第3話:告白の時
1907年秋のパリ。モンマルトルの高台に建つ邸宅の書斎で、原川は密書の整理に没頭していた。
暖炉には柔らかな炎が揺らめき、壁に設えられたティファニーのランプが琥珀色の光を投げかける。机上には、各国の情報機関から得た文書が広げられ、その傍らには暗号解読のためのメモが散らばっている。
時計が深夜零時を指す頃、ドアが静かに開いた。
「まだお目覚めでしたのね」
マリーが、銀製のトレイを手に入ってきた。トレイの上には、原川お気に入りの白磁のティーセットが載っている。
「アールグレイです。お好みのミルクを少々入れて」
茶葉から立ち上る芳醇な香り。マリーは手慣れた仕草で紅茶を注ぎ、原川の好みの量のミルクを加えた。
その所作には、二年以上の月日をかけて培われた親密さが感じられた。毎夜、原川が遅くまで書斎に籠もる時、必ずマリーは温かな紅茶を持って現れる。それは既に、二人だけの密やかな儀式となっていた。
「ありがとう」
原川がカップを受け取ると、マリーは暖炉の火を整えはじめた。その横顔が、炎に照らされて柔らかく輝いている。
(もう、これ以上は……)
原川の胸に、決意が芽生えた。
「マリー、少しお話があるの。信じなくてもいいから、ただ聞いてほしい」
マリーは火かき棒を置き、静かに振り返った。
「私は……本当は……」
言葉を選びながら、原川は全てを語り始めた。東京大学で歴史学の教授をしていた過去。突然の心臓発作。そして、マタ・ハリとして目覚めた瞬間のこと。
「私の本当の名前は原川誠。45歳の男性歴史学者でした」
語りながら、原川は息を呑んだ。これほど自分の秘密を誰かに打ち明けたのは、生まれて初めてだった。
しかしマリーは、少しも驚いた様子を見せない。暖炉の前に腰を下ろすと、静かに頷いた。
「私には分かっていました。マダムが、特別な方だということ」
「え?」
「時々、マダムの仕草の中に、どこか男性的な凛々しさを感じることがありました。でも、それ以上に……」
マリーは言葉を探すように、一瞬目を伏せる。
「マダムの瞳の奥に、この時代を超えた知恵が宿っているのを感じていました」
原川は、思わず紅茶カップを置いた。その音が、静かな書斎に響く。
「怖くはないの? 私が、そんな……」
「いいえ」
マリーの声は、澄んでいた。
「むしろ、全てが腑に落ちました。マダムが時々見せる不思議な予言めいた言葉。各国の要人との巧みな交渉。そして、どこか切ない表情で未来を見つめる眼差し」
マリーは震える足を必死に制しながら、月明かりに照らされた書斎を横切る。紺色のイブニングドレスの裾が、静かな波のように揺れていた。
原川の傍らに歩み寄る一歩一歩に、これまでの11年の想いが込められている。初めて出会った朝の光。戸惑いがちな着替えの手伝い。夜な夜な紅茶を運んだ幾百もの夜。全ての記憶が、この瞬間に流れ込んでくる。
マリーは原川の前で静かに膝をつき、その手を両手で包み込んだ。温かな手の感触。幾度となく触れてきた大切な手。踊り子として、スパイとして、そして一人の魂として生きる人の手。
「マダム……いいえ、誠さん」
囁くような声に、全ての想いを込める。
「私には分かっていたのです。あなたが特別な方だということが。未来から来られた方だということが。でも、それは重要ではありませんでした」
サファイアのペンダントが、月の光を受けて静かに輝く。原川からの初めての贈り物。その青い輝きは、マリーの真摯な瞳と呼応するように煌めいていた。
「大切なのは、目の前にいるあなた。強く、優しく、そして誰よりも孤独を抱えているあなた。歴史を変えようとする使命に燃えながら、きっと誰にも言えない苦しみを抱えているあなた」
マリーの指が、そっと原川の手首を撫でる。
「性別も、時代も、立場も、私には関係ありません。ただ、あなたの傍にいたい。その想いだけで、私は生きてきました」
月光が二人を包み込む。暖炉の炎が作る影が、壁で静かに踊っている。
「これからどんな運命が待ち受けていようと、私はあなたと共に歩み続けます。それが例え、歴史に名を残さない道だとしても」
マリーの瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。それは月の光を受けて、小さな宝石のように輝いた。
その涙に、全てが込められていた。11年の想い。言葉にできない感情。魂と魂の触れ合い。性別も時代も超えた、確かな愛。
原川は静かにマリーの頬に手を添えた。その温もりに、二人の心が響き合う。
それは、歴史には記されることのない、永遠の誓いの瞬間だった。
「私にとって大切なのは、目の前にいらっしゃるマダムです。その方が、どんな過去を持っていようと」
その言葉に、原川の目に涙が浮かんだ。
「これからの計画のことも、話していいかしら」
「ええ、どうぞ」
書斎の暖炉に投じられた薪が、かすかな音を立てて燃えている。アール・ヌーヴォー様式の壁紙に、揺らめく炎が不思議な影を投げかけていた。
「第一次世界大戦は、誰も予想していなかった形で拡大していくのです」
原川は、机上に広げた欧州地図を指さす。1913年当時の国境線が、複雑な模様を描いている。
「サラエボでの皇太子暗殺。オーストリアのセルビアへの宣戦布告。そして、同盟関係が連鎖的に作用して……」
マリーは息を呑む。「まるでドミノ倒しのように?」
「ええ。そして最も悲劇的なのは、誰もがすぐに終わると思っていたこと。クリスマスまでには終戦、と」
原川は立ち上がり、隠し金庫から一枚の文書を取り出した。フランス陸軍情報部の極秘文書。署名の下には、ジョルジュ・ラドゥー大佐の印章が押されている。
「でも、実際は1918年まで続く。そして、その間に失われる命は数百万……」
言葉が途切れる。暖炉の炎が、一瞬大きく揺れた。
「私たちに、それを変える力があるのでしょうか?」
マリーの問いに、原川は深いため息をつく。
「歴史の流れは、思いがけない場所に支点があるの」
そう言って、原川は別の文書を広げた。オーストリア=ハンガリー帝国の軍事機密。ドイツ帝国の動員計画。ロシア帝国の極秘電報。三つの文書を重ね合わせると、そこに見えてくる真実。
「たとえば、シュリーフェン・プランの最終決定がほんの少し遅れていれば。あるいは、ロシアの動員がもう数日早ければ……」
マリーは、文書に目を走らせながら頷く。
「小さな変化が、大きな結果を生むと?」
「そう。だからこそ、私たちには可能性がある」
原川は、さらに一枚の地図を広げた。パリ、ベルリン、サンクトペテルブルク、ウィーン。各都市を結ぶ赤い線が、複雑な網目を描いている。
「これが、私たちの情報網よ。各国の要人との接触ポイント。情報の受け渡し場所。そして……」
夜が更けていく。暖炉の炎は、次第に小さくなっていったが、二人の声は途切れることがなかった。
マリーは、時折メモを取りながら、真剣な表情で原川の言葉に聞き入る。その瞳には、不安と期待が交錯していた。
「でも、危険も伴います」
「ええ。特にラドゥー大佐との接触は要注意。彼は実在のマタ・ハリ……つまり私を処刑に追い込んだ張本人だから」
原川は、机の引き出しから一冊の暗号表を取り出した。
「これが私たちの切り札。二十世紀後半の暗号技術を応用したもの。この時代の技術では、決して解読できないわ」
マリーは、暗号表に目を通しながら、かすかに微笑んだ。
「マダム、いいえ、誠さん。私、覚悟はできています」
その言葉に、原川は深い感動を覚えた。月明かりが窓から差し込み、二人の影を壁に映し出す。
夜明けが近づく頃、二人の計画は、より具体的な形を持ち始めていた。それは、歴史の教科書には決して載ることのない、密やかな革命の始まりだった。
「私も、お手伝いさせてください」
マリーの瞳は、決意に満ちていた。
「……危険よ」
「分かっています。でも……」
言葉の代わりに、マリーはそっと原川の手を取った。その温もりの中に、全てが込められていた。
窓の外では、パリの街が新しい朝を迎えようとしていた。二人の新たな絆は、これから訪れる激動の時代への、密やかな希望となった。
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