大統領の大陰謀 夢物語? プーチン大統領にノーベル平和賞を

高安たつひろ

第1話 ウクライナとロシアの歴史的背景

             はじめに


 太平洋戦争が終わって77年余り経って、戦争を知らない世代が大半を占めるようになった。筆者も、下手な趣味を楽しみながらこのまま人生が平和に終わるだろうと、思っていた。しかし、2022年2月24日に突然新しい戦争が始まった。ウクライナ戦争である。今は、ロシアとウクライナの間での戦争であるが、G7首脳がウクライナを全面支援しだしたことでで、展開は変わるかもしれない。


 世界大戦はいつも些細なことから拡大して起こる。第一次世界大戦は、サラエボ事件から始まり、第二次世界大戦はドイツのポーランド侵入から始まった。事件は事件だけでは終わらなく、局地戦は局地戦だけで終わらず、大きな戦いへと拡大していった。

 ヨーロッパ各国は、ロシア対NATO という大きな戦いになることを恐れているが、ウクライナが負けてロシアの領土の拡大につながることは国際法上からも民主主義の観点からもNATOの安全保障の面からも許されないだろう。西側諸国は、ロシアの出方を見守りながら、ウクライナが負けないように支援を拡大し続けるに違いない。

 例え、ロシアがウクライナの一部を占領し続けたとしても各国の経済制裁の継続によってロシアの国力が疲弊し、先端技術の輸入を止められ続けられることになりロシアは技術後進国となり、三流の国へと没落することだろう。

 

 ロシアが自暴自棄にならないことを祈るばかりである。今後の展開によっては、老い先の短い筆者と違って、小中学生の皆さんには辛い未来が待っているかもしれない。

 本の内容は章によっては大学教養課程レベルの内容もあるので、この問題を理解してもらうために小中コラムを設けて、わかりやすく説明することを心掛けた。内容が重複している箇所があるのはそのためである。また理解しやすいように、作図や図表を用意したが、小説中には載せられない決まりであるので言葉で説明した。カクヨム初日で勝手がわからないが、画像を載せれるコーナーもあるので努力します。

 また、歴史的なことは筆者の専門外であるので、誤った認識があるかもしれない。  


 歴史的な事実は変わらないが、その背景はわからないことが多い。秀吉の加勢に向かうはずだった光秀が本能寺で信長をなぜ討ったのかは、光秀が政権を取って光秀公記にでもして残さない限り正しくわからないのである。また、公記自体が公正に書かれているともいえない。


 ウクライナとロシアの歴史的な問題については半分くらい誤っているかもしれないが説明の成行き上書かざるを得なかった。また、現在小学生や中学生である皆さんのお孫さんの、そのお孫さんの遠い未来のことにも触れているが、これも筆者の認識が誤っているかもしれない。この本は、参考図書の研究者や専門家の意見と新聞雑誌など、メディアのOSINT(公開情報)を基にプーチン大統領が、ノーベル平和賞を受賞することを期待して物語とした。この本が、ノストラダムスの大予言のように眉唾ものかどうかは、読者の判断に委ねる。


ロシアを知るために倉山満氏の提唱したロシアの法則を利用させてもらった。


ロシアの法則

1. 何があっても外交で生き残る

2. とにかく自分を強く大きく見せる

3. 絶対に(大国相手の)二正面作戦はしない

4. 戦争の財源はどうにかしてひねり出す

5. 弱いヤツはつぶす

6. 受けた恩は必ず仇で返す

7. 約束を破ったときこそ自己正当化する

8. どうにもならなくなったらキレイごとでごまかす

以上の法則を、適宜利用させてもらって説明の補足とさせてもらった。



第1章 ウクライナとロシアの歴史的背景


 小中学生の皆さんにはちっとも興味の湧かないタイトルになってしまったが、ある程度は避けて通ることはできないので直感的に理解してもらいたい。また、小中学生にも理解できるように小中コラムで日常生活感覚の話にまとめたのでめんどうくさい本文は飛ばして興味を持った時に読んで構わない。



