契約
結城文乃に連れられて入ったのは普段人がめったに来ない資料室だった。
すでに室内は薄暗くなっており、窓から入る夕焼けの光もか細くなっている。
こんな所で何を……
先ほどの彼女の様子を思い出すと、胃の奥がギュッと不快感と共に締まるのを感じる。
このままではマズイ。
僕の意識の奥ではしきりに警告が出ているのを感じる。
それと共に自分の名前に置き換わったネットニュースの下種な見出しが浮かぶ。
「なあ、結城。話なら明日相談室でゆっくり聞くよ。もう暗くなってるし、そろそろ帰らないとお母さんも心配するんじゃないか?」
結城文乃は母親と二人暮らしだが、母親は外資系の企業に勤めているらしく、休みもほとんど無く帰りも遅い。
だが、何らかの口実をつけてこの場を離れたかった。
このままここに居るのはマズイと感じていたのだ。
「そうですね、早く帰らないと。でも心配ないです、すぐに終わりますから。……どちらにせよもう……我慢できないので」
結城さんはそう言うと、深くため息をついた。
「我慢って……何の事だ? ゴメン、言ってる意味が分からない。とにかく、話を聞かせて欲しい。明日がどうしても無理なら、10分程度なら時間が取れる。まずは話だけでも……」
「ホントですか? 今の聞いちゃいましたよ。さっき言った事覚えてます? 私に従って欲しい。で、ないとここの窓から飛び降ります。遺書を残して。あ、えりちゃんにもラインしとこうかな。石田先生に乱暴されたので……死にます、って」
えり……ああ、同じクラスの佐々岡えりの事か。
って、そんな悠長に考えてる場合じゃない。
何をお願いしようと言うんだ……
「なあ、結城。確かに出来る事は何でもするとは言った。だが、それはあくまで先生として出来る事は、って意味だ。文字通りの何でもじゃないからな」
だが、結城さんは薄く微笑むと、僅かに唇を尖らせた。
「こんな事、どう説明しても信じてもらえません。だから……先生、そこの椅子に座ってください」
言われるままに椅子に座る。
まさか……本気か?
僕の脳裏に「誘惑」の二文字が浮かぶ。
だが、そんな事あり得るのか?
僕はもう30近い。
見た目も普通だし、男性として飛びぬけた魅力があるとは思えない。
そんな自分に……ありえない。
いや、理由はどうあれ、万一どうならすぐに離れないと……そうだ。
ああいっても本当に飛び降りたり……いや、さっきのは本当に。
椅子に座ったまま混乱する意識で考えていると、目の前に結城さんが近づいていた。
「先生、首……上げて」
訳が分からず言われるままに首を上げると、その直後。
彼女の腕が僕の首に巻きついた。
そして勢いよく首を締め上げられると、そのまま目の前が真っ暗になった。
●○●○●○●○●○●○●○●○
右腕の鋭い痛みによって目覚めた僕はいつの間にか床に寝転がっていて、ぐにゃりと歪む天井を見ていた。
一体……これは……
やがて意識がハッキリした僕は、右腕の痛みと共に何が起こっているのか理解し、ギョッとして顔を向けた。
右腕はシャツを捲り上げられ、ひじの辺りに結城さんが……噛み付いている。
僕はこの事態を理解できず呆然と見ていたが、十数秒の後全身にわきあがる恐怖に声を上げそうになった。
だが、その直後喉から声が出る前に彼女の手のひらが僕の口を強く抑えた。
「静かにしてください。忘れましたか? 言う事を聞かないと……私は飛び降りて死にます。そのまま声を出さないで」
僕は混乱したまま頷いた。
もう訳が分からない。
それから僕の血を
口の周りには僕の血が着いており、オムライスを食べた子供みたいだな……と場違いな事を連想してしまった。
結城さんはポケットティッシュを取り出し口を拭った後、バッグからガーゼと消毒液を取り出して、手馴れた感じで僕の右腕の傷口の手当を始めた。
「最初なので腕にしました。でも、本当は首から頂くのが一番吸いやすいし、沢山頂けるので、もうちょっと慣れたらそっち……首から下さいね」
僕は呆然としながら震える声で何とか言葉を搾り出そうとした。
だが一言も出てこない。
むしろ何ともいえない酩酊感に襲われている。
そんな僕を見ながら結城さんは、両手を合わせて「ご馳走様でした。美味しかったです」と言いながら僕に向かって頭を下げると、満たされたような……どこかぼんやりとしたような表情で続けた。
「……しゃべれませんか? 私の唾液には体内に入った相手にアルコールを摂取した後に近い酩酊感を与えるらしいです。だから今、先生はお酒に酔った感じに近くなってます。まあ、それが無くてもこんな非日常の極みみたいな状況、声も出ないか」
ボンヤリとする僕を見ながら結城さんは続ける。
「このまま話しますね。私は人の血を吸わないと生きていけません。理想は1日3回だけど、それは無理なので何とか1日に1度で我慢している。でも……そんな定期的に吸わせてくれる相手なんか居ない。学校の子にそれを求めるわけにはいかないので。だから何とかアレコレと外に相手を求めてたけど……もうそんな危険な努力も必要なくなりました」
「……血……を?」
「はい。先生……ごめんなさい。今からあなたを脅迫します。私に毎日あなたの血を下さい。断ったら私、あなたに罪をなすりつけて死にます。もちろん、引き受けてくださった暁には先生の命に危険はありません。致死量を吸う事は無いので。回数は出来れば日に2回。いいですよね?」
吸血……鬼?
