第廿六話 散歩
戻った俺と颯真さんは異常がなかったことを伝えると、燈代さんは涙を浮かべながら嬉しそうにしていた。
美燈もホッとした顔を浮かべている。
だが、俺の中では気持ち悪さが拭えなかった。
影……そして、どこからか感じる視線。
それに、死んだ男性……あれは、俺がもう逃げられないことを示しているのではないか?
駄目だ、少し気分転換をしよう。
予定していた、2階の探索の前に少しだけ紅暮荘の外を散歩することにした。
「慣れて来たけど、向こうじゃ見れない景色だよな」
山道に生い茂る紅葉と冷えた風。
そして広い空。
都会じゃ、どこを見上げても必ずビルが目に入る。
落ち葉がふわりと顔に舞い降りてきた。
反射的に手を伸ばし、視線を上げた――その瞬間だった。
「痛て!」
「うぉ!!」
情けない声と共に、何かが俺にぶつかってきた。
よろけながら前を見ると、中年の男が地面に尻もちをついていた。
「す、すみません」
くたびれたクリーム色のジャケットに、ぼさぼさの髪。
どうやら、空を見ながら歩いていたらぶつかってしまったようだ。
「こんな人の少ない場所で、ぶつかられるとは思わなかったよ」
男は立ち上がりながら、ジャケットについた落ち葉を払い、こちらを見た。
その目がぱっと見開かれる。
「もしかしてあれかい!? 当たり屋っていうやつかい!? 僕はそんなにお金を持っていないよ!」
あまりにひどい誤解だ。
「い、いえ。空が広いなぁと思いながら歩いていただけで」
一瞬、疑うような顔をしていたが男性も空を見上げると少しだけ微笑んだ。
「確かに、都会ではこの空は見えないかもしれないね」
その口ぶりからして、この人も都会の人間らしい。
「そういえばどうしてこんなとこに? 旅館のお客さんですか?」
湧いて出てきた疑問を口にする。
ここは何もない山道、都会から来た人が何の用もなく来るとは考えづらいし、あるとすれば貴重なお客さんの可能性が高い。
「あぁー。旅館って紅暮荘だよね。用があると言えばあるんだけど」
となると、やっぱり紅暮荘に用があるのか。
せっかくの来訪者だ。居候の身としては、一人でも客足をつなぎとめたいところだった。
「失礼しました。旅館はこの先ですよ」
「あぁ。もしかして従業員の方? 実は宿泊しに来た訳ではないんだ……」
どういうことだ?
「僕は文芸ライターをやっていてね。過去の作家について調べているんだ」
「過去の作家について?」
俺の中で一人の名前が思い浮かぶ。
「秋房 冬至っていう作家を知ってる? あんまり有名ではないんだけどさ」
「どうしてその作家を?」
「フフ。君も文芸ライターに興味があるのかな? 文芸ライターっていうのはね……」
……しまった。変にスイッチを入れてしまったか。
「作品を読んで感じることは人それぞれだろう? でも、作家の性格や生き方、当時の様子が分かれば、作者が作品にどんな気持ちを込めたのか。そういった別角度の視点が見えてくるわけだ」
「美術で言うならゴッホの作品は彼の人生を知ることでより深く感じられるだろ?」
何となくわかるような気もするが、いまいちピンとこなかった。
正直、ゴッホのこともあまりよく知らない。
「それなら、紅暮荘に泊まってみた方が早いんじゃ……?」
話を遮るように話題をすり替える。
すると、男性はしょんぼりとした雰囲気を出しながら語った。
「最初は泊まるつもりだったんだけど……あの景観、見た瞬間に萎えちゃってさ……」
男性は俺の方を掴んで続けた。
「……怖いだろ。明らかに」
「え?」
聞き間違えだろうか。
「僕、怖そうな場所はほんと無理なんだ! 幽霊とかおばけとか特に!」
「ああいうとこって、絶対出るじゃん……この歳でもホラーはほんと無理でさ」
聞き間違えじゃなかったようだ。
「でもまあ……どうしても気になるから、しばらくこの辺にいるつもりなんだよ」
そう言って、彼は何かを思い出したようにポンと手を打った。
「そうだ! 君、旅館の人なんでしょ? 何か変わったことがあったら教えてくれないかな」
「俺がですか……?」
少し気圧されながら尋ねると、男性は勢いよく頷いた。
「僕の名前は、白瀬 霖一(しらせ りんいち)」
胸を張ってそう名乗ると、名刺をぐいっと差し出してきた。
その口元には、どこか得意げな笑みが浮かんでいる。
「はいこれ! 明日もここ集合ってことで、よろしくね!」
あまりに自然に言われたせいで断る隙もなく、思わず頷いてしまった。
白瀬さんがそこまで言うと、彼のポケットから音が鳴る。
彼はガラケーを取り出すと小さな声で返事をする。
「あ、やば。呼び出しくらっちゃった。じゃ、よろしくね青年! 楽しみにしてるから!」
そう言って足早に去っていった。
残された俺の周りを秋風が吹き抜ける。
「……まぁ、気分転換にはなったか」
俺はすっかり冷めた恐怖心がまた芽生える前に、旅館へと戻った。
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