 小中コラム

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 校庭で小学生達が鬼ごっこ(戦争)をしている。ルーシー不動産会社の子供たちとナトー(NATO)不動産会社の子供たちだ。ルーシー不動産会社の子供とは、長男のウ君(ウクライナ)、次男のロ君(ロシア)、三男のベラ君(ベラルーシ)だ。

 

 一方のナトー不動産会社の子供たちとは、いろいろな家庭の子供、ポ君(ポーランド)、ド君(ドイツ)、フ君(フランス)、イ君(イギリス)、ト君(トルコ)らだ。彼らは、ナトー不動産と一つにまとまる前はいろいろな不動産会社の子供たちだったが、いろいろなルールでさんざん鬼ごっこを(戦争)してきたので、この遊びはもう飽きてしまったのだ。


 鬼ごっこ(戦争)は、仲間内ではもう遊ばないことにしてナトー不動産という新しい会社を設立した。

 ただ、昔から鬼ごっこが大好きだったルーシー家の次男ロ君(ロシア)は、この取り決めが不満だった。鬼になった乱暴者のロ君は、足の遅い逃げる子(弱国)の背中を叩くときいつも石(武器)を握っていて思いっきり叩くので嫌われていた。成長したルーシー家の長男ウ君は、そろそろ鬼ごっこは止めてナトー不動産に加わりたいと思っていた。


 遊びをまだ止めたくないロ君はべラ君を誘って、無理やり鬼ごっこにウ君を引き込んだ。それが今回のウクライナ戦争だ。

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 第1節

 ロシアは、キエフ・ルーシー大公国を継ぐ正当な国家と称しているが、プーチン大統領の発言を検証するためにも、ウクライナとロシアの歴史的確執を振り返ることが必要かと思う。

 

 ウクライナの歴史についてを黒川祐司氏の本を頼りに簡単に記載してみる。

 黒海北岸のウクライナの地について初めて記載されたのはホメロスの『オデュッセイア』で紀元前8世紀の頃らしい。その地には、紀元前1500~700年頃までキンメリア人が住んでいたが、紀元前750~700年頃スキタイ人が入ってきてキンメリア人を追放した。

 その後、スキタイ人は、紀元前2世紀ごろまでにサルマタイ人にドニプロ川(ウクライナ語、ロシア語ではドニエプル川)流域から駆逐されることになる。


 サルマタイ人は紀元後3世紀ごろまで栄え、その支族であるアント族がスラブ民族の祖先であるらしい。その後、ゴート族、フン族、アヴァ―ル族、ブルガール族といろいろな種族がその地で栄えるが、最後には黒海沿岸の覇者は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)となる。


 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、395年から1453年まで1058年間栄えた。

 1000年帝国であっても、いつか国は滅びる。3000年続いたエジプトの王朝であっても約30の王朝が入れ替わっている。1000年以上続く王朝はほとんど存在しない。そして、国は滅びても民はいつも残ることになる。


 ウクライナの歴史について書かれた最古の本は、12世紀初頭(平安後期)に編纂された「原初年代記」である。キーウの町の創設にかかわる伝説である。

 日本の「古事記」(712年に編纂)や日本書紀に相当するだろう。

 古事記は日本最古の本であるが、759年に完成した万葉集は、約130年間の歌を収めていると言われている。

 130年の間、歌人の記憶に残って伝えられた歌もあるだろうが、多くは記録されて保存されていたのだろうと思う。

 日本人の文学は、7世紀、木乙巳の変(645年)よりも早く始まっていたのである。

 中国の書物は、約5000年前の易経から始まっていて、遣隋使(600-618年)によって倭国は、知識を輸入した。


 話が手前味噌になるが、11世紀以前のロシアに文学はなく、ロシアで文学が盛んになるのは、11世紀のイギリス、12世紀のフランス、よりかなり遅く、18世紀になってからである。

