないと、ソラくんが·····」


 彼女の言い分は最もだった。

【宝石病】に犯された二人は、近いうちにその命を落とすことになるだろう。

 しかし、メルの臓器をソラに移植出来れば、ソラの寿命は延びる。

二人共倒れになるのと、一人の命で一人を延命するのと·····。どちらが合理的かだなんて、算数を知らない子供だって分かることだった。


 ソラだって、よく分かっていた。

 けれど。


「お前の全部なんか、欲しくない!」


 傍にいて欲しかった。

 メルの寿命を、臓器を貰ってまで得る命になんて、毛ほどの興味もない。


 彼女の全部なんていらないから。

 だから、傍にいて欲しかった。

 隣にいて欲しかった。

 これからも、ずっと。


「お前は·····!」


 彼女と無理やりにでも視線を合わせる。

彼女の瞳の中に映ったソラは、今までになく真剣な表情をしていた。

その瞳からダイヤモンドが零れていることなんて、気にもならないほどに。



「〜っ、海が見たいんだろ!」



 少年の言葉に、メルの瞳が迷うように揺れた。

 長い睫毛が、身震いをして微かに震える。

 唇が小さく、くぐもった声を零した。


 メル。


 その名前は海から生まれたものだ。

 彼女は、ソラの贈った名前を大切そうに抱いていた。

 彼女はいつも窓の外からあの青を探していた。

 だから。


 これだ、と思った。


 彼女の心を動かすなら、きっと。


「先生が──メルが、俺よりも先に、生きることを諦めるなよ!」


 そんなの許さない。

 少年がそう付け加えると、彼女は息を呑んだ。


「っ、」


 彼女は何かを言いかけたようだった。

けれど、言葉にならなかったのか、ただぱちぱちと白く長い睫毛を瞬かせるばかりだ。


「·····だから、俺と行こう」


 少年はそっと手を差し出した。

 彼の指先は緊張で震えていた。

 それを見つめるメルの肩も、僅かに震えていた。


「っ·····」


 そのまま動かないメルを、少年は助けたいと思った。この一歩を踏み出せない彼女を、どうしても連れて行きたかった。一人になんて、したくなかった。


 だから、迷いもせず、ソラはメルの手を掴んだ。


 彼女が嫌がることなんて考えなかった。

 それが身勝手な行動だと分かっていても。

 ただのエゴだと分かっていても。

 そんなこと、構いやしなかった。


 少年は無遠慮に手を引く。


 文句は聞いてやらない、と目配せをすれば、やはりメルは驚いた顔をした。


 それから、優しく、静かに、彼女は少年の手を握り返す。


 そうして。

 ソラとメルは、たった二人で、このサナトリウムを抜け出すことにしたのだ。




 ◇◇◇




 無我夢中で駆け出した。


 後先のことなど何も考えなかった。

 考える余裕など、どこにもなかった。


 舗装されていない道は病人に容赦がない。

 何度も石に躓くソラを見て、メルは隣でくすくすと笑う。


「もう、足元が危ないですよ?」

「言うな·····!」


 息を切らしながら返すと、メルはますます笑みを深めた。そんな彼女も、次の瞬間には躓きそうになるものだから、二人で固く手を繋いだ。


 ソラもメルも、いつしか声をあげて笑っていた。


 そんな時、ふと、闇に紛れて、視界の端できらりと光る色があった。


「青?」


 彼女が色を零す。


 空と海が交わる場所に立ち、ソラとメルは静かに息を呑んだ。


 逃避行の先。

 辿り着いたのは、街と海岸を一望できる小高い丘だった。

 目指す海はまだ遠い。

 それでも。


「そう、あれが海」


 ふと、夜空に散らばる暗雲が消え、視界の端に朝陽が射し込む。

 窓越しに見ていた景色とは、比べものにならない程に美しい色の数々。


 海はもはや、ただの青い点ではなかった。


 深い夜を湛えた海面が、朝の光を受けて、宝石のように輝く。