「そんな……馬鹿な。吸血……」
「先生に選択肢はないと思いますが……どうします? ご自分の社会的な生命を失いますか? 一方で血を吸われるといっても命に別状は無い。それ以外に何の危険も無い。それと社会的な死を天秤にかけたら答えは決まっているのでは? さあ……頷いて。それが一番いいんですよ……」
僕は酷くボンヤリする意識の中で気がついたら頷いていた。
すると、結城さんは目の前にボイスレコーダーを出した。
「言って下さい。『僕は君に血を捧げる。決して裏切らない』と」
僕は酩酊感と混乱、そして恐怖の中で言われるままに先ほどの言葉を復唱した。
すると、結城さんは満足そうに頷いた。
「有難うございます。実は私の唾液には酩酊効果もそうですが、相手の自制心を緩める効果も……って、これそのままアルコールですね。さて、ではそんな先生に見て頂きたいものがあります」
そう言いながら結城さんは机の上においてあった携帯を取ると、少し触って僕に見せた。
そこには……半裸の結城さんに僕が覆いかぶさっている画像が写っていた。
「これは……こんな事、して……ない」
「はい、してません。でも写ってます。なぜでしょう? さっき私の唾液には酩酊効果があるって言いましたよね? 先生が気を失ってる間に今回、お口から直接多量に摂取して頂きました。……方法はご想像にお任せします。それでお酒に酷く酔った形となった先生にお願いして……です」
ありえない……何なんだ、これは。
呆然とする僕の頭を優しく撫でながら、結城さんは言った。
「大丈夫です。ちょっぴり痛いだけですし、手当てもしっかりさせて頂きます。命や健康も保障します。それに……先生にもメリットは大きいですよ」
「メリットって……こんな状態にそんなもの……」
「先生出世したいんですよね? 私が今よりもっと高い景色を見せてあげます。今日から先生は私に隷属していただきます。でも、それは私も同じ。私も今日この時から『先生に依存する理想の生徒』になります。先生をもっと高く引き上げてみせますよ」
結城さんのこの言葉は僕の混乱した心に急激に染み込んだ。
体がカッと熱くなるのが分かる。
いや……そんな上手い話が……
何よりもこんな状況は異常だ。
早く逃げるんだ。
逃げて、教師も辞めよう。
そして貯金を全て使って逃げて……
でも、逃げてどうなる?
彼女は本気だ。
逃げて全て失うのか?
そうだ。
どんなに異常な状況でも僕に選択肢はないのでは?
だったら……僅かな蜘蛛の糸に掴まってもいいのではないだろうか……
でも……信じられない……吸血鬼?
隷属?
漫画や小説じゃない。
現実なのか?
こんなの……ありえ……逃げ……
「……分かった。それで……」
自分の言葉に驚いていると、結城さんはニンマリと笑い、両手で僕の頬を撫でた。
「それでは末永くよろしくお願いします。あ、これからは私の事は文乃でいいですよ。せっかくなので、もっと近しい間柄になりましょう。でも、私はこれまで通り先生と呼ばせていただきます。それでは先生……」
そこで言葉を切ると、結城さん……文乃は僕の唇に指を伝わせながら言った。
「ようこそ……こっちの世界へ。あ、そうそう。携帯……落ちてましたよ。どうぞ」
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