第4話 エメラルド

「父さん·····、か、母さん」


大丈夫、二人なら、きっと分かってくれる。

きっと、愛してくれる。

今までそうであってくれたように。

病を患った今でも、きっと。

そして、これからもずっと。


 そう信じていた。

信じて、いたかった。


 けれど、父親のたるんだ瞼が大きく見開かれ、母親のかさついた唇が震えた瞬間、すぐに分かった。

 その表情は、驚愕とも恐怖ともつかぬ、けれど確かに拒絶の色を帯びていたから。



「·····ば、化け物っ!」



 それは囁きにも似た、けれど雷鳴のように胸を貫く声だった。

 鋭い刃物が、肌を裂くよりも深く深く、少年の心を斬り裂いていく。


「来ないで·····っ」


 母親の声が震える。

彼女の白い手が、何か汚れたものを振り払うかのように宙を彷徨う。

 その手は、実の息子にむかっていた。


 ·····かつて、その手は優しく少年の髪を撫でてくれた。


 高熱にうなされた夜、あの優しい手がそっと額を冷やしてくれた。

 怖いと泣きじゃくる少年の小さな手を包み込み、安心するまで何度でも握り返してくれた。


 それなのに。


 少年は思わず震える指先を伸ばした。

しかし、母親は短く息を飲み、後ずさる。

 まるで猛毒を宿した生き物でも見るような、怯え切った瞳。暗闇に潜む異形の怪物を見るような、怜悧な眼差しが、母親から注がれていた。


「かあ、さん·····?」


 喉の奥が焼けるように熱い。

 瞳の奥がじんじんと痛む。


 信じられなかった。

信じたくなど、なかったから。


 少年はたまらずに口元を押さえた。


 そして、次の瞬間。


「っ、ぉえ」


──赤が、飛び散る。


 喉の奥からせり上がったそれは、熱を帯びた鮮血だった。

 しかし、それはただの鉄ではない。

滴る赤は、空気に触れた瞬間、まるで呪いのように結晶へと変わっていく。


 真っ赤なペンキを塗りたくったような、歪さを湛えた宝石が、床に落ちる音がした。

それは、ころん、ころんと、乾いた音を響かせながら転がる。


 少年は足元の石ころを見下ろす。

まるで自分の一部が、冷たい輝きへと変わってしまったような気がした。


 不意に母の手が視界に入る。


 指先には、やや傷のついた指輪がはめられていた。

それは、長年慈しまれ、愛されてきた指輪だ。

母親はその指輪を無意識に撫でていた。


 緑色の石がきらり、と瞬く。


 その宝石が、エメラルド、という名前なのだと、幼い頃に母親から直接教えて貰った。

母親は、自身の瞳と同じ色なのだと、恥ずかしそうに笑っていた。


 母親は、ずっとこの指輪を大切にしていた。

それは誰が見ても分かるくらいに。

アクセサリーも、色恋も、宝石にだって興味がない、幼い少年にだって伝わるほどに。


まるで宝物のように、決して手放すことなく、どんな時も、それを優しく撫でていた。

 今まで、少年にしていたのと同じように。

今も、その指輪を撫でていた。


 けれど。


 今、その指輪をはめた手は、少年だけを拒絶している。


 エメラルドは愛され、少年は恐れられる。

 エメラルドは守られ、少年は捨てられる。


「気持ち悪い」


 母親の声が、小鳥の羽のようにかすかに震えた。

 けれどそれが、鋭い刃のように少年の胸を切り裂いていく。


 行き場所を探すように、縋るように、母親の愛を求める赤子のように、少年はもう一度手を伸ばす。


「·····やめて!これ以上、近づかないで!」


 母親は言葉にならない声を絞り出し、恐怖に駆られたように息を詰めた。

 父親は眉をひそめ、顔を歪めたまま、ひとつ息を吐く。


「近寄るんじゃない、この化け物っ!」


 胸の奥が、冷たい波に攫われていくようだった。今にも溺れてしまいそうなほどに、息が、出来ない。


「ちがう、ちがうよ·····」


 言葉が掠れて、震える。

どうにか言葉になったそれを。

必死なその声に、耳を傾ける者はいなかった。


 吐き出した石は床に散らばったまま、光を放っている。

けれど、それはけして祝福の輝きではない。

誰からも忌避され、触れることすら恐れられる、禍々しき呪いだった。


 母親の指には、変わらずエメラルドの指輪がある。

 それは愛された証だった。

 けれど、少年の石は愛されることなく、ただ恐れられるだけ。


 少年には、手さえ伸ばされない。

 伸ばすことさえ許されない。


 少年は、震える手で自分の胸を押さえた。

心臓が早鐘を打つように鳴っている。


 二人なら、実の両親ならば、きっと分かってくれる。


 そう信じていたのに。


けれど今、二人の目には息子など映ってはいなかった。

 その瞳に映るのは、まさしく化け物だった。

彼らがかつて愛したはずの子供ではなく、恐れ、忌むべき存在。それが、少年自身だった。


 少年は、ただそこに立ち尽くすことしか出来なかった。


 そして、嫌なほどに分からせられた。


 ここはもう、帰る場所ではないのだと。

 二人はもう、家族なんかじゃないのだと。

彼らの息子は、この瞬間、死んだのだと。


 きらり。

瞬いた汚らしい赤の石が、少年を憐れむように転がった。


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