第3話 トパーズ
白い壁、白い床、白いカーテン。
磨かれた鏡は今日も無愛想な少年を映している。
隅の方には、綺麗に整えられたベッドがあった。
彼が乱雑に使おうと、毎朝決まったように誰かが整えていくものだから、今日も皺ひとつありやしない。
それが誰なのか、なんて。考えるまでもなかった。
「おはようございます!」
少年が反応する間もなく、わざわざ閉めておいたカーテンが勢いよく開かれた。
硝子窓から外の光が差し込み、室内を照らしだすと共に、視界を遮る。
「眩しい·····」
硝子窓から差し込んだ光が、容赦なく視界を満たす。少年は反射的に目を細めた。
光を避けておもむろに壁の方を見れば、小さな花瓶に視線が惹き付けられる。
素朴な黄色の花が陽を浴びていた。それは朝の冷たい風に揺られて小さく波立っている。
「ふふ。今日は、たんぽぽなんですよ」
窓から零れる風にそっと身を任せて、彼女は花のようにふわりと微笑んでいた。
陽の光を受けた髪が、さらさらと風に踊る。
ご丁寧なことに、この花瓶には毎日違う花が生けられていた。これが仕事というわけでもないだろうに。誰に頼まれたわけでもなく、彼女はわざわざ自身の時間を使って、少年のために摘んできているらしい。
「綺麗なお花もいいですけど、たまには親しみ溢れるお花もいいですよねっ。どうですか?久しぶりの香りに、ワクワクしませんかっ?」
「花なんて別になんでもいいよ。あってもなくても同じだし」
彼女の言葉を遮るように、少年はそっけなく呟く。
彼女は気にした様子もなく、花瓶の水面を指先で軽く揺らした。
「もお、患者くんは、素直じゃないですね~?」
くすくすと笑いながら、彼女は少年の方へ振り返る。
風に乗った香りが、微かに部屋を満たすのが分かった。
「それじゃあ、明日はラベンダーにしましょう。きっと、すっごく癒されて、私に甘えたくなるはずです」
「それは絶対ない」
少年はそっぽを向きながら、ぼそっと返す。
彼女の言葉を否定するのは簡単だった。
けれど、いつも飾られる花の香りを、知らず知らずのうちに心待ちにしていることもまた事実で。
だから少年は小さく舌打ちをした。
·····勿論、それに気づかぬ彼女ではない。
「あー!今、ちぇって!ちぇーって言いましたね!?この私の前で!」
彼女の声は、春の陽ざしのように明るかった。少年はそっぽを向いたまま、わずかに肩をすくめる。
無意識に出たアレを、彼女は聞き逃さなかったらしい。
「·····別に、いいじゃん」
「ダメです!舌打ちはよくないんですよ!ほら、ちゃんと謝ってください!」
彼女は腕を組み、少しだけ眉を寄せる。
けれど、それは叱るというにはあまりに可愛いもので。何だか拍子抜けしてしまう。
「ええ·····」
「ね?怖くないですから」
どうやら、見逃してくれる気はないらしい。
どうしたものか。
そう考えあぐねいていた時、ふと彼女の指先に視線が吸い寄せられた。
彼女の細い指が、いつの間にかそっと何かを握りしめている。
「·····悪かったよ。ごめん」
ぽつりと零れた言葉に、彼女の顔がぱっと明るくなる。
「はい、よくできました!」
そう言うと彼女は、隠し持っていたものをゆっくりと後ろから取り出した。
目の前いっぱいに黄色が広がる。
「ご褒美ですっ!」
彼女は微笑みながら、少年の頭にそっと冠をのせた。
それは、たんぽぽで編まれた花冠だった。
草の匂いが鼻を擽り、どこか懐かしく、心の奥底まで優しく染み込んでいく。
花瓶の中に生けられたそれとは違い、今ここにある花冠は、まるで大地の中から生まれたように、温かく、そして近くに感じられた。
「·····なんだよ、これ」
少年の声には、驚きと戸惑いが混じっていた。けれど、その瞳の奥にほんのり浮かんだ光が、わずかに優しさを帯びていることを、彼女は見逃さなかった。
「庭園で摘んできたんです。可愛いでしょう?せっかくなので、王冠みたいにしてみました!」
たんぽぽの花冠は、窓から差し込む光を受けて、柔らかな輝きを放っている。
