第21話 ばらばら

 あなたのことが好きだった。

 なのに私は裏切ってしまう。

 裏切りだけど、それが唯一、私ができることだと思ったから。

 いいえ。それは言い訳。

 大好きなあなたといて、とても辛かったから。

 でもこれも言い訳。

 何を言っても、しても――、結果は大好きなあなたを裏切ってしまった。


 私達は殆ど喧嘩はしなかった。桜木君に何か注意したら、すぐに直してくれたし、桜木君が私に何か言うことなんて一回もなかったから。

「何か私に要望はない?」

「よくやってくれてるから…何もないけど」といつもそう言われた。

 喧嘩をしたのは子供のことだった。

 子供のことを持ち出した日から、頑なに続けていた避妊をしなくなった。それは子供ができてもいいということだと私は思って、正直嬉しかった。

「いいの?」

「いいよ。できたら…何とかして育てよう」

 嬉しくて、嬉しくてまた泣いてしまった。

 それでも子供はできなかった。


 原因は私にあるのは分っている。生理不順だったから。病院に診てもらいにいって「妊娠が難しい体」と言われた。

 私は桜木君に何もあげられないことが哀しかった。

 不妊治療をするべきだと医師には言われたが、忙しい桜木君にそれは言えなかった。

 ただ私が妊娠が難しい体だと告げた時、彼は少しも悲しまなかった。彼は公演から帰ってきたばかりで疲れていたのかもしれない。テーブルの上に広がった検査結果や、電気料金のお知らせやらを慌ててまとめて端に置く。

「そっか。僕は治療してまでは…望まない。不妊治療は女性の負担が多いし」

「じゃあ…養子とか考える?」

 突拍子もない話だったかもしれない。でも私は桜木君ともっと強い繋がりが欲しいと思ったから、口に出してしまった。

「産めないけど、育てることはできるから」と私が言うと、桜木君は今まで聞いたこともないくらい厳しい口調で「そんなに簡単に決めることじゃない」と言った。

 私はいろんな言い訳を並べた。人のためになるとか、なんとか。多分、その場しのぎだったと自分でも思う。

 だからか桜木君はにこりともせずに言葉を放った。

「そんなに不安?」

 冷たい声が私を刺す。

「私は…」

 ただあなたと家族になりたかった。

「不安にさせてるなら謝る」

 床を見て呟く桜木君を見て、私はこの人を不幸にさせている…と思った。

「ごめんなさい。そうじゃなくて」

「いや、ごめん。君の方が辛そうだ」

 その時、私はこの人は人の痛みが分かってしまうから、優しいんだと知った。

「辛い診察をしてきたのに…ごめん」

 こんな時でさえ、私を気遣ってくれるから――。

 そんな彼に何も言えなかった。


 国際コンクールで優勝してから、日本ではほぼ日程が埋まっていたし、ドイツに帰ってきてもそれこそ世界中で演奏していた。今まではヨーロッパだけだったのに、アメリカ、中国、オーストラリア、ほぼ全ての大陸を制覇したのではないかと思った。アメリカには付いて行ったけれど、私はずっとホテルにいるか、街を散策するだけで、桜木君と一緒にいる時間は眠る時だけだった。それも私が寝てから帰ってくるような感じだったから、結局、私はドイツでお留守番をすることにした。一人で慣れた部屋にいる方がましで、アンナおばさんやエラと会えるドイツの方が気が紛れた。両親とはすこし気まずくなってしまって、日本に帰りづらい。私は窓辺に置いた小瓶に花を飾って、桜木君が帰ってくるのを待つだけの日々だった。


 暇な時間に見ていたブログでドイツの話をしている学生がいて、彼は日本の大学でドイツ文学を専攻しているらしく、ドイツ文化にも興味がある人だった。宇佐美宗うさみしゅうという男子学生だった。私が知っていることをコメントすると、返事が来るようになって、それが楽しみになっていた。会う事がないだろうし、私が知っていることを教えようという軽い気持ちだった。相手は十近く違う年齢だし、恋愛感情なんてない。お互いそうだろうと思って、私はコメントを書き続けた。


