第9話:ローンウィル城下町・下

 見覚えの無い、懐かしい夢を見た。

 屋根の上で夜空を見ている。無数の星々と、冷たく蒼褪めた月の光。

 手元にはランプ。2人で1枚の大きな毛布を被っている。

 横を向くと、楽しそうに金髪の少年が空を見ながら何かを喋っていた。若草色の瞳が、きらきらと輝いている。

 その横顔を見て、何だか温かな気持ちになった。

 やがてその少年がオスカーだと『私』が気づく前に…夢は切り替わる。


 見覚えの有る、懐かしい夢を見た。

 夕暮れの帰り道。車が行きかう道路沿いを、友達と歩いている。

 やんちゃそうな見た目の、男の子。黒いランドセルを背負って、寂しそうに顔を俯かせている。

 私は彼に話し掛けた。それを聞いた少年は、顔を上げてこっちを見る。

 やがて、とても、とても嬉しそうに笑った。

 照れくさくなったけど、私も嬉しかった。顔を見れない。黙って彼の手を取り、家路を進む。

 名前は何だったろうか。思い出したい。思い出せない。友達なのに。友達だった筈なのに。

 どうしても思い出したくて、何とももどかしかったが…そこで意識が浮き上がる。


「…ルクス?」


 名を呼ばれた。そうだ、それは私の今の名だ。

 急速に自我が戻った。視界が暗黒から一気に明るく色彩を取り戻す。見慣れて来た青年の後頭部が私の視界に映る。


―アルト!


「わ」


 思わず叫んだ私にびっくりしたのか、目を見開きつつ彼が頭上を見た。


―ご、ごめん…あれ、アルト?


 篝火の近くに座っている彼は、五体満足の状態だった。

 不思議そうな顔をしている。


「何だい」


 先程の惨劇を思い出す。悪夢と言っても差し支えないぐらいの、残酷な光景。

 今目の前にいる青年が…胴体から真っ二つにされていた、様な。

 粘性を帯びた血液と両断された傷口からもろりと零れた真っ赤な中身は、余りにも鮮明だったのだが。

 平然としているアルトを見て、何とも奇妙な感覚になる。


―ゆ、夢…?


「夢? …あぁ、何だか懐かしい記憶を垣間見た気がするなぁ。もう1つは、見覚えが無かったけれど」


―あー、それは多分私の…いや、違う違う。そうじゃないんだ。あの、さっきさ、し、死ななかった…?


 そう訊くと、ちょっと気まずそうな顔をする。

 心なしか私の声が震えていたのかもしれない、質問の意図に気付いた彼は申し訳なさそうだった。


「あぁ、ええと、その、し、死んだねぇ…。ご、ごめんよ、俺からはよく分からなかったけど、もしかして大分酷い死に方した、かい…?」


 大分どころではない。B級のホラー映画の被害者とかでしか観た事が無い死に方だった。

 肉体を持っていたら吐いていたかもしれない。多分、私はグロさに耐性が無いらしい。


―ひ、酷いどころじゃなかったよ…。ど、胴体から真っ二つ――うぅ。


 説明する度に思い出してしまい、意識だけなのに肉体が震えてしまっている様に錯覚する。言葉に出すのも気が引けてしまい、科白に詰まった。


「あ、成程! や、止めようこの話、ほら、俺はこの通り無事だから!」


 どんな死に方をしたか気付いた彼が唐突に話題を変えた。五体満足である事を示す様に、立ち上がってこちらに身体を慌てて見せてくれる。

 やはりアルトは優しい。本来なら死の痛みを味わったのは彼であり、一番大変なのは当人の筈である。

 お陰で大分気持ちが和らいだ。


―ごめんよアルト…情けないなぁ。君が一番大変なのに…。


「いやぁ、仕方ないよ。…多分、君は平和な場所で生きていたんだろう?」


 確かに。恐らくだが、私は荒事とは無縁の世界に生きていた気がする。ここまで耐性が無いならそうだろう。

 人死にが多発する環境なら、もう少し慣れていないとおかしい。


―そう、だね。荒事とかは、無かったかも…。


「…とは言え、この先もこう言う苦難は多いだろうなぁ…。もし、見るのが怖いなら目を逸らしてしても構わないよ」


 音はどうしようもないけど、と言う彼に慌てた。それでは何の役にも立てない。


―い、いや! それは駄目だ! 大丈夫、私は平気…じゃないけど…ぜ、絶対見ない振りは、しない…!


