私は普通になりたくない

 夏休みが終わったことは季節には関係がないかのように、太陽は東京を熱し続けていた。

 地下鉄から階段を上がり、外へ出た静香は、じんわりと滲み出てくる汗にうんざりしていた。駅から学校まで最低でも十分はかかる。額から流れてくる汗は目元を通ると、鬱陶しさを感じずにはいられなかった。

 学校へと近づくと、友達の美希が憂鬱そうな顔をして歩いていた。夏休みが終わったのに加え、この暑さだ。無理もない。

 静香は美希のもとへと近づいていき、「久しぶり」と少女は暑さを押し払うように声をかけた。声をかけてきたのが久しぶりに会った静香だと分かると、美希は太陽のような笑顔を見せながら、「久しぶり」と返した。

 久々に会う美希は太陽に浴びて日焼けしたのか、肌が茶色くなっていた。だが、黒すぎるわけではなく、健康的な焼け方で、夏休みを楽しんだという象徴のようだった。それ以外にも美希は色々と変わっていた。夏が始まる前の長かった髪はバッサリと切られており、肩にかかるくらいのミディアムボブに変わっていた。ショートヘアーになったことによって、今までの美希が持っていた大人しめの雰囲気は、褐色肌との組み合わせで可愛らしい雰囲気へとなっている。

 変わったのは外見だけではなかった。教室までを歩きながら、夏休みをどのようにして過ごしていたかという話になると、美希は真っ先に彼氏ができたという事を静香に話した。相手は学年でも爽やかでカッコいい事で有名な二組の杉山君らしい。同じテニス部で仲が良かったのは知っていたが、友達に彼氏ができたことに静香は驚きと喜びを同時に味わった。なんでも、夏祭りに二人で一緒に花火を観ながら告白されたらしい。その話を聞くと、告白された本人でもないのに胸がざわついた。そして、同時にそういった恋の話がない自分が少し情けなく感じた。

 蒸し暑い教室へ入ると、変わっていたのは美希だけではないことが一目で分かった。女子は髪型が人それぞれ変化していて、後ろ姿では誰なのか分からない人もいた。また、スカートの丈が短くなっている子が何人もいる。男子の変化も女子に引けを取らなかった。肌が黒くなったことは皆同じだったが、アクセサリーを身につけている人や髪色を金色にしている人もいた。もちろん、先生に見つかると同時に怒られていたのだが、当人は全く反省している雰囲気はなく、逆に楽しんでいる様子だった。

 静香はまた心に薄い霧のようなものが漂っている事に気付いた。私はこの夏休みで何か変わっただろうか。髪型、服装、喋り方、恋愛。変わったのは部活によって日に焼けた肌であり、皆が同じ変化を持っていた。貴重な何かを落として失くしてしまった。そんな感覚に静香は陥った。

 朝のホームルーム。先生が教室へと入ってくるなり、自分の生徒の変わり様に笑顔で驚いた。先生が笑うと、みんなも自分たちを笑った。静香も笑顔を見せたが、雰囲気に流されたものだった。口角は上げようと思っても、硬さを助長するだけだった。

「えっと、皆さんが無事学校に戻ってきたという事で、先生からも報告があります」生徒たちの声がリモコンで音量を下げたかのように小さくなった。だが、皆がつぶやくので騒々しい。教室は八割の期待と二割の不安に包まれた。

「今日からこのクラスに新しい生徒が加わります」先生がそう言うと、教室はさらに騒々しくなった。すぐに紹介されるというのに、どんな生徒が入ってくるのかを皆が予想している。「じゃあ、入ってきてくれるかな」

 先生の言葉とともに教室へと足を踏み入れた少年は日焼けした静香やクラスメイト達よりも黒かった。見慣れない顔つきで、表情は緊張しているのか強張っている。その緊張が生徒たちと共有されたかのように騒がしかった教室は静けさを取り戻した。

「ベトナムから日本へと引っ越してきてくれた、グエン・スアン・タイン君です。日本語はまだ勉強中らしいので、皆さんもよかったら教えてあげてください」

 先生に紹介されると、ベトナム人という少年はぎこちない笑顔を見せた。一つ一つの顔のパーツがくっきりしている。眉毛は濃く、鼻はほっそりと綺麗な形だ。髪型は額が二、三センチ出るくらいの短髪だった。しかし、優しそうな目はあちこちを見て、何を考えているのか分からなかった。

 グエンは笑顔を思い出したかのように口角を上げて、指示された席へと向かった。窓際の一番奥の席だ。静香は廊下側の最前列だったので、教室の中ではグエンに一番遠い存在になった。

 授業が進み、短い休憩時間が訪れると、窓際に座っていた生徒たちがグエンの元へと向かい、話しかけた。話しかけたというよりは、一方的に質問をしていた感じだ。日本語を話せるか、普段何をしているか、何故日本に来たのかといったありきたりな質問が投げつけられた。グエンは本当に日本語が理解できないのか、愛想笑いで受け流すのが大変そうに見えた。日本にまだ慣れない少年の意思が介入する余地はそこにはなかった。

 グエンに注目していたのは窓際の生徒だけではなく、教室全体から視線を集めていた。気にしていないような素振りを見せている子たちも、横目で常にグエンの様子を窺っていた。

「ちょっとカッコいいよね。グエン君」休憩時間になり、静香のもとへと話しにきた美希がいった。

「うん、カッコいいかも」美希につられて静香も呟く。もちろん、グエンには聞こえない程度の声量で。

「ちょっと話しかけてみなよ。仲良くなれるかもしれないよ」意地悪な笑顔をしながら、静香を促した。

「え、でも、恥ずかしいよ」

 実際、静香もグエンに話しかけてみたい気はしていた。外国人とまともに話した事がなかった静香にとって、グエンは珍しい存在で、貴重な体験だった。だが、一日を過ぎても、静香はグエンに一言も声をかけられなかった。

 クラスメイトたちが、グエンと話している会話は瞬く間に学校全体へと広がった。父の仕事の関係で日本へと来たこと、ベトナムの文化、そして日本語が片言でしか喋れないこと。それらは先生が最初に言った内容と同じだったが、全てが新鮮で、違う色に思えた。

 知らない国の知らない学校に通うのってどんな気持ちなんだろう。

 帰りの地下鉄の中、自分の心の中にまた薄っすらと霧が立ち込めるのを感じた。中程度な成績で、将来役に立つのか分からないと思う勉強をする毎日。部活も頑張ってはいるが、都大会ですら出場できるか分からない実力だ。ましてや海外なんて行ったことない。

 このまま何も経験せずに人生を過ごしていくのだろうか。誰かに面白い話を出来るわけでもなく、平凡で、普通な人生を歩んでいくのだろうか。

 霧はさらに濃くなり、静香は自分の身体ですらもしっかりと認識することが出来ない。

 変わりたい。

 普通の人生なんて、つまらないよ。

 静香は霧を両手で必死に掻き分け、霞んだ道をゆっくりと歩きはじめた。

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