第20話 明け方のピアノ

 桜木君の実家は住宅地の中にあって、隣に古いアパートがあった。古い建物だが手入れがきちんとされているのが分かる。ドアに丸い擦りガラス窓がついていて、私が呼び鈴を鳴らすと慌てた足音がしてドアが開く。

「紫帆さん、良かった」とほっとした顔を見せてくれる。

「…ごめんなさい」

「どうして謝るの?」

「急に来て」

「いいよ。入って」と私のスーツケースを中に入れてくれた。

「雪が降ってるから寒いね」と言いながら、スリッパを出してくれる。

 玄関脇に階段がある。

「二階に荷物運んでくるから」とスーツケースを上げてくれた。

 私は下で待っていると、急いで降りてくる。

「桜木君…」

「お腹空いてない?」

 私は首を横に振った。

「リビングが温かいから、行こう」と案内してくれた。

 ダイニングとリビングが一つの部屋になっていて、奥にグランドピアノが置かれている。床は板間で、歩くと軋んだ。

「祖父母の家だから古いけど」

「ううん。素敵」

 昭和ガラスの入った引き戸で、縁側と区切られている。

「なんか、もっと近代的な建物かとは思ったの。でも昭和モダンで素敵」

「え? そうなんだ」

 私は家を見回す。傷一つ一つも馴染んで美しい。

「縁側には庭があるのね」

 綺麗な星の模様の入ったガラスの引き戸を少し開ける。

「小さいけどね。桜の木がある」

「桜木だから?」

「多分ね」と言いながら軽く笑った。

 私は桜木君に頭をもたせかける。

「…珍しいね」

「うん。私…」

 そこから言葉を失くした。母親と喧嘩したと言えなかった。原因が桜木君の贈り物だということも話したくなかったし、喧嘩する母親がいない桜木君には言えなかった。

「会いたくて」

「…ごめん」

「元恋人さんのこと、聞いていい?」と覚悟を決めた。

 後輩から聞いた通りの内容だった。付き合っていた彼女は恋人である桜木君のピアノがプレッシャーになって、弾けなくなってしまったと言う。

「ずるい男だから…。彼女がピアノを辞めてついて来てくれると言った時は本当に嬉しかった」

(すごく好きだったんだろうな)と私は思う。

「でも、やっぱりピアノが大事なのはお互いに分かってたから…」

 一番近くで互いの努力を見ていたからこそ、譲れないことが分かっていた。

「だから『ピアノを弾かない君なんて興味がない』って言って傷つけた」

 私は驚いて、桜木君の横顔を見た。

 月明りが庭に弱い光を投げかけている。

「それって…彼女と別れるための…」

「嘘だよ。ピアノを弾いても弾かなくても…大好きだったから」

 胸が痛んで、彼の哀しみも伝わって来て、泣きそうになる。

 でもこの人は好きな人のために、自分が重荷を背負った。祈るようなピアノの音が全て彼女のためだとしても納得できる。

「…うん。分かる」

 私がそう言うと、不思議そうな顔をして私を見た。

「分かる?」

「うん。桜木君の想いも、優しさも…傷ついたことも。きっと私じゃ埋められないけど。それでも…少しでも」

 抱き寄せられて、顔に息がかかる。

(あなたの力になりたい)

 私の言葉は桜木君の唇に触れて、吸収される。

(あの人の代わりでもいい)

 柔らかい髪に触れて、指で輪郭を辿る。

(あなたが少しでも救われるのなら)

 そう思いながら、私は桜木君のように手を離すことができないのだからエゴだと思う。唇が離れて、私は彼を見た。

「好きだよ」

 そう言われてもなお、一番じゃなくてもいいと言いながら不安を感じるのが哀しくて、そのまま彼の胸に倒れた。

 きっと私の不安は伝わっている。

 だからその日は本当に優しく包むように抱いてくれて、本当は私があなたを大切にしてあげたいのに、と涙が零れた。避妊具の始末をしている桜木君の後ろ姿に背を向けた。

「紫帆さん?」

 慌てて涙を手で隠す。

「恥ずかしい」

「え? まだ?」

「まだって…」と覗き込む顔に、どういう顔をすればいいのか分からない。

「慣れない?」

「な…慣れてるわよ」

 言い返すと、軽く吹きだされる。年下のくせに、と思ったけど、それを言うと、自分の年齢を示唆することになるから、言えずに黙った。

「そう? じゃあ」

「じゃあ…って」と私が慌てると、また軽く吹き出す。

「もう寝よっか。疲れたね」と言いながら、私の額を撫でる。

「…うん」

「そういうところは素直だなぁ」と言って、私の横に横たわる。

 彼の方に向き直って、私は軽く質問を投げかけた。

「桜木君…赤ちゃんとかって考えてる?」

 一瞬、笑顔が消えた。

「…今はまだ行ったり来たりだし…、紫帆さん欲しいの?」

「えっと、どうかなって」

「ちょっとごめんね。今は」と言って、私の頭を胸に抱えた。

 だからその胸に頭をつけて

「私の方こそごめん」と言った。

 彼は結婚してから、ずっと避妊具をつけていた。結婚したのに、と思ったけれど、最初に「まだ子供は考えられないから」と言ったのを私は何も考えずに受け入れていた。私も子供のことなんて少しも考えてなかったからそれで良かった。

(もしかして彼は…自分の生まれた環境のせいで子供を持つ気になれないのかもしれない)とは思っていたけれど、それも立ち入ったことのようで聞けなかった。

「ううん。考えるから」

 いつもあなたが優しいから私は不安になってしまう。私が幸せにしてあげたいのに、あなたに何かを負わせているのは私だった。

(赤ちゃん…がいたら何か変わるのだろうか)と目を瞑る。

 また私は手の届かないものに手を伸ばそうとしていた。


 明け方、桜木君がベッドから出て、しばらくするとピアノの音が聞こえてきた。何の曲だか分からない。指の練習曲かもしれない。その音を追いかけていくうちにまた眠りに落ちた。

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