「そ、そう? まぁ、無理になったら視線を逸らしてね。君にはなし崩し的に、俺の旅に付き合わせてしまっているし…」


 申し訳なさそうにしつつも、アルトは再度座り込んだ。うーんと唸りながら腕を組む。


「さて、対策を練らないと…。不死である利点は、死んでも経験が残る事だね」


 そうだ。死に戻りをした、と言う事は牛頭の異形は本当に存在している。ならばこの橋を無事に渡る為には倒さねばならない。

 しかし橋は狭く、正面からやり合うには少々分が悪い。おまけに背後の高台には射手が見張りをしている。


―…あ、そうだ。


 先程の戦闘を思い出し、梯子の存在を伝えた。


「梯子…じゃあ、あの上の相手は何とかなりそうだね」


 うん、と頷くアルト。


―問題は、あの狭さでもあるよね。


「そうなんだよねぇ。さっきは瓦礫の破片を避けきれなかったし…」


―接近戦は厳しそう…。


 相手の方がリーチも体格も膂力もある。となると無理して接近戦を挑むのは大変かもしれない。


「となると、遠距離か中距離を維持かな? でも、武器が…あ」


 ふとアルトが背負っていた鞄を漁り出した。


―あぁ、そう言えばさっき拾っていたね。


 彼が取り出したのは弩だった。確かにこれなら遠距離戦に持ち込めなくもない。


「問題はボルトが足りるか。そして、あの怪物にボルトが刺さるか、だね…」


―そっか…。


 ボルトの数が20本では、確かに心許ない。距離減衰もあるだろう。そもそもボルトだけで倒せる気がしない。


―どうする?


「うーん、現状これぐらいしか有効打はないな…。ひとまずは、上の奴等を何とかしてから考えようか」


 苦笑しながらアルトは立ち上がった。弩が動くことを確認して、再度鞄に仕舞う。


―また、挑む?


 私の声に不安が滲んでいるのが感じ取れたのか、安心させる様に彼は頭上に笑いかけた。


「うん。でも、同じ敗北はしない様に心がけるよ。流石に何度もやられたくはないしね」


 篝火から離れて歩き出す。再戦するつもりなのだろう、歩みには迷いが無い。

 先程くぐった扉には、霧の壁が出来ていた。アルトが手を触れると、若干押し戻される。


―あれ、と、通れない?


「…いや、潜れはするかも。戻れるかは判らないけど」


 頭を振る彼を見る。ふと、兜が無くなっている事に気付いた。そう言えば、兜は頭に一撃喰らった際に橋の外へと飛ばされてしまっていた。

 あれは戻って来なかったのか。死ぬ前に手放したりしたら、一緒に元には戻らないのかもしれない。

 見る事しか出来ない私は青灰色のその髪が、彼の血で汚れない事を願うしかない。


「じゃあ、往くよ」


 そう告げた彼が、霧の壁へと身体を押し込む。多少の抵抗はありそうだったが、アルトの身体は問題なく霧の壁を潜り抜けた。

 昏い黄金の陽光が、彼を照らす。橋の崩壊の跡は綺麗さっぱり元に戻っている。反対の塔の上には、異形の頭が垣間見えた。


―あぁ、上に最初から居たんだ…。


「…最初は隠れていたのかも。俺が来たから、活動的になったのかな」


 ぽつりと、小さく囁く。次いで、異形の影から視線を外しアルトは振り返った。扉に隠れる様に、錆びた梯子が掛かっているのを見つける。

 見上げると、射手が居る一番上まで続いているらしかった。真下に居るからか、射手には気付かれていない。

 梯子に足を掛けて上り始める。私の感覚で例えるなら3階ぐらいの高さだろうか。そこそこ高い。

 難なく上まで辿り着き、アルトは剣を引き抜いた。素早く人影へと走って行く。

 茫洋とした生気の無い瞳で橋の先を見ていた射手は、唐突に出現した敵対者に碌に反応も出来ずに斬り捨てられた。


―やったね。ひとまず上の問題は解決だ。


「あぁ。さて、使えるものは頂戴しよう」


 死体を漁る彼を後目に、私は周囲を見回す。射手が待機していた場所は、壁が存在せず滑車らしきものの痕跡が残っていた。恐らく、荷物を上げ下げする為の機能だろう。少なからず橋の上よりはよっぽど広く、ここで戦えたらアルトは楽に牛頭の異形を相手に出来ていたかもしれない。

 背後には樽らしき物が置いてあった。中身は何か入っているのだろうか。


「うーん、大体30本ぐらい、かな…」


 自信なさげに呟き立ち上がった彼に、樽の存在を告げる。ボルトを纏めて一旦床に置くと、それに近付いた。

 樽に触れ、揺らす。すると、中身がちゃぽんと鳴る。液体か何かが入っているらしい。

 顔を近付け、アルトは樽の臭いを嗅いだ。首を傾げながらも中身の正体を呟く。


「多分、油…かな? 攻めて来られた時に、落として使うんだと思う」


 成程。足元を滑りやすくしたり、火を点けたりして使うのか。

 油の入った樽は2つ程あった。何とかして、有効に使えないだろうか。


―上からぶっかけてみる…?


「油をかけるなら、火も点けたいね。確か…あぁ、良い手段がある」


 そう言って腰元のツール鞄から火打石を取り出した。樽の端材を集めると、風が当たりにくい場所で火を点ける。

 簡易的な焚火になったそれを一旦放置して、アルトはえっちらおっちらと射手が居た付近まで樽を移動させた。

 …何とはなしに彼の意図が読めて来た。どうにか上手く行って欲しい。


「…よし、やってみよう。正面が厳しいなら搦め手に限る」


 ボルトをありったけ所持して梯子を滑り下りた彼は、改めて橋の先の影へと向き直った。

 見守る以上の役割は私には特に無いのだが…――私も何だか緊張してしまう。


―ちょっと進んだら、また降りて来る、よね。


「多分ね。…よし、弩の準備は出来た」


 盾を背負った彼は、弩を両手で抱える。そして橋を進み始めた。

 少し進むと、先程と同じ様に牛頭の異形が飛び降りて来た。

 ずん、と橋が揺れる。アルトは着地と同時にボルトを一発放った。

 それは特に怪物に大してダメージを与えなかったが、癪には触ったらしい。ずんずんと早足で近付いて来る。

 次弾を装填した彼は、徐々に梯子へと後退する。もう一発放った辺りで、そちらへと駈け出した。

 素早く梯子を掴み、上り出す。牛頭の得物が危うく掠めかけたものの、何とかアルトは回避した。塔が揺れる。


―と、塔を壊す気なの?!


「壊したら、あいつも巻き込まれそうだけどね。いや、そこまでの知性が無いのかな…?」


 飄々とした態度を崩さず、アルトは梯子を上り切った。見下ろすと、怒った顔で怪物がこっちを見詰めている。

 それに臆する事も無く、彼はその顔目掛けて樽を1つ蹴落とした。

 樽は派手な音を立てて顔面に激突し、油を撒き散らして砕け散る。木片と黒い油が宙を舞う。


フゴォオオオォ!!!


