第廿壱話 別れ

——秋の虫の声が耳に届く。

 ゆっくりと意識が浮上していく。


 部屋に差し込む陽の光は、朧気な月明かりに変わっていた。


「寝すぎたか?」


 仮眠のつもりだったが、思ったよりも眠ってしまっていたようだ。

 美燈も起こしてくれればいいのに、それとも彼女もまだ眠っているのだろうか。

 少しだけ重たい体を起こす。

 部屋を出れば人気のない廊下を秋の風が撫でていた。


 美燈の部屋に目をやる。

 まだ寝ているのだろうか——明かりは消えたままだ。

 起こすつもりで、扉に手をかけた。


——ギシッ……ギシッ……


 木目を踏む足音が聞こえた。

 背筋に冷たいものが走ると、視線を音の方に向ける。


「……美燈?」


 視線の先では、美燈が縁側の方に消えていく姿が見えた。

 さては、しびれを切らして先に向かってしまったのか。

 慌てて美燈の後を追いかける。


 月明かりの差し込む、寂れた中庭を美燈が歩いていく。

 声を出して止めればいいのだろうが、不思議なことに物静かなこの場所で声を張り上げる気になれなかった。

 なるべく急いで、彼女の後を追いかける。


「そっちって……」


 美燈は中庭の角、建物の横道を抜けていった。

 あそこは駐車場に続いている道、そして。


 悪寒を感じて駆け足で追いかける。

 もっと早く気づくべきだった。

 様子が明らかにおかしい。そもそも彼女は、靴すら履いていなかった。

 横道に差し掛かったとき、声が聞こえた。


「ひくっ……ひくっ……」


 少しだけ顔を覗かせる。

 そこには駐車場の真ん中に立つ美燈がいた。

 思わず彼女の名前を呼びかけたときに思いとどまった。


 ……違う。呼ぶべきは、美燈の名前じゃない。

 あの日、宵香さんに掛けなきゃいけなかった言葉が、確かにあったはずだ。

 ポケットに入った懐中時計を強く握りしめた。


「……宵香」


 俺は一歩踏み出すとそう呼びかけた。

 鳴き声は止まった。

 そして、美燈はゆっくりと振り返ると優しく微笑んだ。


「……冬陽様、いらっしゃったんですね」


 そこにはわずかに赤く腫れた目元が見えるだけで、涙はなかった。

 そう、彼女は俺を冬陽と思っている。そのうえで未だに隠そうとしている。


「宵香、隠す必要はない」


「……どうなさったんですか? いつもとお様子が……」


 俺は言葉を紡ぐ。


「宵香、お前の気持ちには気づいていた」


「だが、すまない答えることはできない」


 俺の言葉に美燈、いや宵香さんは崩れ落ちそうになりながらこちらへ歩いてくる。

 そして、俺に寄りかかった。


「宵香、本当にすまない……」


 その言葉を彼女はどう思ったのだろうか。

 宵香さんの手がゆっくりと俺の背中に回り込む。

 そして、彼女の口元が、俺の耳元に近づいていく。

 吐息のような囁きが、鼓膜を震わせた。



「……貴方は、冬陽様じゃない」



 その声と共に、激しい悪寒が全身を包みこんだ。


「……貴方は、誰?」


 宵香さんがそっと俺を抱きしめる。

 だがその体温は感じられず、まるで氷のようだった。

 抱きしめる力がじわじわと強まり、呼吸を奪っていく。

 苦しい。

 意識が、徐々に薄れていく。


 遠のく意識の中で、美燈の顔が近くに見えた。

 優しい表情で、ゆっくり俺に唇を寄せていた。

 ふいに、学生時代からここ数日の出来事が、走馬灯のように頭をよぎった。

 そして、彼女の顔を見て呟く。


「……ずっと綺麗だ」


 なぜその言葉が出たのか、自分でも分からなかった。

 ただ、美燈の面影をしたその姿に、どうしても言いたくなった——。


 宵香さんの瞳が、一瞬だけ震えた気がした。


 その瞬間、絡みついていた冷気と圧迫感が、跡形もなく消えた。


「……ゲホッ……ゲホッ」


 息が肺に流れ込んでくる。

 次第にクリアになる視界で、宵香さんを見上げた。

 彼女は、呆然と立ち尽くし静かに欠けた月を見つめている。


「貴方はどなたですか?」


「惟遠といいます。父は冬陽の子孫で、母は……あなたの血を継いでいます」


 振り向いた彼女の顔は見えなかったが、少しだけ微笑んだ気がした。


「それで見間違えてしまったようです。ごめんなさい」


「いえ、後悔は無くなりましたか?」


 そう呟く俺に彼女は振り向くと、いつものように微笑んだ。


「わかりません。でも少しだけ清々しい」


 そして俺の頬に触れると、優しくおでこに口づけをした。


「……貴方は、秋房先生に……そっくりね」


「……それってどういう」


 質問を投げかける俺の口に宵香さんが指を当てる。


「きっと分かるわ。さよなら惟遠君」


 そう呟くと、美燈が崩れ落ちるように寄りかかってきた。

 支えきれずにそのまま地面に倒れ込む。


「……あれ? 惟遠君?」


 宵香さんの気配が風に溶けるように消えたあと、美燈の声が戻ってくる。

 その柔らかな重みが、現実だったと気づかせてくれた。


 俺の視線の先にはいつもの美燈が居た。


「……あれ、じゃねぇよ……」


 理由なんて分からなかった。ただ、胸の奥から込み上げてくるものを止められなかった。


 どこを探しても宵香さんの気配は、もうどこにもなかった。

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