ハッピーバレンタイン

「好きだよ、霧島」


 そう言って、呆然として立ち尽くす俺に小さなキスを落とした。

 のは六日前。


 遡ること七月の七夕飾りにこっそり付けた願い事を偶然見つけられ、六日前にどストレートな言葉で胸を撃ち抜かれた。


 とはいえ、短冊に書いた願い事は、願い事というより叶わない告白で、厳密に言えば告ったのは俺が先ではある。本人に見られる前提ではなかったけど。

 同じクラスの前の席の寺尾慎太郎。

 多分両想いってことなのだろう。でもあの日、小さなキスに頭が真っ白になった俺は何も言えずに後ずさるように逃げ帰ったのだ。


 そして何事もなかったかのようにこれまでのような日々が過ぎ、今日、バレンタインデーとなった。


 そう、今日まで何一つ変わったことがなかった。朝は挨拶を特別感も気恥ずかしさもなく普通に交わし、列ごとに配られるプリントは普通に振り返って手渡され、消しゴムを落とせば普通に拾ってくれて、帰りのSHRが終われば、放課後は執行部の仕事がある寺尾はじゃあなと普通に教室を出ていった。どこまでも普通……告白の嬉し恥ずかしビフォアフターなんてものは微塵もなく。


 バレンタインデー当日なんですけど……。


 寺尾の告白は夢だったのか、と思えてしまうほど何もなくて。でも六日前のあれはバレンタインのチョコが欲しいからだと言っていた。ということは俺は寺尾にチョコを渡す必要があるわけだけど……その言葉、本気にしていいのだろうか。揶揄われただけだったりして。ってか、もう本人いないし。


 一応用意はした。コンビニで山積みにされたのを恥ずかしいから二つ。人に頼まれたような体でレジへ持っていって。


「霧島ぁ、なんか食うもん持ってない?」


 誰もいない前の席を凝視してると机に倒れ込むように遠藤がやってきた。


「あん? 食うもんなんか……あ」


 普段から飴一つ持ち合わせてない、お菓子を持ち歩く習慣なんかない。が。帰り支度に机に乗せていた鞄に手を入れる。


「お、あんの!? 恵んでくれぇ腹減って死にそう。これから部活行くのに保たねえよー」


 白米おかわり自由の食堂で腹いっぱいにはなるが放課後には腹が減る、のはわかる。死にそうなほどではないが。


「チョコでもいいなら」


 ハート模様のピンクの包装紙の包みを取り出す。いかにもだな。目にした途端ぎょっとなったのは遠藤で。


「え、おまそれ!」

「いやいや、コンビニで勧められて買わされたの。貰ったもんじゃねえよ」


 ちょっとしたフィクションを混ぜておく。寺尾との件は誰にも話していない、俺は。同じ中学出身で結構仲がいい遠藤にも、言えない。嬉々として自分から言い触らすようなことでもないし。


「そか、でも食っていいん? まだ開けてないんだろ?」

「中身はコンビニで売ってるチョコだし、お前にやるよ」


 だらりと投げ出されている手の中に包みを置いてやる。


「まじ神サマ。霧島ありがとー! 今度お返しするわ」


 遠藤はエネルギーチャージ完了とばかりにしゃんと立ち上がった。まだ何も口にしてないんだけどね。まあ運動部だから下手すると本当に倒れかねないもんな。糖分ってのも必要だろう。


「いいよ、駄菓子だし」

「おう、まじサンキュな! 行ってくるぜ」

「いてら、頑張ってな」


 遠藤は元気よく教室を出て行った。

 さて、帰宅部の俺も帰るか。部活に行く奴はとっくに教室を出てるし、それ以外の奴もほとんどが帰っている。

 残ってる奴らに適当に手を振って教室を出る。


「おい」


 その瞬間、がしっと、かなり強く腕を掴まれた。不意打ちにつんのめりそうになって。

 誰だよ危ねえじゃん、と顔を上げれば。


「て……」


 らお、寺尾が立っていた。


「こっちこい」


 有無を言わせず引っ張られていく。こっちってどこだよ。


「ちょ、待ってって、自分で歩くから手はなせよ」


 廊下ですれ違う奴が何事かとこっちを見る。恥ずかしくて腕は痛くて。ふつふつと怒りがわいてきた。


「入って」


 ドアを開けて突き飛ばされるように中に押し込まれた。ここ……なんだっけ? 社会科資料室? でっかい地図やら、地球儀がある。こういうとこって普通は鍵がかかってるんじゃないのか。


「なんでこんなとこ来るんだよ」


 二人きりの密室。そう、寺尾はドアを閉めるなり鍵を掛けた。カチリという音に胸がきゅっと締め付けられて、怖さを感じて。寺尾の目が少しも笑っていなかったから。声も硬くて。


「話をしたかったから」

「んなの、教室でいいだろ」

「……いいのか? ひん剥かれてるところを人に見られても」

「は?」


 なんて言った?


