第廿話 残り香
「そういえば……どうして、ここに?」
不意に気になって、美燈に尋ねた。
ここに来ることは、颯真さんしか知らないはずだ。もしも、美燈が来ていなかったら、俺は一体どうなっていたのだろうか。
「車を止めたときに、旅館の男の人が上にいるって教えてくれたの」
やはり、颯真さんが教えてくれたのか。
「なるほどね、とにかく助かったよ。まじで」
後ろを見れば、本館への扉は閉じきっており、物音ひとつしない。
「とりあえず、下に戻ろう。そこで色々話す」
「分かった」
俺は下に戻ると、食事処の静かな灯りの下、俺と美燈は向かい合って座った。
手のひらには、先ほど見つけた宵香さんの日記がある。湿った指先で紙をめくるたび、今もなお残る恐怖と、そこに記された過去の痕跡が入り交じる。
「それで……何があったの?」
美燈が静かに尋ねる。彼女の視線は俺の手元——日記に向けられていた。
「この日記を見つけた。宵香さんが書いてたやつだ」
そう言って、俺は軽く表紙を撫でる。
美燈が手を伸ばし、慎重にページをめくる。
「……彼女の想いが、詰まってるね」
彼女はゆっくりと内容を追いながら、眉をひそめる。
「宵香さんは、冬陽のことを好きだった。でも、彼の心は飛琴に向いてた……そして、その想いを伝えられなかったまま、彼女は別の人と結婚したってこと?」
「そうだと思う。死の間際まで伝えられなかったことを後悔してた」
俺は手元の懐中時計を取り出し、指でなぞった。
頭の中に浮かぶ、涙を堪えて震える背中。そっと何かを探すような、寂しげな気配。それに、昨晩の出来事。
黒電話の向こうから聞こえた言葉。
——私はただ、伝えたかったのです。
「影は、宵香さん……かもしれない」
「え?」
美燈が目を見開く。
「俺が影に襲われた時、誰かを呼ぶような声が聞こえた。あの声は、たしかに女の人の声だった」
俺の脳裏に、影の気配とともに蘇るかすかな声。
あの声は、誰を探していたのか。
今なら答えられる。
「宵香さんは、冬陽に何かを伝えたかった。でも、伝えられないまま……人生を終えてしまった」
美燈は日記を見つめながら、静かに頷いた。
「……きっと、想いが残ったままなんだね」
「ああ。そして、俺はそれを解決しないといけない」
俺は視線を上げ、美燈と目を合わせる。
「今夜……影と話をしてみる」
「……本気?」
美燈は信じられないという顔をした。
「最初に影に襲われたあの日から、どこにいても誰かに見られてる気がする。きっとこのままじゃ、どこにいても影は現れる」
「それに……」
俺の首元に、冷たい痣の感触が残る。
これはただの恐怖ではない。
解かなければならない、彼女の後悔なのだ。
「宵香さんは、何を伝えたかったのか……俺は知りたい」
美燈は少しの間、俺の顔をじっと見つめていた。
やがて、彼女はため息をつき、肩をすくめる。
「……分かった。夜までに話す内容を考えようか」
俺は苦笑しながら頷いた。
「じゃあ、決まりだな」
今夜——影と向き合う。
それが、宵香さんの想いを解き明かす鍵になるはずだ。
その後、俺と美燈は並んで廊下を歩き、燈代さんのいる帳場へと向かった。
食事処から戻る途中、美燈が「私も残った方がいいんじゃない?」と言い出したのがきっかけだった。
俺一人で影と向き合うのは不安だし、何か異変が起こったとき、美燈がいてくれるのは心強い。
問題は、どうやって燈代さんに許可をもらうか——。
帳場の前で立ち止まり、俺は軽く息を吸った。
美燈と目を合わせ、小さく頷くと、襖をノックする。
「燈代さん、ちょっとお時間いいですか?」
「はい、どうぞ」
襖を開けると、燈代さんは帳簿を整理していた。
夜の宿の準備をしていたのか、机の上には予約台帳が広げられている。
「どうかしました?」
燈代さんは俺たちに視線を向け、穏やかに微笑んだ。
俺は少し言葉を選びながら、話を切り出す。
「えっと……今夜なんですけど、美燈も泊まってもいいですか?」
燈代さんの手がぴたりと止まる。
「……美燈さんも?」
「はい。色々あって」
俺が曖昧に答えると、燈代さんはじっと俺たちを見つめた。
そして、口元に手を当て、なぜか意味ありげに微笑む。
「……あらあら、そういうことだったんですね」
——え?
美燈が隣で「ん?」と首を傾げる。
俺も違和感を覚えたが、燈代さんの口調はどこか含みがあった。
「もちろん、お泊りいただいて大丈夫ですよ」
「あ、ありがとうございます」
——意外と、スムーズにいけた。
燈代さんはくすくすと笑いながら、宿帳を手に取る。
「お部屋はどうしますか? やっぱり、同室の方が……」
「べ、別々で!」
美燈が即答する。
俺も妙に気まずくなって、言葉を挟めなかった。
「ふふ、どうぞごゆっくりお過ごしくださいね」
燈代さんは軽く微笑みながら、宿帳に美燈の名前を書き込んだ。
「お部屋は、惟遠さんと同じ階でご用意しておきますね」
「……ありがとうございます」
結果的に、自然な流れで泊まれることにはなったが、燈代さんに何か勘違いをされている気がする。
「……青春よねー」と言いながら、燈代さんは別館に消えていった。また後日説明するとしよう。
静かになった二人きりの空間が、とても気まずい。
「と、とにかくこれで泊まれはするな!」
「そ、そうだね! 作戦立てようか!」
何とか美燈の宿泊許可は得られた。だが、気まずさを引きずったままでは、今夜の目的に集中できない。
俺たちは食事処の一角に座り、今夜の計画を立てることにした。
「で、どこで影と対峙するの?」
美燈が尋ねる。彼女の表情には不安と興味が入り混じっていた。
「やっぱり……本館の二階だな。今朝の出来事を考えると、あそこに何かがあるのは間違いない」
俺は慎重に言葉を選びながら答えた。あそこなら間違い無く会える気がした。
「でも、二階って昼間でもあんなに凄い雰囲気だったんだよ? 夜になったらもっと……」
美燈が腕を組み、少し考え込む。
「それは確かにそうだな。別の場所も考えた方がいいか……」
影が何を求めているのかを考えながら、俺は候補地を整理した。
一つは、本館の二階。
今朝の出来事を踏まえると、影は確かにあそこに居た。もしあの場で直接対峙できれば、何かを引き出せるかもしれない。
もう一つは、中庭。
宵香の日記によれば、冬陽と飛琴がよく庭を散策していたとある。もしかすると、影が彷徨う理由と繋がる何かがそこにあるのではないか。
それに、あそこで聞こえた泣き声も気になる。
「どうする? どこにするか決めた?」
美燈が俺の考えを促すように言う。
「……やっぱり本館の二階だ。あそこなら間違いなく会えると思う」
決意を固めると、美燈は小さく息を吐き、頷いた。
「分かった。でも、絶対に一人で行かないでね」
「当たり前だ」
俺は軽く笑った。時計を見ると、時刻はまだ夕方に差し掛かる頃だった。
「夜に備えて、少し仮眠してこようかな」
「私も疲れたからそうするね」
一先ず仮眠を取ることにした。
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