 ロシアの文字としては教会関係者が、キリスト教を伝えるために、ギリシア語を基にしたと思われるグラゴル文字(855か862-863年頃)があり、聖書(ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語のみで書くことが許された)の言葉をスラブ諸語に翻訳するために作った。ただ、9世紀の世界では、民族語で聖書を読むと処刑される時代だった。


 話を元に戻すと、言いたいのはウクライナのロシアに対する文学の優位性であり先進性である。

 ウクライナの文学は、12世紀初頭、ロシアの文学は18世紀、ウクライナのリヴィウ国立大学設立は、1661年(ポーランド王、ヤン二世による)、モスクワ大学設立は1743年、ちなみに日本は、九段坂下にあったオランダ書物を研究する蕃書調所(1856年)が、東京大学になったのは(1877年)であったが、日本では中世から寺院での学問指南があり、江戸時代には寺子屋として発展していった。

 幕末には16000を超える寺子屋が全国にあり多くの庶民が読み書き、計算の習得に勤しんでいた。

 英仏の識字率が60%と言われる時代にあって簡単な漢字も読める庶民が100%近くいたということは日本人として誇っていいだろう。この頃の外国で文字を書けるのは聖職者や一部の貴族や官吏だけだった。


第2節

 ヨーロッパの三大民族は、ラテン、ゲルマン、スラブと言われるが、スラブ民族は本来農耕を主とした民族で平和裏に東ヨーロッパに広がっていった。

 「原初年代記」に書かれているキエフ・ルーシー大公国を建国したのは東スラブ人であり、現在のウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人の祖先となる。

 年代記には6世紀後半ごろからの歴史が書かれているが、小さな争いが続いたため、北欧からリューク(?―879年)を首長とするヴァリヤーグ人(スウェーデン・ヴァイキング)の一族を呼び、その地を治めてもらうことにした。

 一族を引き連れてノヴゴロドに到来したリュークは、862年、ノヴゴロド公となり国名を「ルーシー」した。


 リュークの死後、息子が幼かったので一族のオレフが後見人としてキエフ公(882-912年)になり、周辺部族を従属させ、コンスタンティノーブルを攻め有利な条約を結ぶことで広大な地を支配して、都をノヴゴロドからキエフに移しキエフ・ルーシー大公国の創始者となった。


 オレフの後、リュークの息子イホル(在位912-945年)は貢物を取りに行き、ドレヴリァーネ氏族に殺される。妻オリガ、復讐のためビザンツ皇帝に助けを求め、キエフ公の身内で初めてキリスト教徒になった(聖オリハ)。その息子スヴャトスラフ(在位945-972)の頭の髪形が特徴的で後世のコサックに引き継がれている。


 972年、スヴャトスラフが遊牧民のペチェネグ人に殺されると三人の兄弟間の争いになり三男のヴォロディーミルが、勝ち残り国全体の長としてキエフ大公(在位978-1015年)となる。

 バルト海、黒海、アゾフ海、ボルガ川、カルパチア山脈を支配して当時のヨーロッパ最大の版図を持つ国を作り上げた。


 キエフ・ルーシー大公国である。この実績から大ヴォロディーミルともキリスト教(ギリシア正教)を国教にしたことからヴォロディーミル聖公とも呼ばれる。

 聖公の死後、息子のヤロスラフ(在位1091-54)は、内政面、外交面に力を注ぎ三人の娘は、ハンガリー王、ノルウェー王、フランス王の妃となり、三人の息子は、それぞれ、ポーランド王の娘、ドイツ司教の妹、ビザンツ帝国の王女を妻にして、国家間で争いが起きないようにした。

それで賢公はヨーロッパの義父と言われている。

 ここからヨーロッパの王室はほとんど縁戚関係となるのにもかかわらず、王国同士の戦いを続けることになる。


 賢公の死後、再び兄弟間での争いが起こり、1125年以降、キエフ・ルーシー大公国はゆっくり衰退していく。

 12世紀には、独立した10から15の公国の連合体となった。大陸に存在する国の集合離散は、歴史の常である。


 13世紀初め、モンゴル高原に興りユーラシア平原を席巻する大国が現れた。モンゴル帝国である。1223年、キエフ・ルーシー大公国に侵攻したモンゴルの大軍はルーシー人6万人をあの世に送った。その中には9人の諸公も含まれていた。

