装い感情

06


 夕焼けを見かけることはなくなっていた。それほどまでに関心がないと言えばそれまでだが、暗くなり始める空に浮かんでいたのは、ここ最近では灰色の雲だけだった。まるで自分の感情を具現化したような、そんなどうしようもない灰色に、俺はため息を吐くことしかできなかった。


 ため息は白を香らせた後、静かに霧散した。外の世界はどこまでも凍えていて、自分の吐く息で自身さえあたためることはできやしない。温もりを求めて家へと帰るべきかもしれない。だが、そうする気力を見出すことができないままでいる。いや、いつだって気力はないのだが。


 いつも通りの時間、いつも通りの寒さ、平常通りでしかない憂いの一部、憂いでさえ陰ってしまいそうなほど暗い空の下。いつもとは違う道を歩いて、そうやって家から遠ざかる真似事を繰り返している。


 こんなことをしても何か意味があるわけではない。けれど、それでも今日だけは家に帰りたくないような気がした。気がした、という曖昧なものでしかないものは具体性を持つことはなく、嫌な予感以上のものを勝手に心の中で演出していく。


 家に帰ったら彼女が来る。俺が家に帰らなくとも、それはきっと変わらない。彼女だからこそ知っている鍵のありかを利用して、適当に家の中に入っていくのだろう。そして、俺が帰ってくるのを待つのかもしれない。


 俺が帰れば、きっと俺たちは交わってしまう。俺がどれだけ憂いを抱えていたとしても、彼女がそうしたくないとしても、日常として刻まれた習慣は言葉がなくとも行われる。今や、拒絶も肯定も俺たちは言葉にすることができないままでいた。


 二人だけしか存在しない部屋の中、その環境で行われる行為は限定されていた。昔やっていたゲームなんて、いつの間にか除外するように置いてしまっていて、久しく起動した覚えはない。


「……はあ」


 どうしたものかな、そんな独り言を吐いて、あからさまに愁いを帯びている演出を自分の中に重ねてみる。誰かに見られているわけでもないが、自身でそんな振る舞いをしていることが滑稽に思えて、うすら寒い恥ずかしさを感じてしまう。迷走しかしていない自分に笑いそうになってしまった。


 ともかく、今日に関しては家に帰る気力はわかないままでいる。散歩、という気分でもないけれど、適当な道のりを歩いていれば、俺が帰る時間頃には彼女も自らの家に帰宅しているかもしれない。


 そんなことに期待をしながら、俺は歩き慣れてない景色を視界に入れて、ゆっくりと足を進める。忙しさも特にないからこそ、ゆったりと俺は散歩を始めていた。





「あっ」と声が聞こえた。


 出会った丁字路を、右に行くか、それとも左に行くかと、どうでもいい迷いを抱えている間に、右からやってきた人間に声をかけられていた。


 声をかけてきたのは知らない学校の制服を着た女子だった。見覚えがあるような顔ではあったが、その詳細を思い出すことはできそうにない。でも、おそらく中学の卒業を機に疎遠になった人間だとは思った。


 うす、と俺が適当な挨拶を彼女にすると、彼女も「うす!」とノリのいい元気がある返事をしてくれる。彼女の声、顔を見ても、やはりいまいち名前を思い出せないことに申し訳なさがあって、少しだけ俺は視線をそらしてしまった。


 それでも一応「久しぶりだな」と、とりあえず思いついた言葉を投げてみる。それ以上に思いつく話題もなかったし、元同級生とかかわりが深いわけでもなかったから、彼女に適した話題を選べそうにもない。


「そうだねぇ、卒業以来?」


「それくらいか。まあ、そうだな」


 つまらない答えしか返すことのできない自分が恥ずかしく感じた。他の人間であれば、ここからいろいろな話題に発展させて、退屈はしない程度の会話が広がるのだろうけれど、俺にはそのような力はなかった。


「……それじゃあ、これで」


 気まずさを覚えて、俺はそれだけを吐いて、適当に道を歩くことを続けようとした。丁字路を左に曲がろうとした後、そろそろ本当に行きつく先がわからないな、と思い返したタイミングで「健くんもそっち?」と女子が俺に声をかけてくる。


「……まあ、そうだよ」


 嘘だったけれど、左に曲がった時点で俺の行き先は決められていたようなものだった。


 俺が彼女にそういうと、彼女はニコニコとした表情を浮かべた後「私もなんだ」と返してくる。


 困ったな、という気持ちは口にも表情にも出さないまま、この後あるだろう流れに嫌な予感を覚えた。そして、その予感通りに「それなら一緒に行こっか」と彼女は俺にそう言ってくる。


「……うす」


 俺はそれしか言葉を吐くことができなくなって、困ったことを誤魔化すような笑顔を浮かべるだけを繰り返した。何故ともいえない後ろめたさを心の内側に燻らせて、未だに思い出せない彼女の名前を、何とか思い出そうと記憶を振り返っていた。


 それでも、心の中に浮かぶのは柚乃の顔だけだったが。



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