4話
翌日、午前の講義を受け終えた初上が一休みのために大学のベンチに座っていると、男が一人、歩いてくるのが見えた。確か、近藤と名乗った男だ。
今日だけはそっとしておいて欲しかったが、今後の活動の不安材料を潰しておく機会が向こうから現れてくれたと思えば、状況は悪くないな、と初上は考えた。
近藤はベンチで本を読んでいる初上の前で立ち止まって、彼女を見下ろしていた。
初上はあえて無視をする。
「逃げないんだな」近藤はつぶやいた。
初上は本を閉じて、ゆっくりと近藤を見上げた。彼は無表情で、感情は読めなかった。
「この間は悪かったと思っているわ、ごめんなさい。私、イライラしていたみたい」
謝られるとは思っていなかったのか、近藤は怪訝そうに顔を歪めて、そっぽを向いた。
「いや、俺の方こそ申し訳なかった。無礼だったと思う」
「隣、どうぞ」ベンチをそっと叩く初上。
近藤はなぜか周りを気にするように首を回してから、初上の隣へと座った。
「まず、私は甘姫ではないわ」初上は小声で言った。
「前に聞いた」近藤も声量を合わせてくれた。
「ええ、念の為」
「俺の目的はあんたじゃない」近藤はため息をついてから続けた。「鷹野蒼司を知ってるか?」
突然、鷹野の名前が出たことに驚いたが、なんとか平静を装う。
「鷹野……?」初上は横目で近藤の表情を確かめながら言った。近藤は前方をぼんやりと眺めていて、初上の反応には興味がないようだった。「知らないわ、誰なの?」
「鷹野蒼司は甘姫と白日アリアのマネージャーだ」
「ああ、そうなのね」初上は、動揺を悟られないように落ち着いて答えた。
「知っているだろう?」
「知らない、と言ったわ」
「あいつには気をつけろ。過去に担当を一人殺してる」
初上は目を見開いた。隣に座っている青年が何を言っているのか、瞬時には理解できなかった。何かを言わなくてはいけない、否定をすればいいのか、笑い飛ばせばいいのか、怒鳴りつければいいのか、結局、思いつく選択肢をすべて却下して、無言を続けた。
近藤は黙りこくる初上を横目に見て、様子を伺っているようだった。
「どうした、甘姫。心当たりでもあるのか?」
「だから、私は――」
「お前もいずれ、殺されるだろう」
「何を言っているの?」初上の声が大きくなる。
「とぼけ続けるつもりならそれでもいいが、俺は忠告したいだけだ」
近藤の表情は変わらない。ふざけているわけではないだろう。この青年は、鷹野とどういう関係なのか。なぜ「殺人犯」とか「殺される」とか、そんな突拍子もないことを言い始めたのか。疑問が次々と浮かび上がっていたが、どう聞いていいものか、初上は迷っていた。
「……殺されるって、どういうこと?」
「才賀友理のことは知ってるだろう?」
「さいがゆうり……?」
「覚えてないのか? 四年前に自殺と言われている、超人気アイドルの本名だ。芸名でいうと『YURI』だ。アルファベットで、ワイ、ユー、アール、アイ」
「ゆうりって、あのYURI?」
「ああ、人気アイドルだったYURIといえば、一人しかいない」
「で、そのYURIが何? まさか、鷹野さんがYURIのマネージャーだったってこと?」
「そう。鷹野蒼司はYURIのマネージャーであり、彼女を殺した殺人犯だ」
「あの、待って」初上が右手を額に当てて、眉間にシワを寄せる。脈絡が無さ過ぎて、驚きもなかった。「YURIは自殺したのよね? ニュースにもなっていたはずよ?」
「いいや違う。鷹野が殺したんだ」
初上は大げさにベンチに寄りかかった。意味が分からない。この男のとの会話を、一刻も早く終わらせたかった。
「……そうなの、それが? 私、別にYURIのファンでもないし、そのマネージャーのことも知らないわ」
「まだ、シラを切るつもりなのか?」
「だから……違うと言っているでしょう」感情的になったら負けだ。初上は冷静を装って答えた。「その鷹野って人が次に殺そうとしているのは甘姫だって言いたいの? だったら、私には関係ないわ。あなたのその与太話は、警察にでも言ったらどう? 信じてもらえるといいわね」
「黒江里沙」
一瞬、呼吸が止まる。
落ち着け。黒江の顔や名前はかなり前に流出している。近藤が知っていてもおかしくない。冷静に、対処すればいい。