 モンゴル(タタール)軍は、機動力、統制力、破壊力が優れていて、抵抗すれば残虐な殺し方をした。また、平定した後の統治能力も優れていた。貢物や税を納めれば自治権も認められた。生き残った諸侯のもとでルーシー人は、モンゴルに支配されながら生き続けた。いわゆる、タタールの軛である。


 1237年、チンギス・ハーンの孫のバトゥは、ルーシー北部を征服し、1240年、キエフを包囲した。キエフは陥落し、キエフ・ルーシ―大公国は終焉した。

 ロシアはこれをもって、ウクライナは滅亡したと言っている。しかし、民が残っている限り国は再興するものだ。ウクライナ人のアイデンティティーは、消えていない。バビロンの捕囚、ローマの弾圧から世界中に散っていったユダヤ人の例を挙げるまでもないだろう。


 キエフ陥落後、落ち延びていった者たちは、南西部のハーリチ公国、ヴォルイニ公国として100年間存続して、ウクライナ人は最初のウクライナ国家としている。長男(ウクライナ)がそういっているのだから次男(ロシア)に否定できることではない。


第3節

 1240年、ロシアは歴史上に現れていない。文字がなかったので記録されなかったと言い訳できるが、歴史的にウクライナの後塵を浴びるのを嫌がっているだけである。

 ロシアの前身となるモスクワが文献上にはじめてあらわれるのは1147年とかなり遅く、小さな州の無名の町であった。1156年、都市をめぐる城壁を建造した。この城壁をクレムリンという。1238年からモスクワはモンゴルの搾取を受けることになる。


 モスクワが、支配者のモンゴルにお願いをしてノヴゴロドから土地を分けてもらいモスクワ公国を作ったのは、1271年だ。この頃のモスクワは、大森林地帯で平原の民モンゴル人には興味のない土地であったろう。


 1478年、モスクワは、土地を分けてくれたノヴゴロドを併合、ここから倉山満氏の提唱したロシアの法則の始まりだ。ロシアの法則5,弱い奴は叩き潰す。ロシアの法則6、受けた恩は必ず仇で返す。ウクライナ戦争に至るまで徹底しているから感心する。


 1199年、ヴォルイニ公ロマン(在位1173-1205)は、両公国を合併して、ハーリチ・ヴォルイニ公国を設立した。後を引き継いだ息子のダニーロは、ローマ法王から「ルーシーの王」の称号を受けている。このことからもウクライナがルーシー家の長男であることが分かる。前述したようにモスクワ公国は1271年。プーチン大統領が、何と言おうと歴史的事実は変えられない。


 キエフ・ルーシー大公国の貨幣の単位は、「フリヴニャ」であり、ロシアの通貨「ルーブル」は、フリヴニャを切り分けた単位として13世紀に現れた。このことからも、ルーシー家の長男はウクライナであり、次男はロシアである。

 フリヴニャは、現在のウクライナの貨幣単位である。この歴史的事実から逃れるためにはロシアは貨幣単位ルーブルをユーロに変えるしかあるまい。誰も自分のことは悪く言わず誉めるものだからロシアがウクライナの歴史的業績を自分のものにしたい気持ちはわかるが、認めることも大事である。


第4節

 リトアニアは、モンゴルによってキエフが占領されたころに、国内が統一され南部への進出を試み始め14世紀の初めには現在のベラルーシやウクライナの北部を支配した。

 次に、ウクライナに手を伸ばしたのはポーランドであった。海に囲まれた日本とは違い大陸の国家は常に周りに脅威を抱えている。ポーランドは、神聖ローマ帝国やドイツ騎士団、南のボヘミアやモラヴィアから圧力を受けていて南東のハーリチ・ヴォルイニ公国に目を付けていた。同公国を狙っていたリトアニアとも争った。


