第18話 それは例えるならエデンの林檎

 河瀬さんの尖った牙が俺の皮膚に刺さった瞬間、「痛ったっ!」と俺は言っていた。

 人間、痛いときは痛いとつい言ってしまうものだ。

 我慢なんか出来ない。

 確か、テレビか何かでだっか、痛みを和らげるために、痛みを感じた瞬間、人は「痛い」と口に出てしまうそうだと聞いた事がある。

 立つ前に、「よっこらしょ」と言う様なものである。

 兎に角、俺は今、それくらい痛みを感じているという事だ。

「つっ……痛っ……河瀬さっ。い、いったん止めて下さいっ」

 声を絞り出して俺は河瀬さんにお願いした。

 まだほんの少し、牙が刺さっただけなのに痛くて痛くて、我慢出来そうに無い。

「ダメです。途中で止めたら痛みだけが残ってしまいますから。少し、我慢して」

 俺に牙を突きさしたまま河瀬さんは器用に喋る。

「ううっ」

 河瀬さんの台詞に俺は苦しい唸り声を上げる。


 これなら蚊に刺された方がマシだな。

 ちくしょう。


 河瀬さんは決して急がずにゆっくりと俺に牙を差し込んできた。

 病院で注射されるときの様な妙な緊張感を感じる。

 俺は目を閉じているので実際どうなっているのか分からないが確実に刺さっている感じだ。

 グイグイと河瀬さんの牙が俺の体の中に入って行っている。

 俺の心臓が高速で動く。

 あまりにも心臓がドキドキするから、このまま俺は死ぬんじゃないか?

 とまで思った。

 しかし。

「あれ?」

 不思議に思って俺は目を開けた。

 何だか、突然、傷みが消えたのだ。

 さっきまでの痛みは何だったのかと思えるほどに何ともない。

 だかしかし、妙に体か熱い。

 ちゅぅっ、と言う音が静かな部屋に鳴る。

 今、俺は血を吸われているんだ、というのが喉を鳴らす河瀬さんから分かる。

 ちゅうっ。

 ちゅうっ。

 ちゅっ、という音に合わせて河瀬さんの喉が動く。

 河瀬さんが俺の血を飲み込んでいる。

 河瀬さんの唇が俺の肌に吸い付いて。

 優しく血を吸われて。

 その度に、俺の体にまるで雷にでも打たれたかの様なビリリとした刺激が走る。

 その刺激の後、じんわりとした疼きが体中を駆け巡って。

 ああっ。

 体の芯が熱い。

「んっ……はぁっ……」

 たまらずに息を漏らす。

 一度それを許してしまったら、後から後から甘さを含んだ吐息が漏れた。

「はぁ……はぁ……んっ、んっ」

 俺は身をよじらせる。

「あっ」

 動くと刺激がより強く感じた。

 河瀬さんが血を吸う度に俺の体はピクピクと動いた。

「ああっ……やっ。あっ、あっ」

 ダメだ。

 これ。

 凄く気持ちいい。

「あっ、んっ。ああっ……」

 体が芯から溶けてしまうんじゃ無いかと怖くなる。

「んっ……」

 河瀬さんの服を掴む。

 ギュっと力を入れて。

 何でも良いからこの感じを紛らわせたくて。

 そうじゃ無いと、おかしくなる。

 握りしめる度に、河瀬さんの白い服は皺を刻んでいった。




 河瀬さんの牙が俺の体からスルリと抜けた。

「血、溢れちゃいましたね。今、止血するから」と言って河瀬さんが俺の肩を舐める。

 舌で舐められている感覚にゾクゾクが走る。

「ああっ……かわせ、さっ……」

 俺の目には涙が浮いていた。

 何だか頭が真っ白で。

 ただ、何か大切なものを失った様な喪失感で胸が痛かった。

「血、止まりました。これでお終いです。吸血鬼の唾液には止血作用もありますから……。思ってたより多く頂いてしまって。すみません」

 河瀬さんがゆっくりとした動作で俺の目の下の涙を拭ってくれる。

 これで、お終い。

 体が疼いて、何だか物足りない様な。

「はぁっ」

 ため息が漏れた。

 何か。


 何かこれって、もしかして、凄くエロい事をされたのでは?

 そういう経験の無い俺の偏見か?

 凄くいけない事をしてしまった様な。

 そう思ったら俺の目から際限なく涙が溢れた。

「ううっ……」

 泣き声を漏らしてしまう。

「一ノ瀬君、ごめんね。痛かったよね。嫌だったよね」

 河瀬さんが悲しそうな顔をしている。

 俺の胸がチクリと痛む。

 この人のこんな顔、見たくない。

「僕はご覧の通りに化け物なんです。こめんね、一ノ瀬君」

 河瀬さんの悲しい台詞を聞いて、俺は思いっ切り頭を振った。

「……ですっ……河瀬さんは化け物なんかじゃあ……」

「一ノ瀬君。ありがとう」

 寂しい笑い方だ。

 そんな顔しないでくれ。

「河瀬さん、好きです」

 俺は咄嗟に言った。

 河瀬さんはしばらく大きく目を開けて俺を見ていた。

「ありがとう。僕も一ノ瀬君の事が好きですよ」

 ふっ、と河瀬さんが微笑む。

 その姿は本当に綺麗だった。




 河瀬さんは、くたっとしている俺に代ってシャツのボタンを絞めてくれた。

 器用で優しい手つきだった。

 ボタンを全部閉め終えてしまうと「何か温かい物でも持って来ます」と笑顔を残して河瀬さんはリビングダイニングから消えた。

 河瀬さんが俺から離れると纏わりついていた蜜のような甘い香りが後に残った。

 きっと、河瀬さんの匂いだ。

 河瀬さんを待つ間、俺は上がってしまっている息を出来るだけ整えた。

 部屋中に広がっているラベンダーの香りを吸い込みながら。

 いつまでも、はぁはぁ言ってるのが恥かしく感じて。

 どうしてか河瀬さんの匂いを忘れたくて。

 ラベンダーの香りに集中した。

 河瀬さん。

 これで元気になれたのかなぁ……。

 俺は天を仰いだ。

 蝋燭の火を映した天井はゆらゆらと揺れていた。








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