 それはまるで、夜空と海を閉じ込めた神秘の青──ラピスラズリと呼ぶに、相応しかった。


 波が緩やかに揺れるたび、海の表面には金の粉を散らしたような光が踊る。

空の青と溶け合いながら、時折、深い群青が顔を覗かせていた。


「きれい·····」


 メルは呆然と呟いた。

 その瞳から、一粒の涙が零れ落ちる。

 それは、アクアマリンではなかった。

 ブルートパーズでもなかった。


 それは、朝陽を浴びて輝くラピスラズリ。

 目の前の海と同じ色を宿していた。


 夜空のように深く、それでいてどこか温かな光を孕んだ蒼。

 まるで、彼女自身の魂が結晶となって零れ落ちたかのように美しい。


 ソラは、そっとメルの頬に手を伸ばした。


「メル·····」


 指先に触れる宝石の涙。そのひんやりとした感触に、胸が締めつけられるようだった。


【宝石病】。


 それは、やがて全身を侵食する呪いのような病。

 光を受けて煌めくその結晶は美しい程冷たく、確実に命を削り取る不治の病。

 救いようのない運命。


 だけど、それでも。


「ソラくん·····」


 メルはふと、自身の指先を見つめた。ソラもまたその視線を辿る。

 メルの流す涙が。ラピスラズリの涙が、指先まで運ばれていた。

 透き通るラピスラズリの輝きは、まるで海の欠片のように肌を彩っている。それは、波間に煌めく光の粒のようで。どこか、生きている証のようにも思えて。


「メル、みたいだな」


 呪いの象徴だったはずのそれが、今は違って見えた。


 空と海。


 どこまでも広がり、決して交わることのない二つの世界。


 でも、こうして今、メルは隣にいる。

 ソラは彼女の隣にいる。


 溶け合う朝の光の下で、確かに二人、手を繋いでいた。


「生きてて、よかった」

「生まれてきて、よかった」


 ふと、二人の声が重なった。

 それは、心からの言葉だった。


「ふふっ」

「ははっ」


 メルの髪が朝の光を受けて淡く輝く。

 見る角度によって色を変える髪の一本一本が、琥珀のように透き通っていた。

 それは、陽の欠片を閉じ込めた宝石のように。どこまでも純粋で、どこまでも温かいイエローダイヤモンドの輝きを放っている。


「綺麗だな」

「とっても綺麗です!」


 潮の香りに混ざる、微かな花の香り。

 こんな状況なのに、不思議と落ち着いた気持ちになる。


「だから、さ·····」


 誰も見つけられなかった道を、二人なら探せるかもしれない。

 たとえこの呪いのような病が治らなくても、共に生きる方法を見つけられるかもしれない。


 一人では絶望しかなかった。

 孤独が全てを蝕んでいた。


 けれど、二人なら。

 メルとなら。


 ソラはメルの手を、メルはソラの手を。

繋いでいたその手を、ぎゅっと強く握りしめる。


「これで終わりじゃないよ」


 波が静かに打ち寄せ、ラピスラズリのような海が、どこまでも広く、長く続いていた。


「次は、二人でもっと遠くへ行こう」


 燃えるような朝陽が地平線を飛び越え、漆黒の空を淡いローズゴールドで染め上げる。

 押し寄せる波が、空の下でしぶきを上げた。


 揺れる海に反射した色は、まるで煌めく宝石のようで。


「約束、です!」


 メルはラピスラズリの涙を零しながらそっと、小指を差し出した。

 ソラは迷うことなく、彼女と小指を絡める。


 その青の向こうへ、二人は歩き出す。


 たとえ、行き着く先がサナトリウムであろうと、その道の向こうにあるのは、絶望ではない。

 終わりを待つだけの無意味な時間ではない。


 二人で生きるための時間だ。


 希望。

 それは遠く、儚く、手を伸ばしても届かないもの。

けれど、二人なら。

 ソラとメルならば。


 そう信じて、二人は新たな一歩を踏み出したのだ。


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