九回裏
九回裏〜新東和高校編〜
「4番、ファースト、新星くん」
女性のアナウンスで呼ばれた少年は、かつての友人だった。和俊はバッターボックスに立つ勇ましい姿を睨みつけた。眩しい太陽を反射する銀色のバットは自分を切りつける刃物のように思えてしまう。
九回裏、四対三、ツーアウト、二、三塁。帝条学園が甲子園への入り口に足を踏み入れた新東和高校に必死に食らいついていた。この回まで新東和は圧倒的な力で攻防を制していた。だが、気が抜けてしまったのか、それとも相手の目が覚めたのか……。二つのアウトを犠牲にして、帝条は三人の選手をホームに帰し、二人を塁に残してきた。四肢はもう切られたはずなのに、最後の最後になって、帝条は噛み付いてきた。しかも、首の根元に。食いちぎられれば、こっちの息が絶える。
そして、構えているのは一番鋭い牙である、新星誠。この試合で得点はしていないものの、一打席もアウトになっていない男だ。この打席は牙を研いで、バッターボックスへと入ってきたのだろう。
くそ野郎。
和俊は帽子を深く被り、大きく、だが誰にも悟られないように深呼吸をした。
真夏の球場には紫外線の雨が遮られることなく、選手たちに降り注いでいた。だが、そんなことは関係ないというかのように、球場からは熱せられた思いが渦を巻いていた。観客席からはブラスバンドの音が地を揺らした。攻撃側の帝条は息を吹き返したかのように叫び続けている。
背後からは先輩や同期の声が聞こえる。大丈夫だ。硬くなりすぎんな。明るい口調で和俊の緊張を少しでも解そうとしていた。和俊は振り向かず、ただ手を挙げて、受け取った合図をした。
加奈。見ていてくれ。
和俊は深く被った帽子を整えた。バットを構える誠と目が合う。一球目から打ってくるような気迫がジリジリと伝わってくる。
キャッチャーの和貴は大きく外側にグローブを構えている。まずは様子見。感情的になってはいけない。
和俊は頷き、構えた。赤い縫い目が自分の指に合うように転がした。
狙いを定め、右脚を前へと突き出す。つま先をマウンドに食い込ませ、関節という関節に下半身からの力を伝達させていく。捻りと回転。この夏までに仕上げてきたフォームで、指先からボールを放った。
バチン、と心地のいい音が会場に響き渡る。球は一直線に和貴のグローブへと収まった。
肝心の誠は動こうともしない。ただ、球の軌道を追うように目線を動かしている。
それはそうだよな。和俊は微笑んだ。誠があんなのに引っ掛かるわけがない。今のは挨拶みたいなものだ。
ノーストライク、ワンボール。
さて次はどうするか。和俊は球を手の中で回しながら考える。誠は何も感じていないように、まるで試合序盤の打席のように落ち着いている。バッターボックスの土を整えている誠の後ろで、和貴がサインを送ってきている。
次はインコースの高め。和貴も何も感じていない誠に少し腹が立っているのかもしれない。驚かしていこう。
その日、和俊の投げる球は今までで一番の精度をみせていた。求められたコースはほぼ確実に投げられる。決勝には絶好の日だった。普段は投げない危険な球だが、今日なら投げれらる。妙な感覚がボールに移っていた。
球場の熱気は試合が終盤に近づいていくにつれて高まった。
和俊は目を細め、的を絞った。誠の目の前。当てない程度に。和俊の投げた球は和貴のグローブに吸い込まれるように空を切った。
誠は少し仰け反った。当たるまではいかないが、目の前で豪速球が通れば、当然の反応だった。誠は帽子のツバを掴み、少しだけ深く被った。俯いて、地面の整地をする。目元は帽子のつばで見えないが、口端が上がっているのが見えた。あの強気なボールを投げられても尚、誠は微笑していたのだ。
ノーストライク、ツーボール。
和貴が送った次のサインはチェンジアップだった。ストレートよりも少し遅い球でタイミングをずらす球種。和俊の速く、伸びるストレートとの相性は抜群の球種だった。二回続いたストレートの後、これでストライクを取りたい。
袖で垂れてきた汗を拭う。投げる瞬間は何にも邪魔はされたくはない。
和俊は全力で体を捻った。さっきのフォームと何ら変わりはない。ただ違うのは変化して、スピードが若干遅いというだけだ。
投げてすぐ、和俊は顔を上げた。先ほどの二球とは違い、ストライクゾーンに入る。それを分かった誠は右足を軸に左足を踏み込ませ、バットを思いっきり振った。力強く降られたバットに球が当たる。カキン、と金属音が響いたが、ボールは三塁の方へと転がり、ファウルボールになった。
タイミングが早かった。それなのに、長打になるような衝撃が一瞬和俊を襲った。汗がじんわりと出てくる。決して暑いからではない。
ワンストライク、ツーボール。
胸の鼓動が早くなる。それを感じるたびに、視界はどんどん狭くなっていった。
和貴のサイン。それはカーブを求めていた。