「何? 今度は誰?」
「白日アリアの中身、だと思われていた女の名前だ」
「へぇ……詳しいのね。アリアと甘姫、どっちのファンなの?」
「死んだのか?」
動悸。
死んだ、という言葉を聞いて、脳が一瞬フリーズした。
すぐに再起動をかける。
これもハッタリだ。黒江の自殺はネットニュースになっていた。
近藤はそれ見て、カマをかけているだけだ。
「死んだ……? 知らないけど、その人は亡くなられたの?」
「どうもそういうことになっているようだ。アリアの中身だと思われていた黒江里沙は自殺をした。のにも関わらず、その翌日、白日アリアは有明アリーナのステージ上で歌っていた。これがどういうことなのか、教えて欲しい」
「待って……何を言ってるのか、もうさっぱりなんだけど……」
「本当に、甘姫じゃないのか?」
「だから、そう言っているでしょう」
「……そうか、悪かった。勘違いをしていた。忘れてくれ」
初上は、近藤の顔を見た。彼は無表情で空を見上げていた。
「ええ。忘れるわ。あまり憶測で物事を語らない方がいいわよ。誰かが殺人犯だとか、殺されるとか、場合によっては怒られるじゃ済まなくなるわ」
「分かった、気を付ける」近藤は頷いて、続けた。「ところで、あんたはアリアと甘姫、どっちのファンだ?」
「そうね……どっちも好きだけれど、アリアかな」
「アリアだと? あんなのどこがいいんだ? 歌も下手だし、トークもつまらない。何より性格が最悪だろう。いいのはガワだけだ」
「なんだ、アンチなのね。それならもう何も話すことはないわ」初上は立ち上がって、近藤を見下ろす。「さようなら、近藤君」
「中身が死んだって聞いた時は、正直、嬉しかったよ。でも、どうやら別人だっ――」
乾いた音が周辺に響く。
初上の右の掌が、近藤の頬に振り下ろされていた。
冷たい瞳が、近藤を突き刺すように見ていた。
「やっぱり、甘姫なんだな。そして、黒江がアリアだった」
「黙って」
やってしまった。乗せられた。
これで近藤は確信しただろう。
どうせなら、もう一発ぐらい叩いてやろうか。
「別にあんたの活動の邪魔をするつもりはない」近藤は初上の視線をまっすぐに受け止めている。「ただ、頭に血を上らせる前に、ひとつだけ聞かせてくれ」
「もう遅いけど、いいわ、答えてあげる」
「俺に、協力してくれないか?」
初上は思わず天を仰ぎ見た。この男の発言の全てが理解できない。
「協力? 一応聞くけど、目的は何?」
「鷹野を止めたい」
「止めたい?」
「彼はいずれ、お前を追い込むぞ」
「理由は?」
「そんなもの知らん」
「くだらない。協力してもらいたいなら、お願いの仕方ぐらい勉強してきなさい」
「黒江は死んだんだろ? それが答えだ。あいつはそういうやつなんだ」
「もういいかしら。2度と私の前に現れないで」
「誰かが、あいつのやっていることを咎めないといけない」
「その誰かが、あなたと私?」
「そうだ」
「お断りよ」初上は冷たく言い放った。
ここで、ポケット中のスマホが震えた。近藤のスマホにも同じタイミングで通知が来たようだった。彼はポケットをまさぐり、取り出したスマホを眺め始めた。
初上はその場から立ち去ろうとした。
近藤に正体をバラしてしまったようなものだが、どうしたものか。
活動を邪魔するつもりはない、と言っていたが、信じる気にはなれない。
とりあえず、加古井に相談しよう。
そう考えて大学の出口に向かおうとする初上の背中に、近藤が叫んだ。
「おい!」
初上は足を止めない。
近藤が走って追いかけてくる音が聞こえた。
「アリアが配信を始めたぞ」
初上は立ち止まって、振り向いた。
アリアが配信を始めた?
心の中で、近藤の言葉を復唱する。
「SNSの更新もされた」近藤がそう言って、持っていたスマホを差し出す。
確かに、アリアがライブ配信をしていた。
『こんアリア! 今日から復帰して、いっぱいゲームやってくよ~』
黒江の声が聞こえる。
違和感。
たしかに黒江の声なのに、別人のようにも感じる。
「黒ちゃん……?」初上が小さく、言葉を零した。
「あんたの相方、死んだんじゃなかったのか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます