第2話 一万人ボタン

 ある日、いつも通りテーブルでワインを飲んでいたらテーブルに置かれたティッシュ箱の隣に居酒屋の注文ボタンのようなスイッチを見つけた。ボタンには、文字が書いてあるテプラが貼り付けてあった。

 「если нажать на эту кнопки, вы можете убить десять тысяч человек」

 なんだ?これ何語?俺は、大学では必須語学の単位落としたし、語学はからっきしだ。ドラゴンボールのナメック星の言葉みたいだな。とりあえず押してみようか?でも怪しい。いろいろ考えていたが、電源のコードも無いし、何も起こらないだろうと思い、押してみた。‥やはり、何も起きない。なんだ、どっかの居酒屋で酔っ払って持って来ちゃったのかな?まあいいや、明日のゴミの日に燃えるゴミで出してしまおう。そう思った。


 次の日も死ぬほど退屈な日だった。一日中エクセル遊びをして過ごした。薬を飲み出してから、チンコが勃たなくなって久しい。だが、その日はなんだかムラムラが来たので帰りがけにテコキ風俗に行った。無愛想な年増女にJKの格好をさせてテコキしてもらう。ポッコリと出た自分の腹に嫌気がさしながらも、そのなんの変化も無い手の上下運動に久々の射精をした。

 ガランとしてほとんど生活臭のしない家に帰り、電気をつける。安い白ワインをテーブルの上にどかっと置いた時、あるものが目に付いた。また箱ティッシュの隣に居酒屋のボタンがある。今日燃えるゴミで捨てたのに。え、なんで?頭が混乱したが、昨日酔っ払ってたから捨て忘れた、ということで自分を納得させた。

 もしかしたらこのボタン押したから昨日ムラムラ来たのかな、という考えが頭をよぎった。じゃあ、ボタン押しまくれば性欲が高まって生きる活力が生まれるかもな。押しまくろう。そう考え、十回連続で押してみた。しかし、なんのことはない。性欲も高まらないし、何も起きない。馬鹿馬鹿しくなって、ボタンを放り投げ、ワインを一気に飲み干して眠りについた。

 次の日もまた惰性で出勤した。何もやることはないのに。カバンから財布を出そうと漁っていたら、カバンの中にあのボタンを見つけた。あー、酔っぱらって会社にも持ってきちゃったよ。なんなんだ、これ、と思ったら後ろを古田が通った。とっさにボタンを机の中にしまい、背筋を伸ばした。古田はフロアを出てトイレに行ったようだった。一々こっち見るんじゃねぇ、糞ハゲが、と心の中でつぶやき、机の中に入れたボタンを再びカバンにしまおうとした。少しむしゃくしゃしていたため、ボタンを三回押した。

「死ね、死ね、死ね」


 フロア内の別の列で、課長が行き遅れ独身女と楽しそうに話していた。こいつも俺を責め立てた一人だ。俺が辞めるのを待っているのだろうか。

 「なんか、芸能人が立て続けに死んでるよな~。昨日なんて大御所俳優の大杉巌と歌舞伎役者の市川右近が死んだよ。どっちも肺炎だってさ。市川なんてまだ若いのにかわいそうだよなー。」

 ほんと糞どうでもいいことを話してるな。暇していると、どうでもいいことも耳に入ってきていけない。エクセル遊びに集中しよう。ファイルを作ったり、消したり、無駄なマクロ組んでみたり、不毛な作業を延々と続ける。

 帰り道、いつも前を通る交番に違和感を覚えた。都内の交通事故死亡者数の掲示板がおかしい。いつも五、六件くらいなのに、死亡者数が九十六件となっていた。一方、負傷者数は十件。明らかにおかしい。昔、交通戦争とか言われていたが、この数字は異常じゃないか?でも、まあ自分には関係ない。考える必要はないか。いつも通り、ワインを買って帰り、泥酔して眠りについた。

 

 次の日、パソコンを開けると社内メールが十件来ていた。十件とも社員の親族が亡くなったという回章通知だった。日付は一昨日から昨日だ。昨日の警察の掲示板といい、良く人が死んでいくな。季節の変わり目だからかな。また、今日も一日エクセル遊びをしよう、と思っていたら、課長があわただしく別のフロアに打ち合わせに行った。なんかバタバタしてるな。しばらくして、課長が戻ってきた。課の全員に集合がかかった。もちろん、俺もだ。会議室に集合すると、課長が重々しく口を開いた。

 「昨日夜、調整係の古田さんがお亡くなりになりました。交通事故です。回章を回す前に皆さんにお知らせいたします。」

 唐突な課長の言葉に、課員全員が衝撃をうけている様子だったが、俺も例外ではなかった。

 「古田が死んだ・・」

 俺がいつも妄想していたことが現実になったんだ。日頃より渇望していたことだが、いざ現実になると何の感情も湧かない。ふーん、と思うだけだ。何故か泣き出す女子もいた。こういうやつは、別に死者の弔いのために涙を流しているんじゃなくて、泣いている自分が好きなんだ。冷静に分析をしている自分に気づく。しかし、どうも立て続けに人が死にすぎていることについては、非常に違和感があった。俺があのボタンを手に入れてからだ。やはり、あのテプラの文字になんか意味があるに違いない。

 俺は、何故かずっとカバンに入ったままのボタンを取り出し、文字をまじまじと見てみた。何語なのかさっぱり見当がつかない。しかし、昔携帯で使った顔文字の一部、口みたいなものがあった。「Д」という字だ。とりあえずこれをグーグルで検索してみた。仕事と全く関係がない作業をしているが、今日は俺を監視する古田もいない。死んだから。いつも以上に集中ができる。

 グーグルでは、ウクライナ語、キルギス語、ブルガリア語、ロシア語と出てきた。ロシア語で「デー」と読むらしい。とりあえずロシア語で検索してみよう。ここからの検索が一苦労だ。ロシア語のアルファベッド一覧表で一文字ずつ拾い、苦労してテプラの文字列を完成させた。これをグーグル翻訳で翻訳してみる。すると・・

 「このボタンをクリックすると、あなたは一万人を殺すことができます」

 やはり。やはりだ。大量死亡にはこのボタンが関わっていたのだ。つまり、俺が大量殺人をしたことになる。しかし、罪悪感はみじんもなかった。何せ、俺はボタンを押しただけ。あとは俺の知らないところで勝手に死んでいるんだ。しかもごく自然な死因で。別に俺が殺したわけじゃない。「死ねばいいのに。」そう思っただけだ。そうだ。みんな単純に寿命なんだ。何も不自然なことないじゃないか。

 俺は、罪悪感を覚えるどころか、一種の恍惚感を得た。社会に虐げられてきた俺が一発逆転できる。このボタンは不遇な俺への神からのギフトだ。そう思った。

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