 1340年代になってヴォルイニ地域はリトアニア大公国に、ハーリチ地域はポーランド王国に併合されて「最初のウクライナ国家」は消滅した。

 リトアニア王ゲディミナスは、「リトアニアとルーシーの王」と自称した。

 ゲディミナスの死後も版図を拡大してドニプロ川の東岸まで支配下に置いた。リトアニアは、大国となった。


 1340年代以降、ウクライナの地は約300年間、リトアニアとポーランドが支配した。この期間中にルーシー民族は、ポーランド、モスクワ大公国、リトアニア大公国の支配下で、それぞれ長男ウクライナ、次男ロシア、三男ベラルーシの三民族に分化していく。

 歴史的なことであるが、ロシア帝国が崩壊した後に、スターリンが民族別に国を分けたのは、歴史的誤りだったとプーチン大統領は思っている。


第5節 

 1569年、ルブリンの合同でポーランドは、リトアニアを併合する。この結果、ウクライナのほぼ全域が、ポーランド領になった。ポーランド支配下で、ウクライナの農民は、ほとんどが農奴(身分が農民と奴隷の中間の人民)となっていく。ポーランドの貴族によって法律が変更され、農民の権利は剝奪されることになり、農作物は搾取され、農民にとって地獄であった。


 キエフ年代記に1187年、ウクライナという語が出てきている。モスクワ公国が誕生したのが1271年だから、ウクライナの国民はその前から存在したことになる。キエフ陥落後、ウクライナは衰退していったのに対して北東のモスクワ公国は、1480年タタールの軛から解放されて勢力を拡大していく。


 ウクライナが特定の地をさすようになるのは16世紀初めころまでにコサック(自由の民・分捕り品で暮らす人を意味するトルコ語)が台頭してドニプロ川両岸に勢力を持ってからである。1492年には、コサックという言葉が文献に現れている。


 ルーシー人の一部はポーランド・リトアニアの支配地を逃れ、ウクライナ南部のステップ地帯に住みついた。外敵から集落を守るため自治的な武装集団「コサック」を作った。

 コサックは戦う目的に正教の擁護、ウクライナ人の保護、コサックの自由と自治の擁護を掲げていた。


 コサックは、戦う目的の一つにウクライナ人の保護を掲げていたからウクライナの中核的な存在である。軍事的な力が付くにつれてコサックはポーランドやロシア帝国に利用されるようになる。現在のロシアが大国になったのはコサック兵(ウクライナ人)がアラスカまで遠征したおかげである。


 コサックの首領をヘトマンという。

 歴代のヘトマン、サハイダチニー、フメリニッキー、マゼッパ、ロズモフスキーは、ウクライナ国家設立のために戦ったが(1614-1764頃)、最後には、中央集権を目論むロシアの女帝エカテリーナ二世(在位1762-96)にヘトマン制度を廃止させられた。女帝の出自は、ドイツだ。この頃からロシアとドイツの因縁としがらみは続いている。

 

第6節

 少し時代が戻るが、ポーランド・リトアニア連合国のもと、キエフ州だけになったヘトマン(ウクライナ人)の国だけではポーランドに勝てないので、また、タタール人は信用していなかったので、ウクライナはモスクワに庇護を求めた。


 1654年、ペレヤスラフ協定である。ウクライナ側の考えは、同盟・保護の約束の一つにすぎず国家同士の協定であった。

 ロシア側の考えは、ウクライナ人は一つの民族の一部であり、コサックとウクライナ人はツァーリ(皇帝)に忠誠を誓うことになったと思っている。ロシアはウクライナ人がロシアとの統合を望んでいると思っているがそれがそもそも間違いなのだ。


 ペレヤスラフ協定の原本は紛失しており、モスクワにより内容の改竄も指摘されている。この協定によってウクライナがモスクワに併合される過程の第一歩となり、モスクワが帝国への道を歩き出す大きな一歩となった。ロシアの法則5,弱いヤツはつぶす、そして、吸収する。約束は自分に都合の良い時だけ相手のいうことを聞いて、自分が有利になって利益が見込めるときは、ロシアの法則7 約束を反故にして自己正当化する。


 女帝エカテリーナ二世にヘトマン国家を消滅させられたウクライナは、ロシアに組みいれられた。

 19世紀ロシア帝国は、ウクライナ地域を「小ロシア」と呼び、ウクライナ人には屈辱と植民地的隷属の言葉と受け止められていた。この頃のウクライナはロシア内での最大の工業地帯と農業地帯を併せ持ちロシアにとってなくてはならない地域になっていた。実際に、ウクライナは、ロシア帝国、ソ連に搾取され続けられた。黒川祐次氏の本によると1909-13年の間ロシアの小麦輸出の98%がウクライナから輸出された。


第7節

 西ウクライナがポーランドの支配下になってから、ポーランドの貴族たちは農奴から収益を上げることに専念して、王権を弱くしたので軍事力は低下した。相対的に周辺は強国になり、ロシア、プロイセン、オーストリアから三度にわたり侵略され、ポーランドそのものも1772年、1793年,1795年と三次にわたる分割によって、ロシア、プロイセン、オーストリアの三国に分割され消滅してしまった。ポーランド王国に支配されていたウクライナの大部分(ウクライナの8割)がロシアのものとなった。


 王権が弱くなった大陸国家の国境は、在ってないも同然なのだ。それでもウクライナ人のアイデンティティー魂は、消えてはいなかった。ロシア帝国内下でウクライナのナショナリズムは萌芽していく。

 ウクライナは、ロシアとは別のウクライナ民族であると主張するが、ロシアは、無視し、1863年、ウクライナ語の教科書や宗教書の出版禁止。1876年、講演でのウクライナ語の禁止、ウクライナ語の新聞の発行禁止とウクライナ民族への弾圧を続けていく。

 

 ロシアの一地域になってはいたが、ウクライナ人のナショナリズムは、静かに燃え続けていた。二月革命によってニコライ二世は退位してロシア帝国は終焉した。


 1917年3月8―12日、3月革命(グレゴリオ暦、ユリウス暦のロシア歴では2月23-27日、2月革命)

 ニコライ二世の退位によって国会の自由主義的民主政権からなる臨時政府が立ち上げられたが、労働者や農民や兵士などが代表者となっている社会主義的「ソヴィエト」(評議会)が対立した。


 1917年11月7日、11月革命(ユリウス暦のロシアは、10月25日、10月革命)

 1903年にロシア社会民主労働党から派生したレーニン一派(ロシア共産党)が武力により臨時政府を倒して「ソヴエト政府」を樹立する。党名を改称しポリシェヴィキ(多数派ロシア共産党)としたのでポリシェヴィキ革命という。ソヴィエト社会主義共和国連邦の誕生だ。

 

 旧ロシア帝国支配下のリトアニア、エストニア、フィンランドは、民族自決により独立、オーストリア・ハンガリー帝国下の、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーも独立した。ウクライナにもウクライナ中央ラーダ政府が結成された。



 1917年11月22日、ウクライナ国民共和国が成立した。ウクライナは、臨時政府を倒したソヴィエト政府を認めていないので、独立したことになるが、1918年1月22日に改めて独立宣言、しかし、1920年11月10日には滅亡させられる。


 ロシアの既得権益の受益者はウクライナの自治運動は認めたくないのだ。ウクライナはロシアのドル箱なのだ。

 プーチン大統領が、歴史的にウクライナは不可分な存在という裏には、金庫を手放してなるものかという思いが込められている。ウクライナはロシアにとっては不可欠な存在で、穀物、砂糖、石炭、金属などの産業が盛んで、ロシアにとってウクライナは虎の子、だが、トラが成長して自覚したからには手放すしかない。怪我をするのはロシアの方だ。そして、ウクライナは、NATOと協力して反省を促すためにもロシアを敗北させなければならない。