 かなり痛かったらしく、頭を振りながら顔を振って油を落とそうとしている。アルトは容赦なく次の樽も蹴落とした。

 次も直撃し、目がまともに視えなくなった怪物はたたらを踏んだ。油で足元が滑り、地響きと共に尻餅を付く。

 それを確認した彼は、予め用意していた焚火から火の付いた木片を1つ持ってくると―――それを怪物めがけて投げつけた。

 油は古そうではあったが、問題なく着火した。目下の怪物は、頭から紅蓮の炎に包まれる。

 火達磨になった巨体が橋の上をゴロゴロと転がる。黒い煙が風に乗って、橋の外側へと流れて行った。


―おわ…。


 こちらを一度殺して来た相手とは言え、余りにも容赦のない光景に引いてしまう。

 しかし、存外に怪物は頑丈だった。顔面と上半身を焼かれたものの、まだぴんぴんとしている。


「頑丈だなぁ」


 段々と消えてゆく火の向こうでは、闘志をより滾らせた異形が片目だけでこちらを睨んでいた。片目は焼かれて潰れてしまったらしい。

 アルトはその顔目掛けて弩でボルトを一発撃ち込んだ。額に突き刺さったが大して痛くは無さそうである。

 しかしそれで怒りの頂点に達したらしく、牛頭の異形は塔に向かって再度大斧を振り下ろす。

 派手な轟音が響き、壁が崩れた。しかし、それで崩壊する程のやわな造りでは無い。

 多少揺らされはしたものの、落ちる事なく平然としている青年を見て怪物が咆哮した。


「ほら、来ないのか?」


 挑発する様に叫ぶと、アルトは再び弩にボルトを番える。

 すると、怪物はぐっと身を低くした。まるで力を溜めている様な――いや、まさか跳んでくる?


「来たな」


 そのまさかだった。怪物は驚異的な跳躍力で当の上へと飛び上がって来た。

 煽っている口調だったのはこれを狙っていたのだろう、既にアルトは後ろに跳び退き弩から剣と盾に持ち替えている。

 これならば、怪物の巨体をそこまで気にせず立ち回れる。

 ずん、と塔全体を揺らして怪物が着地した…のだが。


「あっ」


―えっ。


 不意に怪物の足元が崩れた。恐らく、元々壁が消えてしまっていたそこは脆くなっていたのだろう。

 重さに耐えきれず一部が崩れ落ち―――…怪物も後ろに傾いだ身体を支えきれず、頭から落下した。

 ずん、と言う音と怪物の情けない悲鳴が上がる。

 崩落に気を付けつつ、下を確認すると脳天から出血しつつもよろよろと立ち上がる姿が見受けられた。頭蓋骨が陥没しているが、闘志は消えていないらしい。


―ま、まだ生きてる…。


「そうだね」


―え、い、行くのうわぁっ。


 確認するが早いが、アルトも牛頭の頭に向かって飛び降りた。落下の衝撃で視力が落ちていたのか、怪物は反応出来ない。

 3階の高さから飛び降りて来た彼の直剣が脳天に突き刺さる。重力と落下による勢いから来る渾身の一撃。


ォオ…オ…


 それは内部で砕けた頭蓋骨を貫通し――脳へと到達した。牛頭の残った片方の眼球が、ぐるりと白目を剥く。

 ぐらりと傾いた巨体がずん、と仰向けに倒れ伏す。剣を引き抜いて着地したアルトが見ている目の前で、それは端から白い灰へと変化して消えて行った。

 目視できる量のソールが、アルトへと流れて行く。どうやら倒せたらしい。


―た、倒した?


「うん、多分ね」


 安堵の息を吐くアルトに、何とも嬉しくなる。


―やったね!


 私の嬉しそうな声に、彼も柔らかにはにかんだ。


「あぁ、次で行けて良かった。ありがとう、梯子を教えてくれて」


―役に立てたなら何よりだよ。あぁ、本当に良かった…。


 また大怪我して殺されてしまう姿を見ずに済んで、私は心底安堵していた。

 アルトはそれに苦笑しつつも剣を収め、ふと後ろを振り返って固まった。


「あ、篝火…」


―え、あっ。これ、埋まっちゃった…?


 塔の崩落に巻き込まれてしまったのか、不死の拠点であり生き返りの楔である篝火はすっかり瓦礫に埋もれてしまっていた。

 瓦礫の向こうに残された扉からは、向こう側が見える様になっていた。どうやら、牛頭の異形を倒したことで霧の壁は消えたらしい。

 しかし、これでは篝火が何処にあったかすら判らない。


「これじゃあ、ここからは帰還すら出来ないな…」


―どうしよう、戻る? かなり遠いけど…。


 ここからだと前の篝火からはかなり距離がある。進行方向の敵対者は倒しはしたが、増員されるかもしれない。

 あれだけ巡礼者を敵視する配置だったのだ、時間を掛けてまた来たら大変な事になっている可能性がある。


「うーん、一旦進んでみるかぁ…」


―まだ行けそう?


