第2章:踊り子デビュー

 薄暮のパリ、フォリー・ベルジェール楽屋。


 原川――いや、今やマタ・ハリとなった彼女は、全身を覆う純白のシフォンのヴェールに身を包んでいた。首元には、インドの寺院で手に入れたという古び付いた真鍮の首飾りが輝いている。


「あなたの踊りは、パリを震撼させるわ」


 楽屋を訪れた興行主のエミール・ギマールが、自信に満ちた声で告げる。彼の口髭が期待に震えていた。


 原川は鏡に映る自分の姿を見つめる。たおやかな曲線を描く肢体。古代エジプトの神官のような化粧。そしてジャワ島の踊り子を思わせる神秘的な装いの数々。全てが完璧な調和を保っていた。


 歴史研究者として、彼女は実在のマタ・ハリの経歴を知り尽くしていた。だからこそ、この瞬間がどれほど重要か理解している。この日の公演が、マタ・ハリを伝説の踊り子へと押し上げる転機となったのだ。


「始まりの鐘が鳴りました」


 楽屋係が告げる。原川は深く息を吸い、ゆっくりと立ち上がる。


 舞台の幕が上がる。スポットライトが彼女を照らす。観客席からどよめきが起こる。


 原川は目を閉じ、体を揺らし始めた。実在のマタ・ハリが行っていたという所作を、研究で得た知識を基に完璧に再現する。シヴァ神への捧げものを表現した神聖な舞を体が覚えていた。ヴェールが一枚、また一枚と舞い落ちていく。


(これが、マタ・ハリの踊りだったのか……)


 公演は大成功を収めた。パリの新聞各紙は、この神秘的な東洋の踊り子の出現を大々的に報じた。


 だが原川の心は、すでに次の段階を見据えていた。


(このままでは12年後、私は処刑される。それを避けるには、今から準備を始めなければ)


 華やかな社交界デビューの裏で、彼女の周到な計画が動き始めていた。

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