「冬休みドイツに行くので一日、案内お願いしたいです。お金払います」と私のコメントに返事が来た。

「お金なんていいよ」と返事して、個人の連絡先を交換した。

 個人の連絡先を交換してから、私はコメントを書かなくなった。わりと頻繁に彼から連絡が来る。彼女の愚痴やら、毎日の課題。私は大学なんて行ったことないから、そんな話も楽しかった。

 宗君とやりとりしているせいか、私は桜木君のことを追い詰めるようなことをしなくなった。

「最近、楽しそうだね」と言われる。

「え? あ、うん。ドイツ文学を勉強している学生のブログが面白くて」

「へぇ。そうなんだ。ドイツ文学とかよく分からないけど…」

「私も分からないけど…」

「紫帆さんって、ほんと可愛いね」

「え?」

 よく分からない理由で褒められる。ただそれだけで私は嬉しくなる。

「いろんなものに興味があるし」

「それは今までバレエしかしてこなかったから」

「僕は未だにピアノしかしてない」

 そういう桜木君が私も可愛く思えて、抱き着いてしまう。

「そういうとこ、好き」と言うと、桜木君の顔が赤くなって、驚いた。

「どうもありがとう」

「ふふふ。好き」と繰り返すと、キスをされて、言い続けることを阻止された。

 そう。

 幸せだった。

 私は大好きだった。


 まさか初めて会った宗君と肌を重ねるなんて思いもしなかった。

 桜木君と違う声、指、背中。

「紫帆さん、綺麗だ」

 薄く微笑むしかなかった。性急に求められて、私は自分が無くなってしまえばいいのに、と思った。なのにどこか冷静に観察している。若い彼は細くて、背中も頼りない。桜木君と比べてしまう。

 私の名前を呼ぶ声が切なくなってくる。

「妊娠しないから」と私は彼の耳の側で言った。

「え?」

「しないから」

 驚いたような顔で私を見るけれど、彼は唇をぎゅっと噛んで、上体を倒してくる。

(裏切り)

 私は目を瞑った。


 あの日、珍しく早く帰った桜木君が日本からのエアメールを受け取った。それから何時間ピアノの前に座っていたのだろう。

 部屋はすっかり暗くなっていて、私は桜木君が帰ってきてるなんて思いもしなくて、灯もつけずにピアノの前に座っているから少し驚いた。

 私が帰ってきたのを見て、立ち上がって「ワインを買ってくる」と部屋を出て行った。いつもきちんとピアノの蓋を閉めていくのに、開け放しで、私は蓋を閉じようと、譜面台の楽譜を持ち上げた時、ハガキが落ちた。可愛い赤ちゃんの写真が印刷されていて、差出人は「手塚沙希」と書かれている。元恋人の出産報告だった。

 しばらくして帰ってきた桜木君はいつもと変わらなかったけれど、私は顔を合わせたくなくて「疲れたから寝るね」と言って、そのまま寝室に向かった。

 桜木君はその晩、ベッドに来なかった。明け方にはもういなくて、私は一人で涙を零した。


(意図して裏切った私)

 あの日、ピアノの前で微動だにせず、じっと座っていた桜木君――。

(桜木君は私じゃない人を想ってた)

 私が部屋に入ってきたのも気づかないほど。

(身体の裏切りと心の裏切りと違う?)

 違う。私は完全にあなたを裏切った。


 不思議だった。桜木君じゃない人でも快楽を感じることができる自分がいた。

 好きじゃないのに。

「紫帆さん、好きだ」

 私は頷けなくて、目を閉じた。

 心と身体がばらばらで、どうしていいか分からない。

 だた高まりを感じながら、桜木君だったら良かったのに、とどうしようもないことを考えて、自分が愚か過ぎて涙が零れた。


 家に帰ると、桜木君は次の場所に行ってたので、誰もいない。誰もいない暗い部屋で今度は私が動けなかった。

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