「怒りにまかせてお前を襲うかもしれないってこと」


 そう言ってずんずん前に出てきて、無意識に俺は後ずさって。社会科資料室はとても狭くてすぐに壁に背中が当たった。


「ちょ」


 怖い、そんな感情しかなかった。何かされる、殴られる、ひん剥かれる、冗談ではないのだと寺尾の目が言っている。こんな寺尾は知らない。そんなに知ってるわけじゃないけど。いやだ。見たくない。何を怒ってるんだ。勝手に、一人で。


「霧島」


 顔のそばに暴力的に手をつかれて思わず首を竦めた。壁ドンだなんて悠長なことを言ってられない。


「遠藤にチョコ渡したよな?」

「……え?」


 その言葉に少しだけ力が抜けて。寺尾の表情は変わらず怒ってるんだけど。


「なんで?」


 見てたのか?


「いや、渡したっていうか」


 渡した、か。言葉の通り。


「遠藤もまんざらでもなかったし。なんで?」

「何でって遠藤の腹が」

「腹?」


 食い気味に突っかかれて。


「は、腹が減ってるって言ったか」

「腹が減ってたらチョコやるのか」


 完全に語尾を食われて。


「わ、悪いかよ」


 そんなの究極には俺の自由だ。誰にチョコをやろうとも。なんで問い詰められなきゃいけないんだ。


「俺より遠藤を優先するんだな」


 こいつ何言ってんだ。


「だって腹が減ってるって言うから、可哀想だろ!」

「遠藤は可哀想で俺は可哀想じゃないのかよ」


 ……いい加減ブチッとなんかが切れた。


「お前がさあ!」


 精一杯の力で寺尾を両手で押しやって肩にかけていた鞄を怒りに任せて床に投げつけた。物に当たるなんて、とあとから思うけども。責められるのは俺なのか? 一方的に。


「さっさと教室を出ていくからだろ! 俺は! ちゃんと用意して、子供の小遣いで買えるほどの大したものじゃないけど、ちゃんと用意していつ渡したらいいのかってドキドキしてたのに!」


 床の鞄から遠藤にやったものと同じ包みを取り出すと寺尾に押し付けた。


「お前以外に渡す奴なんていないけど二個買った。一つをたまたま遠藤にやっただけだ!」


 言い放つと鼻先がつんと痛くなった。悔しい? 悲しい? 腹が立ちすぎて? よくわからない感情に目頭が熱くなると妙に落ち着いて。

 先に教室を出て行ったのは寺尾なのに。俺は一人残されてどうしたらいいかわからなくて。


「……なんで寺尾が怒んだよ。俺が全部悪いのか?」


 こんな風に渡したくなかった。もっと楽しくてドキドキして甘くて幸せなものだったはずなのに。好きだって言ってくれてから一週間でこれかよ。怒鳴り合うなんて。

 ずずっと鼻をすすったらぽたりと涙が一つ落ちた。情けない。格好悪い。人前で泣くなんて。これ以上見られたくない。帰ろう。今日はもう何も考えたくない。

 制服の袖で目元を拭いながら床の鞄を拾って寺尾の横を通り過ぎる。


「ごめん、俺が悪い」


 ドアノブに手を掛けた時、背中越しに寺尾の声を聞いた。怒りが解けたいつもの寺尾の声。


「さっさと執行部に行ったのは不安になったからだ。今日まで我慢した。毎日目の前でカウントダウンしてお前にうざがられて嫌われたくなかった。だから浮かれて待ってる素振りを見せないように毎日我慢した。お前も今日まで何も言わないし、もしかしたらチョコをくれる気がないのかと思って」


 ……そんなことを思ってたのか。寺尾には寺尾なりの理由があったわけだ。


「霧島の気持ちを知ろうともしないで、ごめん」

「いや」


 ドアノブから手を放して。


「寺尾が何も言わないから俺も不安だった。でもそう思うなら言えばよかったよな。お前が何か言ってくれるって、待ってるばかりで、ごめん」


 振り返って頭を下げた。目尻の涙はすっと引いていく。


「霧島、チョコありがとう」


 寺尾が申し訳なさそうに言う。


「それ、コンビニで買ったんだよ、安物なんだ」


 なんの特別感もない。


「値段はどうでもいい、お前がくれるから意味がある。でも、俺は遠藤と同じじゃ嫌だ」


 ん?

 同じじゃ嫌だって言われても、同じチョコなんだけど。


「もっと欲しい」


 もっと? チョコを?


「ああ、じゃあ一緒に買いに」

「違う」


 寺尾が遮る。


「俺とお前は恋人同士だ。チョコとキスが欲しい」

「へ?」

「お前からのキスが欲しい」


 キ……。

 いやいやいやいやいや、いや、いや、じゃなくて、ええとええとええと!?


「俺、目つぶってるから」


 俺、うんともすんとも言ってないのに! キ、キス……って!? 目をつぶるったって、それは大したことじゃ。

 いやでも。触れたいとかキスしたいだとか、恋人同士だと当たり前の欲求で。その気持ちがわからないわけじゃない。

 いやでも。俺、こないだの、寺尾がしてくれたのが初めてのキスで、だから当然自分からしたことなくて。したことないからやりたくないとか下手くそだから笑われたくないとか、それは違うっていうのもわかってる。


 ……したくないわけじゃない。触れて、みたい、もちろん。好きだから。


 よし。やる。

 うん。

 すでに目を閉じてスタンバイをしている寺尾に近付いて、そっと寺尾の唇に唇を寄せた。


 それはほんの一瞬のことだったけど。

 目を開けた寺尾は、心底嬉しそうに微笑んだ。


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