カーブは投手の利き腕と反対方向に曲がる球。左投手である和俊のカーブボールは右へと曲がることとなる。そうすると、右打者である選手内側に曲がり、詰まらせることができる。それに、カーブを信用できる理由が新東和にはあった。それは和俊のカーブの質だった。彼のカーブは大きく右へと曲がり、その上、ストレートにも引けを取らない速さを備えている。懐に入り込んでくる速球を捉えるのは容易ではない。打ち損ねたところをアウトにする。
自分に寄ってくる球は実際に打席に立ってみると驚異だ。打とうと思っても、長打は出ない。和俊のカーブを打ち損ねたところを内野手が拾い上げ、アウトにして、ゲームセット。変化の少ない球種を投げ続けたのは、この為の布石だった。
だが、もちろんこれを読んでくる可能性もある。だからこそ、全力で投げなければいけない。この一球に俺の、チームの、そして加奈の想いを込めるつもりで。
和俊はサインに頷き、グローブの中でボールの持ち方を変えた。人差し指と親指を球の縫い目にかけて、握る。
誠は前の三球に比べ、少し腰を落とし、バットを構えている。そろそろ勝負をする気になったようだった。
和俊が右脚を地面に突きつけると、土が抉られる音がした。胸を張り、ストレートの時よりも早めに体を開く。腕の角度を僅かだが変え、人差し指に力を込めて球を放った。
球は途中まで押し出された力に沿って直線を進んだ。だが、バッターに近づくにつれ、少しずつだが空気抵抗を受けはじめた。真横に回転をする球は着実に軌道を変えていく。気付けば、真っ直ぐなど投げられてはいない。
しかし、誠はその変化を見逃さなかった。瞬時に変化球だと理解した誠は、絶妙な位置に自分を合わせる。そして、バットを振りかぶった。
甲高い金属音が鳴り響いた。今度は芯に当たっており、打ち返された球は和俊の右を通り去っていく。観客たちは一斉に声を挙げた。花火が舞い上がったように、集まった声は爆発音に変わった。
和俊はすぐに振り返った。ランナーはすでに走り出している。
球は内野を軽々と突き抜けていった。
三塁にいたランナーはホームベースを踏み、得点が並ぶ。
それに瞬時に反応したのは、三年生である石丸剛だった。二年生の時に甲子園へと出場したことのある彼の経験は簡単なミスは許さなかった。また、県でも五本指に入るほどの強肩の持ち主である彼の送球で救われた試合はいくつもある。野生の勘か、経験か。それとも両方か。いずれかが剛を内野へと近づけていた。剛は和俊の予想した通り、慣れた手つきで向かってきた球を拾い上げ、和俊へと投げた。
二塁にいた走者はホームへと向かってきている。だが、球の方が速い。
剛から投げられた球。いつもの送球をするだけ。
球がグローブに入る。ここで閉じて、握るだけなのだ。だが、その時、和俊のグローブを握るタイミングは僅かだが遅れた。球はグローブに弾かれ、空中へと浮かぶ。
まずい。
危機感と持ち前の冷静さ。それは和俊の脳に目から送られてきた情報を処理させた。そして、電気のように体に何をすればいいか伝え、足先までの筋肉が瞬時に働き出す。
和俊は瞬時に空中に浮かんだ球を左手で取った。右脚を軸に時計回りで体の向きを変え、ホームへと投げ込む。
二塁走者はすでにホームに向かって手を伸ばし、スライディングの準備をしている。
和貴はグローブに球が収まるのと同時に、それを下に振り下ろした。
スライディングで巻き起こった砂埃がホームを包んだ。帝条の選手はホームにしっかりと手をつけている。だが、和貴も選手の背中に触れていた。
観客が刹那の間、沈黙した。固唾を吞み、ホームへと視線が集まる。
審判は両腕を横に大きく広げ、叫んだ。
「セーフ!」
帝条学園に一点が入り、点数は逆転した。四点差からの逆転劇。和俊は膝から崩れ落ちた。
帝条学園の選手たちが歓喜の声をあげているのが聞こえる。それに対し、新東和高校は言葉を失い、地面に伏した。
肩に誰かの手が添えられる。それは続々と増えていった。
「立とうや。泣くのは整列してからだ」和貴の声だった。
力の入らない足で立った和俊は仲間と横並びでホームへと向かった。チームメイトの顔は見られなかった。自分があの時、しっかり取れていれば。カーブの質が良ければ。その前に、三失点もしなければ。様々な思いが交錯し、交わる度に苦汁を嘗めた。
整列、礼、という掛け声の後に、選手たちはお互いの有志を称えた。和俊は懸命に声を出そうとしたが、喉に何かが詰まったように、振り絞っても掠れた声しか出てこなかった。
先輩、すいません。甲子園に行くチャンスをドブに捨ててしまいました。
加奈、すまない。甲子園に行く姿を見せられなかった。約束したのに。
和俊は嫌なほどに清々しい青空を見上げた。涙が溢れないように。しかし、目の端からはどうしようもなく、涙は落ちてきた。
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