第9話 失恋
部屋にドライフラワーにした花束がかけられている。
それを見る度に幸せな気持ちになる。別に特別な思いがあるとは思っていないけれど、やはり好きな人からもらったものは嬉しい。好きな人と自覚して、私は初めて恋をした気持ちになった。
「えー? 片思い?」とエラから言われてしまう。
エラと今日は久しぶりにお買い物に来ていた。もうすぐ結婚するというので、お祝いに何かプレゼントしようと、エラが欲しいものを買うつもりだ。プレゼントと言っても、高価なものではなく新生活に必要な電気ポットを買いたいと言う。
「片思いよ。なんだか忘れられない人がいるみたいで」
「なにそれ?」とエラが聞き返すから、私は昔の恋人と好きだったけど、上手く行かなくて別れたと話した。
その話を聞きながら、エラが「どんな人? 大体、失恋したって、次の恋をするのが人間でしょ?」と笑う。
「人間じゃないのかも。だって、綺麗だし」
「わー。見てみたい。ちょっとシホのアパート言っていい?」
「行ったって、簡単には見れないよ」と私は慌てる。
「うーん。なんか理由つけて訪問したらいいじゃない」とエラは行く気満々だ。
「なるべく邪魔したくないの」
「え? 本気で好きなんだ」とエラにじっと顔を見られる。
「本気?」
「…そうよ。相手のことを思えるって、本気で好きなのよ」
首を傾げる。私は邪魔したくないと思うのは、邪魔して嫌われてたくないという気持ちもわずかながらあるからだ。
「そんなこと…ないよ」
「シホ…。伝えないの?」
慌てて首を横に振って「しないよ。だって、同じ建物に住んでるのに気まずくなるの嫌だし」と慌てて否定する。
「断られるかなんてわからないじゃない」
「断られるよ。分かるの。絶対、無理だって」
「どうして?」
薄い茶色の瞳が私の顔を覗き込む。あまりにも透明でたまに見えてるのか、と思ってしまうぐらいだ。
「…それは…壁があるの」
「壁?」
「すごく分厚い壁を感じる」
「そんなの分かんないじゃない。そう勝手に思ってるだけかもしれないし」
「ううん。…分からないけど。でも…」
エラの顔を見ながら思う。ピアニストもそうだ。少し茶色がかった薄い瞳は私を見ている気がしない。隣にいて、話をしていてもどこか違うところにいるんじゃないかと思ってしまう。
「自信もって。シホは綺麗なんだから」
「ありがとう」と笑って言ったが、自信なんてどこにもない。
私達は家電店に入って、赤い電気ポットを選んだ。そのお店で保温できそうなスープジャーを見つけたからついでに購入する。
(これでスープを運びやすくなる)と思ったからだ。
バレエをして、片思いしながら、スープを運んで、そうやって一年過ぎた。
ある日、アパートに入ってすぐの郵便受けのあるところで桜木君が立っていた。気軽に声を掛けれるくらいには距離が縮んでいたから、挨拶したけれど、聞こえていないのか立ち尽くしている。
「こんにちは」とはっきり伝えたら、手にしていたハガキを落とした。
私が思わず拾ってしまったそのハガキは美しい女性のウエディング姿だった。
「あの…」と渡すとさっと受け取って
「ありがとうございます」とだけ言って、アパートから出て行ってしまった。
綺麗な花嫁だった。
そして桜木君の態度を思うと、写真の女性は彼の元恋人だったんじゃないかと想像した。本当に綺麗な人だったから、桜木君とお似合いだった。私も何だかぼんやりしてしまう。
(桜木君は…いつかまた復縁できると思ってたんだ)
勝手に私の胸がキリキリと痛む。
桜木君と私は今日、同時に失恋した。
だからと言って、私が何ができるわけでもない。
自分の部屋に上がって、窓を開ける。ピアノの音は聞こえてこないけれど、雨が降りそうな重たい雲が広がっていた。
母親から電話がかかってきて、そろそろ帰って来なさいと言われる。私はまだエトワールになれないでいた。
(もう永遠になれないんじゃないか)とそう言う気持ちにすらなる。
あの日からピアノの音がしない。私も息ができないまま沈んで行く気持ちになった。
アパートの中にいるのかも分からない。在宅が確認されなければ、スープも持って行けなくなる。
私の郵便受けにさっくんから手紙が届いていた。さっくんも結婚したのだろうか、と思って開けると、予想とは違っていた。
『紫帆ちゃん
元気にしてるかな。今度、アメリカに転勤になった。残念ながらドイツではなかったけど。でも次はドイツに希望を出そうかな。紫帆ちゃんが良ければだけど。なんて考えてしまった。
やっぱり忘れられなくて。
何かあったら…、なくても、良かったら連絡ください』
手紙を三回ほど繰り返し読んでから、折りたたんで封筒にしまう。
(振り向いてもらえない恋なんて不毛なのに)と自分で思いながら、さっくんのためにいい返事ができないのが分かった。
どしたらいいんだろう。
私は何をここでしたらいいのか分からなくなってしまった。
恋に溺れていたせいかもしれない。踊ることがあんなに好きだったのに、少しずつ気持ちが上手く乗せられなくなった。後輩たちや新人の踊りにはっとする時もある。私がアジア人だからという理由ではない。アジア人であれ、白人であれ、等しく年を取るのだ、と思う。
(もう若くない)
そんなことを思うようになった。
母がさっくんと繋がっていたことは知らなかった。帰国を執拗に促すのはそう言う事で、私とさっくんの結婚を母は熱望している。
私は好きな人が振り向いてくれそうもないので、帰国も視野に入れ始めた。
「いいの?」
赤ちゃんが出来たと言うエラと久しぶりに会った。エラの家は我が家とは違って、近代的なアパートで、広くて綺麗だった。光がたくさん入る大きな窓には赤い花がたくさん植えられている。
「え?」と私はエラに聞かれて、反応に困る。
「シホはそれでいいの?」
「エラ…。私…疲れたの」
不意に出た言葉だった。
「え?」と驚いた顔をするエラを眺めながら、確信した。
「ずっと、バレエばっかりして、エトワールなんか大それたこと夢見て。年だけ重ねて…。恋愛だって、上手く行かなくて…、何だか疲れちゃった」
「シホ…。本当に疲れてるのね」
「そうみたい」
私を癒してくれるピアノをもう何日も聞いていない。黙って私を見るエラに泣き言を言う。
「私、頑張ったよね? エトワールになれなくても」
「もちろんよ。シホは才能もあって、努力もたくさんしてた。誰よりも綺麗で…」とエラは必死に慰めてくれる。
「もう…帰ろうかな」
「帰るって…日本に?」
「うん。もうずっと…つま先立ちしてたの辛い」
何故かエラが泣き出した。
「シホ」と言って、抱きしめられる。
「もうかかと下ろしていいよね?」
「シホが一番頑張ってたの。私知ってる」
世界でたった一人、エラは分ってくれた。きっと母親は知らないし、永遠に分からない。でもそれでいいと思う。エラの泣き声を聞きながら、こうして自分のためにたった一人でも泣いてくれるなんて、幸せなことだと思った。
「エラ…お腹の赤ちゃんが心配するから」
「だって…シホ」
「いいの。私、頑張ったから」
そうだ。私は頑張ったから、ともう一度心の中で繰り返す。いつしか私はスポットライトを眩しすぎるように感じていた。広い舞台でジャンプすることもターンすることも楽しくなくなっていた。難しいことも難なくできるからだろうか。年を重ねて落ち着いたからだろうか。新人たちが眩しく見えるからだろうか。全てがそうで、でも何一つ確信ではない。
哀しい恋をしてしまった人間は踊れないのかもしれない。
次回舞台のオーディションが始まった。舞台袖から見えるスポットライトが眩しすぎる。かつて私はその灯の中に入りたくて仕方がなかった。その光の中で何回転もして、拍手をもらった。目が回りそうになりながらも、軸だけをしっかりと足で加速する。あんなにも楽しかったダンスが楽しくなくなってしまった。どれだけ高く飛べるか。着地の衝撃も考えて、計算するようになった。
疲れたので辞めますと私の矜持のせいで言えなかった。
やっぱりそれだけ私は長い時間ダンスに費やしてきたし、やはり愛していたから。楽しさを感じなくはなったけど、ダンスに対する想いが無くなったわけじゃない。
舞台の中心に走って向かう。そしてスポットライトの光に向かって、大きくジャンプした。今までにない強い踏切で高く上がった。
怪我するために。
怪我でダンスを辞めると言うために。
怪我で退団――。
そしたら私も周りもきっと納得できるから。
(踊らない足なんて、いらない)
着地時、足に痛みが走ったと同時に安堵の息が漏れた。
(さようなら。私の愛した場所)
スポットライトの眩しさで目を閉じる。慌てて駆け寄る人たちに申し訳なさを感じながら。
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