第2話:デビューの夜

 フォリー・ベルジェールの楽屋は、興奮と緊張に満ちていた。豪奢な金箔の装飾が施された鏡に映る自分の姿に、原川は今一度、目を凝らす。


「肩が凝っていらっしゃいますわ」


 マリーの声が、優しく耳元に響いた。


 原川は緊張で体が強張っていた。白いシフォンのヴェールは完璧に配置され、古代エジプト風の化粧も施されている。しかし、その表情には不安が隠せない。


「大丈夫です、マダム」


 マリーの温かな手が、そっと原川の肩に触れる。しなやかな指が、こわばった筋肉をほぐしていく。


「力を抜いて……そう、ゆっくりと」


 柔らかな声に導かれるまま、原川は深く息を吸った。香水の香り――ゲランの「ジッキー」が、かすかに漂う。それは、マリーが今朝、さりげなく原川の肌に纏わせてくれた香りだった。


「ありがとう、マリー」


 鏡越しに目が合う。マリーの瞳に、深い信頼の色が宿っているのが見えた。その眼差しには、単なる主従関係を超えた何かが、確かに存在していた。


(この子は、何か感じ取っているのかもしれない。私が、普通のダンサーではないことを)


 楽屋では、他のダンサーたちが慌ただしく行き来している。衣装係が最後の調整を行い、楽屋係が開演時刻を告げて回る。しかし、原川とマリーの周りだけは、不思議な静寂に包まれているかのようだった。


「マダム、これを」


 マリーが、小さな布包みを差し出した。開いてみると、中には古びた真鍮の首飾り。


「インドの寺院で見つけたものと同じものを、骨董市場で探し当てましたの」


 原川は息を呑んだ。確かに、実在のマタ・ハリが舞台で着けていたという首飾りに、そっくりだった。


「マリー、あなた……」


「すみません、差し出がましい真似を」


 マリーは申し訳なさそうに微笑む。


「わたくし、毎晩聞いていたのです。マダムが眠っているときに呟かれる言葉も……未来のことを……」


 原川は、思わず身を固くした。しかし、マリーの表情には非難の色はなく、ただ深い理解と、どこか切ない想いが浮かんでいた。


「私には分かるのです。マダムが、特別な使命を背負っていらっしゃることが」


 首飾りを首元に着けながら、原川は静かに頷いた。


「十分前です!」


 楽屋係の声が響く。


「マリー、私……」


「大丈夫です」


 マリーは、最後にもう一度、原川の肩に手を置いた。その温もりが、不思議な勇気を与えてくれる。


「きっと素晴らしい舞台になりますわ」


 その言葉には、単なる励まし以上の、深い共感が込められていた。


 原川は立ち上がり、舞台への扉に向かった。背後では、マリーが静かに見守っている。


(私には、守るべきものができた)


 厳かな決意とともに原川は舞台に立つ。


 舞台の幕が上がり、暗闇の中で一筋のスポットライトが浮かび上がる。純白のシフォンのヴェールに包まれた原川の姿が、神々しいまでの存在感を放っていた。


 古代エジプトの神官のような化粧。首には真鍮の首飾りが月明かりのように輝く。観客席から、かすかな息を呑む音が漏れる。


 弦楽器の低い音が鳴り響き、原川はゆっくりと腕を上げ始めた。シヴァ神への捧げものを表現する神聖な舞。研究者として知り尽くしていた所作の一つ一つを、完璧に再現していく。


 しなやかな指先が空を切り、蛇のように艶めかしく蠢く。腰のくびれに沿って波打つように揺れるヴェールが、次第に解き放たれていく。露わになる肌は月の光のように白く、観客の視線を釘付けにする。


 高く舞い上がる腕。しなやかに反る背中。床を滑るような足さばき。全ての動きが、まるで古代の秘儀を現代に蘇らせたかのような神秘性を帯びていた。


 観客席からは熱い視線が注がれ、時折歓喜の声が漏れる。貴婦人たちは扇子で顔を隠しながらも、その目は舞台から離れない。紳士たちは息を呑み、中には立ち上がる者もいた。


 楽屋の袖では、マリーが手を胸に当てながら、原川の舞を見つめていた。彼女にはわかっていた。これが単なる踊りではないこと。未来から来た魂が、この時代の肉体を借りて紡ぎ出す、時空を超えた祈りのような舞だということを。


 音楽が高まりを見せる中、原川の動きは次第に激しさを増していく。回転する体。宙を切る足。しなやかに反る背中。ヴェールが一枚、また一枚と舞い落ちていく様は、まるで蝶が羽化するかのよう。


 最後の一枚のヴェールが、まるで時が止まったかのようにゆっくりと宙を舞う。純白のシフォンは、スポットライトに照らされて半透明の光の帯となり、原川の体の起伏に沿うように降り落ちていく。


 その瞬間、原川の体が優美な弧を描く。片足を後ろに伸ばし、しなやかな背中を大きく反らせ、両腕を月に向かって捧げるような仕草。古代エジプトのイシス神を思わせる神々しい姿勢。


 夜明けの真珠を思わせる肌理の細かな白磁のような肌。スポットライトに照らされ、汗の結晶が全身に宝石を散りばめたように煌めく。引き締まった腹部は、古代ギリシャの彫像を思わせる繊細な起伏を見せ、呼吸のたびに波のように優美な動きを生む。


 美しくたおやかな乳房はあふれる母性を感じさせ、観客を魅了している。すらりと伸びた脚線は、パリジェンヌたちが憧れる完璧なライン。足首からふくらはぎ、膝を経て太腿へと流れる曲線は、まるでロダンの手による彫刻のよう。鍛え抜かれた筋肉は、しなやかさの中に確かな強さを宿している。


 優美な肩のラインは翼のように広がり、そこから流れ落ちる腕は、古代エジプトの壁画から抜け出したかのような気品を湛えている。柔らかな肘の関節、繊細な手首、表情豊かな指先に至るまで、踊り子としての研ぎ澄まされた美しさを湛えていた。


 白鳥のように気高く伸びる首筋。そこに流れ落ちる漆黒の髪は、まるで夜の滝のよう。艶やかな黒髪が背中に沿って揺れるたびに、光と影が官能的な戯れを演出する。


 凛として伸びた背筋は、バレエダンサーを思わせる完璧な直線を保ちながら、しなやかに波打つ。肩甲骨の優美な動き、背中の中央を流れる繊細な窪み、それらが織りなす光と影のコントラストは、まさに生きた芸術作品。


 全身の肌に浮かぶ汗の煌めきは、月光に照らされた朝露のように神秘的な輝きを放っていた。それは踊り手としての情熱と、魂の高みを目指す気品とが溶け合った、究極の美の表現だった。


 顔を天井に向けた表情には、恍惚と祈りが混ざり合っていた。半開きの唇からは、かすかに荒い息遣いが漏れる。長い睫毛の影が頬に落ち、古代エジプト風の化粧が幻想的な雰囲気を醸し出す。


 床に落ちたヴェールは、蓮の花びらのように原川の周りに広がっていく。その中心で、彼女の体は月に照らされた蓮の蕾が開くように、完璧な均衡を保って静止する。


 劇場全体が、息を呑むような静寂に包まれた。まるで時間が止まったかのような瞬間。観客も、楽団も、さらには空気までもが、この神秘的な光景に魅入られたかのように動きを止める。


 その静止した姿は、官能と神聖さが溶け合った究極の美を体現していた。それは踊り子としてのマタ・ハリの完成であり、同時に歴史学者・原川の研究が結実した瞬間でもあった。


 体の一つ一つの曲線が、まるで彫刻家の手による傑作のように、完璧な均衡を保っている。胸の高まり、腰のくびれ、伸びやかな脚線。その全てが、ある種の祈りの形として昇華されていた。


 スポットライトは、まるで月光のように彼女の体を包み込み、影と光の妖しい戯れを生み出していく。床に散らばったヴェールの花びらが、かすかな空気の振動で細かく揺れ、幻想的な光景をさらに印象的なものにしていた。


 それは、ただの踊りの終わりではなく、一つの芸術作品の完成であり、魂の解放であり、そして新たな伝説の始まりだった。


 一瞬の静寂の後、劇場全体が割れんばかりの拍手に包まれた。男性客たちは立ち上がり、「ブラボー!」の声が四方から沸き起こる。最前列の貴婦人たちは、涙を浮かべながら花束を投げ入れた。


 カーテンコールの度に、喝采は大きくなっていく。パリ随一の社交界の華々しい面々が、まるで陶酔したかのように拍手を送り続けた。


 楽屋に戻った原川を、マリーが静かに迎える。その眼差しには、ただならぬ思いが秘められていた。二人の視線が交わる瞬間、そこには言葉では表現できない深い感情が流れていた。


 その夜の公演は、パリの社交界に新たな伝説を刻むこととなった。しかしそれ以上に、二人の魂が確かに響き合った瞬間として、永遠に記憶されることとなるのだった。



 その夜、原川の踊りは、パリ中の人々の心を震わせることとなった。そして、誰も知らない場所で、二人の魂が確かに響き合っていた。

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