 迷った末に、アルトは更に奥へと進む事にしたらしい。この先は上級層の住む城下町へと続いている。


「回復は使ってないし、負傷もしなかったからね」


 そう呟いた彼は、ふと眩しそうにフードを被った。

 彼は太陽が苦手だった記憶がある。兜も飛んで行ってしまったので、陽光を遮るものが消えてしまっているのだ。


―日差し、もしかして痛い?


 心配になって尋ねると、彼はうーんと唸った。


「ちょっとピリピリするような…。あぁでも、外の陽光よりは大分優しいかも」


―そうなの。でも、痛いなら被っといた方が良いね。


 視界がちょっと遮られるのがなぁ、とアルトは独り言ちる。


―あ、それなら私に任せてよ。ちょっと広めに視界を取ってみる。


 横の視界が狭くなるのなら、私がその辺りをカバーすれば良い。

 そう進言すると、彼は嬉しそうにしていた。


―あれ、牢獄に居た騎士だよね…。


「そうだね。…大通りは通らない方が良いな」


 上級層の住まいは、矢張り同じように荒廃していた。しかし、下級層よりは遥かにまともな様相だった。

 町並みがある程度形を残していたのだ。大通りは牢獄に居た、赤いサーコートを着た騎士達が理性の無い瞳で定期的に巡回をしている。

 その為大通りを進むのは避け、路地裏を慎重に進んでいた。そこにも理性を失った住民や兵士の亡者が居り、彼等の幾人かは襲い掛かって来る。


―左後ろの奴、起き上がった。


 ただ、それらの奇襲は私が都度指摘する事で失敗させる事が出来た。複数人で無ければ、アルトには傷1つ付ける事は叶わない。

 アルトは間違いなく強いのだ。巨大な敵や超常の力を持つ相手で無ければまず負けはしない、そんな確信がある。

 私の警告も段々慣れて来て、何とかコンビネーションも良くなって来ていた。


「ここは…兵舎? 打ち捨てられているみたいだけど…」


 やがて、荒れた兵舎に辿り着いた。丁度町の中間、そのやや東に位置する場所だろうか。

 この辺りには人気が無かった。少し先にこれに似た建築物が在ったので、古くなった兵舎を打ち捨てて新しい物を建てて移動したらしい。


「あ、篝火…!」


 中を探索すると、牢屋を見張る部屋らしき場所に不死の遺骨が転がっていた。アルトはほっとした顔をする。

 これだけ進んでも篝火が見つからなかったので、不安だったのだろう。

 回復は一度も使っていないが、先程の牛頭の怪物の様にいきなり接敵して戦闘に陥る可能性もある。

 一先ず近場で生き返れて、祭祀場へ戻れる楔が必要だったのだ。

 遺骨に触れると、馴染みの炎が燃え上がった。ふぅ、と息を吐きアルトは座り込む。

 何だかんだ気疲れはしていたらしい。


―やったね、これで戻っても大丈夫だ。


「あぁ、そうだ…――ん?」


 ふと、アルトは牢屋の方に顔を向けた。警戒する様に剣を抜いて立ち上がる。


―どうしたの?


『身動ぎする音がした。…牢屋の中に誰か居る』


 心中の会話に切り替えた彼が、牢屋がある廊下へと侵入した。大体の牢屋には誰も居なかったが、幾つかは干乾びて骸骨と化した物が転がっている。

 どうにも、移動した際に牢屋の罪人達は置いて行かれてしまったらしい。酷い話だ。


『これは酷い…む』


 そんな中、1つだけ身動ぎする人影が在った。一番奥の牢屋である。

 中に居たのは、大通りを歩いていた騎士と同じ赤いサーコートを着た男だった。寝返りをうった彼は、ふとこちらを見て固まっているアルトと目が合う。

 顔はほぼ干乾びかけていたが、明らかに外の者よりも表情が豊かだった。怪訝な顔をすると、よっこいしょと起き上がってまじまじと見つめて来る。


「…え、えぇ、と」


 不意に理性のある存在と出会ってしまったからか、アルトは口籠った。そうだ、彼は対話が苦手なんだった。

 しかし私もこんな唐突な出会いにどう対応するべきか判らない。そもそも言葉は通じるのか?

 明らかに小人ではなさそうだが…。

 ただ、そんな心配を他所に牢屋の中の男は明るい顔になった。


「やや、ひょっとすると、君は理性を持つ者か?」


「あ、は、はぁ…」


 困った様に頷くアルト。どうやら話は通じるらしい。


「ああ、助かった。我が名はパスカルだ、この国の一兵士だったのだが…故あって投獄されてしまってな」


 投獄されたという事は悪行を為したという事だろうか。この国の法律が、正しく機能しているかは不明なのだが。


「しかし牢屋で反省していた折に、皆おかしくなってしまった。喚く私の言葉なぞ耳に入っておらず、皆新しい兵舎に行ってしまって今は誰も来やしない」


 胡坐を掻いた男――パスカルは、そこで渋い顔をする。顔半分が干物みたいになっているのに、妙に表情が豊かだった。


「半亡者化した故に、飢えて死ぬなどはしなかったが…出られず困っていたのだ。君、礼ははずむので鍵を探してくれないか」


「うーん…。その、因みに投獄理由を、訊いても?」


 困ったアルトは、出していい人物かどうか一先ず見極める事にしたらしい。その質問に、パスカルは暫し黙考し…観念した様に答えた。


「…その、近頃薄給でな。騎士隊の要らない物品等を、市場に横流しにして売り捌いて収入を得ていた」


 それがバレて投獄されたらしい。明らかに彼が悪い。

 しかしまぁ殺人とかではなさそうなので、危険な相手では無さそうである。


―こ、小悪党って感じ…?


『まぁ、危険な人って感じじゃないな…。情報が欲しいし、篝火も近いから…お願い聞いてあげるか』


―そう、だね。


 アルトは牢屋の錠前を確かめる。錆びてはいるが、無理矢理壊せそうにない。探すしかないか。


「分かりました。その、私も情報が欲しいので…鍵を探してみます」


「本当か! 助かる…このまま干乾びるのは堪ったものでは無いのでな。その、牢屋の前に保管庫が有る筈なのだが…」


 覗いてみたが、鍵束そのものが無くなっていた。もしや、新しい兵舎の方に持っていかれてしまったのか。

 戻ってその旨を報告すると、明らかにパスカルは落ち込んでしまった。


「ま、誠か…ううーむ、どうすれば…」


「あ、こ、この先に同じ建物があるのが見えたんで…あれは新しい兵舎でしょう? 警備が厳しくないなら、試しに行ってみても」


 アルトが慌てて言い募ると、またパスカルの表情が晴れる。かなり感情が表に出やすい人物らしい。

 この見た目の騎士達は大体理性が吹っ飛んでしまっている者しか居なかったので、妙に違和感がある。


「た、助かる。ここから出られた際には、考えられる限りの返礼をしよう」


「うーん、あまり期待はせずに待っていて下さい。その、どんな状態か判らないので…」


 苦笑するアルトだったが、パスカルはあぁと満面の笑みで頷いている。本当に大丈夫だろうか。

 パスカルの牢屋から離れ、篝火へと戻って行く彼に囁く。


―本当に、新しい兵舎へ探しに行くのかい?


『あるかどうかすら判らないけど…まぁ、篝火がここにあるからね。ついでに立ち寄ってみよう』


 お人好しだなぁと思う。しかし、これが彼の良い所かもしれない。

 情報を得られる可能性があるにしても、兵舎となれば敵対する亡者の巣窟となっている筈だ。リスクの方が高い気もするが…。

 パスカルの百面相に絆されてしまったのかもしれない。

 目深にフードを被った後ろ姿が座り込むのを眺めつつ、私は微笑ましさを感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る