第3章:パリの蝶

 1907年、パリ・オペラ座近くのカフェ・ド・ラ・ペ。アール・ヌーヴォー様式の優美な装飾が施された店内で、原川は紅茶を啜りながら、その日の『ル・フィガロ』紙に目を通していた。


 彼女は今や、パリ随一の人気を誇る踊り子となっていた。東洋の神秘を纏った舞台は常に満員御礼。社交界の華として、その名は誰もが知るところとなっている。


「マダム・マタ・ハリ、お待たせいたしました」


 優雅な足取りで近づいてきたのは、フランス陸軍情報部のアンリ・ナヴァール大尉。実在のマタ・ハリを破滅へと導いた人物の一人だ。


「ご無沙汰しております、大尉」


 原川は微笑みを浮かべる。ナヴァールとの出会いは、歴史の歯車が回り始める合図だった。


 カフェの天井から吊るされたティファニーのシャンデリアが、二人の間で揺らめく影を作る。レースのパラソルを持った貴婦人たちが行き交う通りの喧騒が、かすかに聞こえてくる。


「マダムの評判は、軍部でも話題となっております。各国の要人と親しくされていると」


 ナヴァールの言葉には、さりげない探り合いの意図が込められていた。


「ただの社交界の蝶ですわ。踊り子である私に、そのような大それた話が関係あるとは思えません」


 原川は、計算された表情でグラスに口をつける。この時期、実在のマタ・ハリは軽率にも諜報活動への関与を始めてしまった。だが今の彼女には、歴史家としての知識という最大の武器がある。


「しかし、もしマダムのお力が必要となった時には……」


「その時は、改めてご相談いたしましょう」


 きっぱりとした口調で切り返す。ナヴァールは軽く会釈をして去っていった。


(まだ早い。今は助走期間。本当の戦いは、これからだ)


 原川は立ち上がると、最新のウォース製ドレスのスカートを優雅に持ち上げ、馬車が待つ通りへと歩み出た。

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