第8話 料理名
さっくんとの話が結論ついたので、朝の電話で母親に結婚はしないと伝えると、しばらく無言になった。
「…紫帆ちゃん。さっくんのこと…好きじゃなかったの?」
「そんなことないけど…。私、まだ踊っていたいの」
「踊っていたいって…いつまでそんなことしてるつもりなの?」
そんなこと…と母親が言った。
バレエをさせたのは母親だし、応援だってしてくれた。今更、『そんなこと』という扱いにされても私は困ってしまう。
「後少しだけ」
深いため息が耳に残る。
そんな態度を取られるが、毎月、母親の愛情たっぷりな小包が届く。今朝も届いた。おでんのパックなどが入っていた。
それを眺めていると申し訳ない気持ちになる。ピアニストにもおすそ分けしようと持っていくことにした。練習の邪魔になるから、とドアノブにメモをつけて引っかけておく。
そしてそのまま稽古場へ向かった。
エラが駆け寄って、婚約者を紹介してくれる。ドクターだと言っていた彼は少し年上に見えた。
「初めまして。紫帆です」
「エッケハルトです。よろしく」と丁寧にあいさつしてくれる。
「エラ、よかったわね。おめでとう」
「シホは彼とどうなったの?」
そう言われて、肩を竦めて首を横に振った。気のいいエラは私を抱きしめてくれる。
「シホなら、きっと素敵な人と結婚できるわよ。踊りだって上手いんだから」
「…でも、外国人だと…大変でしょう?」とエッケハルトが正直な感想を言う。
「ええ。でもハンデがある方がやりがいがあるんです」と笑った。
そうだ。ここで活躍するには人の三倍は努力しなければいけない。私はずっとそうやってきた。毎日のルーティーン、食事制限、練習。
「強い女性だ。でも良ければ友達を紹介しますよ」
「そうですね。辞めたくなった時はおねがいします」
エラが私の肩を優しく叩く。
「大丈夫。シホはきっとエトワールになれるわ」
私は微笑みながら頷いた。エトワールになったら、きっと母親も喜んでくれるはず。今の中途半端な位置だから結婚を勧めたのだ。
今まで以上に熱心に取り組んだ。
身体が疲れたけれど、アパートに帰ってきた。エレベーターもあるけれど、私はなるべく階段を使う。運動にもなるし、ピアノの音が聞こえるからだ。
軽やかな音に合わせて階段を上がる。壁に映る影を見ながら、手を挙げてポーズの確認をする。この影のように長い手足だったら、と思いながら登って行く。
ピアニストの桜木君のドアノブはもう何もかかっていない。きっと受け取ってくれたのだ、と私は思って、自然と笑みが生まれた。
自分の部屋のドアノブに花束がかかっていた。私がそれを取ろうとすると、隣の部屋のアンナおばさんが出てきて
「イケメンピアニストがかけていったわよ」と嬉しそうに笑う。
「あ…。ありがとうございます」
「いいわねぇ。若いって」と話しかけてくる。
花束にカードがついていて、私は早く見たくて仕方がない。アンナおばさんはおしゃべりしたそうだったけど「今日は練習がハードで疲れてるの」と断って部屋の中に入った。
花束は薄紫とピンクでまとめられていた。
「いつも気にかけてくださってありがとうございます。先日のお礼もまだでしたので、よかったらご飯でもどうですか」とメッセージが書かれてあった。
思わず両足で数回ジャンプしてしまった。それでも気持ちが収まらずに、ジャンプしながらリビングまで移動する。そして背面飛びのようにソファにダイブした。
もらった花束がふわっと匂いを漂わせる。
「わあ、私の名前、紫帆って知ってて、紫色の花を選んだのかなぁ」と独り言を呟きながら、花束を胸に置く。
すごくドキドキして、こんな気持ちは初めてだった。バレエで優勝した時とも違う。
花束をそっと抱きしめる。
(でも…別に特別な意味はなくて、ただのお礼)と言い聞かせる。
それでも私は嬉しかった。
今までもらったどんなプレゼントより心が弾んだ。
部屋に飾って、その後はドライフラワーにした。
それからピアニストの桜木君にご飯を誘われたのは一月後だった。
「遅くなってしまってごめん」と謝る顔をじっと見てしまう。
あまりの美しい造形はどんな表情でも見とれてしまう。
「お互い…忙しいから気にしないで」と何とか返事をした。
私は食事制限をしているから、と軽く食べられるカフェをお願いした。
「え? カフェ? もっとちゃんとしたご飯がいいかなって思ってて」
「ううん。そんなにたくさん食べられないの」
「バレエって大変なんだね」
「まあね」
それで近くのカフェに行った。私はサラダを頼んだが、桜木君はカフェで悩んだ末、オープンサンドを頼んでいた。
「前はイギリスにいたの?」
「イギリスの音楽院で勉強して…」と黒パンにハムが乗ったサンドを頬張る。
意外と、豪快に食べるんだ、と私は思いながら、サラダのレタスとカットする。
「イギリスは美味しかった?」と訊いたもののすぐに後悔する。
「いろいろ美味しいものもあったよ。スコーンとか、インド料理なんかも」
食べたことのないものだから、話が続かなくて、話題を変える。
「私はスイスの学校にいたんだけど、物価が高くて」
「あぁ、そうなんだ。スイスも綺麗そうだね」
「スイスのドイツ語圏にいたから、ドイツのバレエ団を受けたの。でもフランスに行きたかったな。もっとちゃんと最初から考えてたらよかった。先生の知り合いがドイツ語圏の人で」
「でも…中学卒業から来たんでしょ? すごいと思うよ」
褒められて、私はすごく顔が熱くなった。
「そう…かな」
手で頬を擦る。
「中学の頃なんて、僕は音楽の勉強するなんて思ってもみなくて」
「え? そうなの?」
「ピアノは祖母から習って、勉強の合間に弾いてて…。長期休暇には海外の講習会に参加してたけど…」
「それなのに、ピアノを目指してなかったの?」
「うーん。別に。その時はまだ何になるとか考えてなくて。まぁ、面白いからやってたけど」
「私はずっと小さい頃からバレエしかしてないから」
勉強はそっちのけでずっと踊っていた。だから、正直、勉強はよくできる方ではなかった。桜木君はきっと何でもできたんだろうな、と思うけれど、恥ずかしくて聞けなかった。
ぺろりとオープンサンドを平らげる。
「まだ何か食べる?」と私がメニューを渡すと、少し笑った。
「僕がご馳走しようと思って誘ったんだけど…」
「ありがとう。私、ずっと食事の意味が分からなくて」
「え?」
「食べるのが面倒くさくて。ほんと、錠剤で済むなら、それでいいなって思ってるの」
「…面倒臭いのは分らなくはないけど。でも踊るって体力使うんじゃない?」
「そうよ。だからちゃんと食べてはいるの。タンパク質も」
「タンパク質…。料理名じゃないんだ」と驚くから、私は慌てて「鶏むね肉とか」と言い直す。
「それも料理名じゃないよ」と柔らかく訂正された。
特別なことを話してるわけじゃないのに、私はどんどん惹かれていくのが分かる。
「えっと…茹でるの」
「それで味付けは?」
「味付けはそのまま…」
「そのまま? 塩胡椒も何も?」
私は首を横に振る。
「でもサラダにはビネガーとオリーブオイルかけるから」
「そっか」と何か言いたげだけれど、言葉を飲んだのが分かる。
「…おかしい?」
「おかしいって言うのは分からないけど。十五歳で海外に来て、頑張ってることは分った」
その言葉は私の心を柔らかくした。自覚なしに涙が零れる。
「ごめん、変な事、言った?」と慌てる桜木君を見て、首を横に振った。
「ううん。違うの。私…頑張ってたって、言われて…」
(言われて初めて気が付いた)
バレエの努力は自覚していた。それをするために日本を出てずっと海外で暮らしている。当たり前のことだと思ってた。でも十五歳の私が海外で暮らすことの大変さを自覚はしていなかった。そういうものだとどこか思っていた。
「ごめん。いや、頑張ってるって思ったけど…」
「ううん。あの…頑張ってたんだって自分で今思った」と泣き笑いしながら言う。
「言わない方が良かった?」
「そう言ってくれる人…いなかったから。バレエはともかく。生活のこととか…」
「日本でだって、十五歳で一人で暮らすって大変だと思うよ。ましてや海外だし」
私は頷きながらハンカチを取り出した。
料理もしたことがないまま、海外へ来た。最初の一週間はずっとりんごを食べていた。そんな話をすると「すごい」と感心された。
「踊りたかったの。踊るためだけに来たから。ご飯はどうでもいいっていうか…」
「そういうストイックさは僕にはないから…。尊敬する」
何気ない一言だったと思うけれど、私はその言葉でまた嬉しくなった。桜木君のお皿は空っぽで、私のサラダは少しも減らない。ずっとこの時間が続けばいいのに、と思いながら、小さくカットしたレタスを口に運んだ。
「なんか、今日のサラダは美味しい」と言うと、やっぱり美しい顔で微笑んでくれた。
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