Aグループ

ギロチンはサメのくちづけ

 海は暗く冷たく、水の中は身体が重い。

 藻搔いたところで身体は浮かず、それどころか波に流され沈むだけだ。

 人は海ではなく陸の生物なのだと、全身で理解した。


「ごぽっ」


 息が吸えないと、苦しい。

 当たり前の事実だが、日常では中々体験できまい。

 少なくとも、今のうのうと生きている人間は、肺まで溺れたことはない筈だ。


 海水は焼け付くように目に染みる。

 以前石鹸の泡が目に入った時よりもずっと痛い。

 そういえば、あのメイドはまだ元気だろうか。幼かったとはいえ、彼女には悪いことをした。


「あ」


 涙と海水が混ざり合った視界に映ったのは、途方もなく大きな穴。

 全景は見えない。けれど、国を呑むほど大きいのだと、私は

 細かな棘がびっしりと生えた真っ白い壁は、振り下ろされるギロチンだ。


 遠のく意識の中。

 がちん、という大きな音が聴こえた。

 何も分からなかったが、確かに痛かったと思う。


 ◆


 とんでもなく最悪な心地で、私――リーファ・L・カグラは飛び起きた。


「っ、ぅぇっ、は……生きてる……?」


 全身がびっしょりと濡れている。

 だが、海から引き揚げられたわけではないだろう。

 身体から潮の香りはしないし、何より救助が叶う状況ではなかった。

 でも。


「生きてる……」


 身体が自由に動く。

 息ができる。

 目も痛くない。

 日々当たり前に享受できるという権利が、今は他の何よりありがたかった。


 そのまま深く息をすることしばらく。

 何とか心が落ち着いて、身体を濡らしていたものが汗だったのだと気付いた。冷えた身体が、ぶるりと身体が震える。


「着替え……」


 そこでようやく、今自分がいる場所を観察する余裕ができた。


「わ、私の部屋?」


 しかも、掃除の行き届いた綺麗な部屋だ。

 これは、まだ国が荒れていなかった頃の――

 ふらふらと幽鬼のように、私はベッドを降りて戸棚に向かおうとして。


「へうわっ!?」


 思い切りすっ転んだ。


「いったぁ……」

「姫様!? 何事ですか!?」


 強かに打ちつけた鼻を押さえていると、部屋の外からぞろぞろとメイドが入って来た。


「え、エレナ? リーン?」

「そうですよ。あぁもう……顔をぶつけたんですか?」

「赤くなってますね。ほら、見てくださいこの鏡」


 リーンにパッと見せられた手鏡。

 そこに映ったのは、紛れもなく自分の顔。ただし。


「子供だ……」


 私の知るそれより、鏡の私はずっと幼かった。


 ◆


 ここは王国ロドン。

 海に囲まれた島にあるこの国には、少々変わった特徴がある。

 その特徴が最も分かりやすく示されているのは、国の中心地。そこには途方もなく巨大な、天を衝く漆黒の背ビレがあった。


 このロドンは巨大なサメ、『オトドゥス』の上に建つ国だ。


 そんなことが可能なのかと疑問だろうが、この国の歴史は案外長い。最も古い記録によれば、およそ四百年前には、私たちの祖先はオトドゥスで暮らしていたらしい。

 家々や木々が元気に生えている景色だけを見れば、誰もここが生物の上だとは思うまい。

 だが、この島が常にゆったりと動き続けていること。

 そして何より、ほんの少し海の下を覗けば、否が応でも理解できることだろう。


 ロドンの神、オトドゥスの威容を。


「やっぱり……昔に戻ってる」


 メイドたちを部屋から追い出した私は、それを確信していた。


 私、リーファはロドンの王女だ。

 思い出したくもないが、私は確かに死んだ筈だった。

 だが、今こうして生きている。

 しかしアレは、あの十年は夢と片付けるにはあまりに長く、私の中に残りすぎていた。


 もしもアレが現実、確かな未来であるのなら、私は動かなければならない。


 何故なら、今から十年後、オトドゥスは活動を活発化させる。


 ロドンは海の底に沈むからだ。

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