二話

澄んだ青空の下、山の向こう側まで続く広大な草原の中を一台の幌馬車が走る。

荷台には横になって眠る少女の姿があった。

ガタゴトと揺れる音で少女がようやく目を覚ませば、濃紺の長い髪が視界に入った。

────目の前に誰かが座っている。


「起きた?」


優しく声をかけたのは、前髪を綺麗に切り揃えた紫色の瞳を持つ少女。

裾の短い黒い上着を着ており、年上にも見える大人びた雰囲気を醸し出していた。


「身体の方はどう? 何処か具合が悪かったりする?」


「い、いえ。あの、貴方は……?」


「私はシャーロット・モーティシア。貴方は?」


「わ、私?」


それはこちらが知りたい。

そういいかけ、少女は口を噤んだ。

少女は自分の名前を知らない。

そもそも名前などあるのだろうか。


────“フェアリーテール”。


突然少女の頭に過ぎったのは、夢から覚めたあとも不思議と頭に残っていた単語。

気が付けば少女は「……テール」と無意識に名乗っていた。“分からない”と正直に伝えた方が良かっただろうか。

少女────いや、ここは少女自身が名乗った名前を使わせてもらい、“テール”と呼ぶことにしよう。

テールは、迷いつつも言ってしまったものは仕方ないと開き直り、ここは何処だろうかと辺りを見回す。

夢でも見ているのだろうか。図書館は?ラジオは?本の中に吸い込まれて……どうなった?

次から次へと湧き出る疑問にテールが一人悶々としていると、シャーロットから「貴方、どうして倒れてたの? 起こしても目を覚まさないし」と聞かれ「倒れてた……?」とテールが聞き返す。


「そうよ。倒れてる貴方を見つけたから乗せたの。放って置くわけにもいかなかったし」


(それで私は馬車に乗ってたのか。ふむ……。今乗ってるのは、“幌馬車”ってやつかな?)


「貴方、手ぶらだけど……何処から来たの?」


シャーロットの質問にテールは言葉を詰まらせた。

何と答えるのが正解なのだろうか。

この状況が夢でないのなら、信じ難いが今いる世界は本の中なのかもしれない。

とはいえ、物語の内容や設定などテールには知る由もない。下手なことを言って怪しまれるのも面倒だ。

ひとまず、この場を何とか乗り切ろうと考え、テールは「大きな、図書館です」と正直に答えた。


「図書館? 何処の?」


「ごめんなさい。あまり覚えてなくて……」


「覚えてない? なら、自分が倒れていた場所は?」


「いいえ……」


「貴方、草原のど真ん中で倒れてたのよ。家族や友人、仲間がどこかに居たりする?」


「いない、です」


「そう……。さっきも聞いたけど、倒れていた理由は?」


好奇心か心配か。はたまた両方か。

シャーロットとしては矢張り倒れていた理由が気になるのだろう。

本に吸い込まれてこの世界に来たと言ったら怪しまれるよりも、心配されそうだ。……主に頭を。


「く、空腹で……倒れてました……。お金がなくて……」


「空、腹?」


これまで読んだ本の中から、この状況に合いそうな理由を参考したにしても、無理があったかもしれない。他にもそれらしき理由を考えたが、あまり複雑過ぎても後々説明に苦労するだろう。ただでさえ自分のことが分からず現時点で説明に苦労しているのに、これ以上余計な設定は付け足したくない。それがテールの本音だった。


「大きな図書館から来て、お金がなくて空腹で倒れたって……。しかも途中の記憶もないみたいだし、大丈夫なの? まぁ、いいわ。人にも色んな事情があるからこれ以上は聞かないことにする」


(助かります。ありがとうございます)


釈然としない様子ではあったが、シャーロットが配慮出来る人物であることにテールは心の中で感謝し、胸を撫で下ろした。直後、馬車が止まった。


「どうやら街についたみたいね」


「街……?」


「そうよ」


シャーロットは閉められていた御者席との間の幌を少し開けると、お礼の代金を支払い「さ、下りましょう」とテールに声をかけてから幌馬車を下りた。


「!眩しっ」


燦々さんさんと降り注ぐ陽光にテールは目を細め、顔の上に手をかざした。これが太陽の輝きなのか。

図書館ではステンドグラスから陽の光が差し込むことはあったが、太陽そのものを見るのは初めてだった。


「体調はどう? 大丈夫そうなら折角だし、一緒に街を見て周らない? 勿論、貴方が良ければだけど」


「えっ」


長い月日を図書館の中で一人過ごしていたテールにとって、シャーロットの誘いは衝撃的だった。

初対面で観光の誘いとは、物語の中でしか見たことがない。承諾すべきだろうか。断るのは失礼になるだろうか。素直に受け入れてあとから痛い目にあわないだろうか。考えあぐねていると、シャーロットがテールの顔を覗き込んだ。


「貴方、空腹で倒れたのだから食べないとダメよね。私もお腹空いたし、何か食べましょう。私が奢るからお金の心配はしなくていいわよ」


「えっ、でも……」


「また倒れても大変でしょ?」


「それは、その……」


テールは素直に頷けなかった。

空腹で倒れたというのはその場凌ぎの嘘だ。奢ってもらうつもりはなかった。だが、テールは無一文。

本の中であろう、この世界については何も知らない。

そのような状態で一人彷徨っていたら、本当に空腹で倒れてしまうかもしれない。

食べられるうちに食べなければ。

罪悪感を抱きつつ、テールはシャーロットの言葉に甘えることにし、一緒に街を周ることにした。

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