 独立宣言後、ソヴィエトはウクライナの独立を阻止するために中央ラーダにソヴィエト勢力を侵入させて議会を乗っ取ろうとしたが失敗する。力の信奉者は、武力によってハルキフに「ウクライナ・ソヴィエト共和国」を樹立する。今のやり方と同じだ。


 1917年、12月、ペトログラードのソヴィエト政府はレーニン、トロッキー署名の最後通牒をウクライナ政府に送り、ウクライナ領での軍の自由行動を認めれば、ウクライナ国民共和国を承認すると言ってきた。

 当然ウクライナは拒否する。そんなことを認めれば、特別軍事作戦をウクライナ領土で実行してくださいと言っているようなものだ。ウクライナはソヴィエトに乗っ取られてしまう。こうして中央ラーダ軍(ウクライナ)とポリシェヴィキ軍(ソ連)の戦いが始まった。


 ロシアは、独・墺と戦争状態であるのに内部でも戦争状態となる。不利だった中央ラーダ軍は、ポリシェヴィキ軍と戦うために独・墺と個別の講和条約(1918年2月)を調印して、キーウからポリシェヴィキ軍を追い出し、4月中にはほとんどのウクライナを取り戻した。


 ポリシェヴィキ軍は、キーウを略奪・破壊して撤退した。破壊しつくしてから撤退する手法は、現在までロシア軍の一貫した手法だ。

 ウクライナを取り戻したのも、つかの間、今度はドイツ軍に中央ラーダは乗っ取られ、ウクライナはドイツの傀儡となる。

 弱いところはいつまでたっても蹂躙され続ける。独立闘争は終わった。


 次に、独立闘争が始まるのは、ドイツ軍が連合国に敗れ(1918年11月)ウクライナから撤退してからだ。

 ウクライナは、中央ラーダ「ディレクトリア」指導部を設立して、12月にウクライナ国民共和国を復活させる。

 このあと、ロシア国内では、ペトリューラ率いるウクライナ軍、赤軍のポリシェヴィキ軍や、ロシア帝国復活を目指すデニキン将軍の反革命の白軍、欧州大戦終了後、独立を果たし大国復活を目指し、ウクライナを併合したいとポーランド軍、敗戦国のドイツ軍、ロシア革命干渉戦争を仕掛けたフランス軍、イギリス軍、日本軍、アメリカ軍、アナーキズムの黒軍のマノフ騎馬隊、ルーマニア軍が入り乱れて戦乱が続くが、1921年末までに赤軍によってウクライナの内戦は終結した。

 

 こうしてウクライナはソ連の一部となり1991年のソ連崩壊まで独立することはできなかった。詳しく書けば1冊の分量になるところを、あらすじのように書いたのでわかりにくいかもしれないが、ウクライナの苦難の歴史を感じてもらえればそれでよい。


第8節

 1954年、ペレヤスラフ協定300周年記念にロシアの一部だったクリミア(ロシアが露土戦争を仕掛け、クリミア汗国を独立させトルコの支配地でなくしてから、1783年にロシアがクリミア汗国を亡ぼして乗っ取る。大国の支配地から切り離して弱くしてから潰す。ロシアの法則5)が、ウクライナに移管された。ウクライナの独立を抑えるための懐柔策と言われているが、当時はソ連の一部だったウクライナが独立するとは考えられなかったからだ。


 ソ連共産党中央委員会第一書記だったフルシチョフは、ドンバスで金属工を営んでいて、共産党に入党した後、ウクライナ共産党第一書記になった縁で、ウクライナには好意的だったのかもしれない。

 過去の第一書記長が決めたこの移管を、プーチン大統領が悔やみ2014年3月クリミアを奪還することになった。

 

 ソ連崩壊後、ウクライナとベラルーシを独立させたのは歴史的間違いだったとプーチン大統領は言っているが、これは明智光秀が信長を討ったのは間違いだったと言っているようなものだ。未来の人間が、過去を批判しても歴史は書き換えられない。


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