金色の花弁がひとひらひとひら、まるで陽だまりそのものを編み込んだように、温かな光を放っている。
その輝きは、まるで一筋の光のように、少年の心に触れた。
「知ってますか? たんぽぽって、どこまでも風に乗って旅をする花なんですよ」
彼女の手が花冠にそっと触れて、少年の髪を柔らかく撫でる。
その仕草ひとつひとつが、まるで彼女自身が風に乗るたんぽぽのように、穏やかで優しかった。
「強い風が吹いたら、一度は飛ばされてしまうかもしれません。でも、それは終わりじゃなくて、旅の始まりなんです」
彼女は言葉を紡ぎながら、静かに目を細めた。その瞳の奥にあるものを、少年は見つけられなかった。
ただ、その眼差しには、どこか遠くを見つめるような寂しさがある。
少年は視線を落とし、心の中で息を吐く。
「·····でも、一人は寂しいよ」
旅に出ることが怖いわけじゃない。
けれど、風に流されるたんぽぽのように。
どこまでも、ひとりぼっちで。
行く先々で落ち着く場所もなく、ただ流されるだけの人生を思うと、胸の奥が酷く冷たくなる。
一人ぼっちの寂しさ、寒さ、孤独。
それがどれ程恐ろしいものかは、少年自身がよく知っていた。
「患者くん」
彼女はそんな少年の横顔をじっと見つめ、瞳を細めたままそっと微笑んだ。
その微笑みには、言葉以上の意味が込められている。
彼女は、少年が抱えている孤独や恐れを、そっと包み込んでくれるような温かさを持っていた。
その微笑みの中に、いつもひとしずくの安らぎがある。
まるで、たんぽぽが風に揺れるように。
少年の心もまた、少しずつ解きほぐされていくようだった。
「トパーズって、知ってますか?」
突然の問いに、少年は顔を上げる。
「·····あの黄色い石のこと?」
「はい。トパーズは、太陽や火の象徴とされる宝石なんです」
彼女の声は、どこか遠くを見つめるような優しさに満ちていた。
その声に誘われるように、少年は窓の外に目を向けた。
「どこへ行こうと、たんぽぽを照らす太陽のように、ずっと見守ってくれる存在。そういう光を持つ宝石なんです」
彼女の声は、そよ風に揺れる花々の囁きのように優しく響いた。
細く白い指が、少年の髪にそっと触れて、頭にのせた花冠の位置をなおす。
たんぽぽの花弁が、ふわりと揺れて、陽の光を受けて淡く輝いた。
「旅をするたんぽぽも、どこへ行こうと、太陽が見守ってくれています。だから、一人じゃないんです」
少年の瞳が大きく見開かれる。
彼女の言葉は、深い森に差し込む陽光のようだった。冷たく閉ざされていた胸の奥に、そっと温もりが灯る。
少年はそっと自身の頭に指先を伸ばし、花冠に触れた。
「私は君に、どこへ行っても消えない光があるんだってことを、知っていてほしいんです」
たんぽぽは風に乗り、どこまでも旅をする。
踏まれても、嵐にさらされても、それでもまた根を張り、咲くのだ。
それは、孤独で、寂しくて、怖くって。
けれど、そんなたんぽぽを見守る太陽があるのなら。
少年はそっと、たんぽぽの花弁を撫でた。
彼女の言葉が、ひとつひとつ、柔らかな光となって胸の奥に落ちていく。
それはまるで、長い夜を越えて初めて迎えた朝の光のように、少年の心を静かに照らした。
「君はもう、一人になんかなりません」
彼女の言葉が、迷子のように彷徨っていた少年をそっと抱きしめる。
心の奥深くに沈んでいた孤独を、優しく溶かしていく。
「やっぱり、よく似合ってます!」
彼女の声が、柔らかな春の陽だまりのように降り注ぐ。
陽光を浴びたたんぽぽの花冠が、まるでトパーズのように淡く輝いた。
どこまでも続く旅の先にも、きっと光がある。
彼女が傍にいる限り、もうひとりぼっちにはならない。ならなくても、いいのだ。
「·····変な先生」
たとえこの温もりが、一瞬のまやかしにすぎないとしても。
それでも、今日がなかったことにはならない。
それだけで、今までよりずっと息がしやすかったから。
少年はくすりと小さく笑って、たんぽぽを揺らしたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます