第4話:熾火(おきび)の祭祀場・上

 灰になって消えていった怪物の中から転がり出て来た鍵を拾い、反対の大扉へと向かう。

 鍵はアルトが小脇に抱える必要があるぐらいは大きい。


―何か、凄く錆びてるなぁ。


『使う事が無かったのだろうなぁ』


 よいしょと重そうに運びつつ、目下の青年は頷いている。


『これ、嵌まるか…?』


 不安そうにしながらも鍵穴に差し込んでいたが…ぎこちなくはあったものの、鍵は回った。

 両手で力いっぱいアルトが押すと、土埃と錆を撒き散らしながらも大扉は開く。

 腕が広がるぎりぎりまで押し、外へと出る。アルトの干乾びた身体に、陽光が射した。鎧の金属部分が光を反射して眩しく輝く。

 風が強いらしく、びゅうびゅうと鳴っている。空を見上げると、相変わらず曇天が流れていた。晴れているのに、どこか暗い。


―風が中々…うわ。


 扉の先は何処か荒涼とした空間だった。直進方向は階段の様になっており、上へと続いている。

 左右は広場になっていたが、何故かその空間は酷く荒れていた。赤いサーコートの騎士達が複数人転がっていたのだ。誰も動く気配は無い。死んでいるらしい。

 すぐ近くには幌馬車に似たものの残骸もある。それも滅茶苦茶に破壊されていた。


―これは、確かロンブラントの兵士…?


『…だな』


 アルトはその兵士の1人に近付く。跪いてしげしげと観察していたが、やがて傷口を指差して呟いた。


『これ、番人の後頭部にあった傷に似ていると思わないか?』


 兵士は胸を貫かれていた。鋭い何かの様だったが、凶器は残っていない。


―確かに。途中で見た飛竜とか、あの怪物に付いてたのと、同じか…?


 と言う事は。


―まさか、これ。君の友人がやったのか。


『多分そうだ。…いやぁしかし暴れ過ぎだろう』


 アルトは苦笑している。オスカーを話題に出して彼の心の傷を抉りはしないかと思ったが、存外にアルトはさっぱりとした態度だった。

 ほらあっちも、と言われて振り返ったら木製のリフトの残骸があった。上から落ちて壊れた様に見える。その残骸にも、引っ掛かるように兵士の死体が転がっていた。


『そりゃ、こんだけ暴れたら番人が怒るだろうな。自分の家を不躾に荒らされた様なものだ』


 しかし、ここまで1人でしっちゃかめっちゃかに出来るなんて。オスカーはかなりの強者だったのだろうか。

 端正な顔立ちをしていた青年の顔を思い出す。外見は優男と言う感じだったが…。


―なぁ、その。オスカーは…もしかしてかなり凄腕の騎士だったのか?


『オスカーが? …うーん、どうだろうか。誰も使わない古い魔術を好む変わり者だったけど…強い方ではあったかもしれない』


 そうなのか。アルトの態度からしてとても強かった、と言う訳では無いらしい。平均値が判らない以上、今は亡き彼の実力を推し量るのは難しいかもしれない。

 と言うか魔術師だったのか、オスカー。触媒らしきものも持っていなかったし、私がゲーム等で知る魔術師の姿からは乖離していたから気づけなかった…。

 兵士から離れ、アルトは正面へと向き直る。頂上がどうなっているかは視えない。ぐう、と限界の高さまで上がって見たがそれでも判然としない。


―うーん、あの先どうなっているんだろう。ここから巡礼の旅とやらが始まるんだよな?


『その筈なんだが…何せ俺――あ、いやええと、わ、私の国に残っている巡礼の伝承は、遥か昔のものなんだ』


 慌てて一人称を戻すアルトに笑ってしまった。オスカーとの再会の直後から”俺”になっていた。多分、そっちが素なのだろう。

 故郷で他者と話す際は気を付けていたのかもしれない。

 だが、相手は『私』なので気にしないで欲しい。意識の中の相手にまで気を遣うのは疲れるだろうし。


―俺で良いよ、そっちの方がやりやすいだろう。…巡礼の伝承では、この後何が起こるか伝わっているのかい。


『あ、あぁ…ありがとう。その、口伝を書に記したものだから、真偽の程は定かではないが――黒い迎えが来るらしい』


―黒い迎え? そりゃ何と言うか…その…。


『な、随分ぼんやりしているだろう。ただまぁ、今はそれを信じるしかないな』


 頭を1つ振って、アルトは祭壇染みたそこを上がる。階段は殆んど風化して、最早ただの急勾配の有様だった。歩くのも大変そうである。

 びょうびょうと風鳴りが酷い。見回してもこの高台の遥か下は、霧に覆われていて地面すら視えない。もしかすると、ここはかなり標高が高いのだろうか。


―高いなぁ、ここ。


『こんな断崖にあるのは、俺も予想外だったなぁ…』


 ようやく終わりが見えてくる。しかし、一見してもそこは崖の涯でしかない。

 ただ、何故かそこには途轍もなく大きな鳥の巣がぽつんと残されていた。卵も雛鳥も見当たらなかったが、中には黒い鳥の羽根が落ちている。羽根1枚すらもアルトと比べるとかなり大きい。


―この世界の人以外の生物って、皆こんなに大きいのかい?


『いや、流石にこの大きさは異常だ…ん、待てよ。黒い、羽根…?』


 アルトが巣の中で疑問符を浮かべつつ思案していた、次の瞬間だった。

 唐突に上昇気流が巻き起こり、風に煽られた彼がよろめく。

 それと同時に大きな羽搏きの音がして――不意に艶のある黒い影が視界を遮った。


『なっ――うわぁ?!』


―えっ何これと…わーっ!!


 アルトは咄嗟に中盾を構えたもののそれごと脚で身体を掴まれ、あっという間に空中に攫われてしまう。彼にくっつく形で存在している私も丸ごと引っ張られ、視界が忙しなく回転する。目が回りそうだ。

 私達を掴んだ影――…大きな烏はそのまま、どことも知れぬ方向を目指して飛んで行ってしまった。


―ア、アルト。と、飛んでる。すっごい高いんだけど。


『俺もこんな高さは見た事が無いな…。お、落とさないでくれよ頼むから』


 地面は程遠く、霧に阻まれ視認する事すら叶わない高高度である。落ちたらミンチじゃ済まない。

 大烏の羽搏きと耳元で鳴る盛大な風鳴りに耐えながら、2人して縮こまる。番人との対峙とは違う方向で生殺与奪を完全に握られていた。違う意味で怖い。

 幸いしっかりと掴まれている様なので、暴れない限りは落とされ無さそうではある。

 私はなるべく真下を見ない事にした。遠方の山脈を眺めて気を紛らわせる。

 アルトは掴まれたまま、興味深そうに周囲をきょろきょろと観察していた。慣れるのが早い。


『黒い迎えとは…この大烏なのだろうか』


―うーん、どうだろうなぁ。でも他にそれっぽい存在は無かったし。


 大烏の行動はアルトを食料にと言うよりも、いずこかへと運ぶ事を目的にしている様にも思える。そもそも食料にするならば、最初の巣の時点で突かれている気がする。

 …一先ず上の存在からは、害意を感じない。


―大人しくしておくしか無い、よな。


『そうだな。…あぁ、ルクス。あれを見てくれ』


 そう言った彼が、自由に動く右腕で前方を指し示した。

 大烏が飛んで行く先に、天まで届く白い壁がある。巨大な筒状になってるのか、上も下も終わりは視えない。


―壁? いや、動いてるな…あれは、霧なのか?


 最初は壁の様に見えた。しかし壁にしては向こうが歪んで仄かに透けて見える。雲にしては地まで面している。

 分厚い霧の壁らしきものが在った。どんどんそれに迫っているのだが、大丈夫だろうか。大烏は突っ込むつもりらしい。


『どちらも正解だ。あれは、文献の通りなら…神の国との境目にある霧の壁だろう』


―霧の壁か…あれで隔ててるのか。


 どうにも目的の場所は、そういう隔絶された地であるらしい。

 そんな事を話していたらもう目と鼻の先まで霧の壁が迫って来た。

 スピードを緩める事も無く、大烏はカァと一声鳴くと霧の壁に突っ込んだ。


『うっ』


 一応物理的な衝撃はあったらしく、アルトが小さく呻く。

 しかし、大烏は億す事なく飛び続けあっという間に霧の壁を抜けた。

 まず見えたのは、遥か上空に見える太陽。それは日蝕の様に真っ黒になっており、金環から届く昏い光を大地に落としている。

 美しくも不気味なそれに、暫し魅入る。続いて、そろそろと下の世界へ視界を向けた。


―わぁ…。


 最初に見えたのは、巨大な城だった。中世ヨーロッパを思わせる城が、山間に聳えていた。白を基調としており、黄金の光を浴びて重々しく存在を主張している。

 しかし遠目に見ても所々痛んでいるのが判る。城壁は幾つか崩れていた。

 見張りが居るのか赤い人影が幾つか垣間見えたが――大烏はそこを通過して更に飛んで行く。

 寂れた城下町も見えたものの、霧に隠れそれらは直ぐに見えなくなった。目的地はそこでは無いらしい。


―今のは王城か?


『…先代のロンブラントを統べる王が確か、ローンウィルと言う王家だったと記憶している。もう数百年以上も前の逸話だが』


 衝撃を耐え抜き、残っていた聖杯瓶で回復したアルトが答えてくれた。かなり痛かったらしい。


『その逸話では、白亜の城と言う表現が在った。ならば先程の城は、ローンウィル城なのかもしれないな』


―でも、かなり荒れていたぞ。戦争でも遭ったんだろうか。


『どうだろうなぁ』


 ついで、大烏は高度をやや上げた。雲の上へ抜ける。途中、大気中の氷の粒をしこたま喰らったからなのかアルトがまた聖杯瓶で回復していた。

 やがて、目的地が見えて来る。崖の上、牢獄と同じ様な切り立った場所に儀式を行う為の神殿らしき建築物が見えた。デザインは西洋建築にやや近いのだろうか。


『あれは――文献の絵に在った、かも』


―おや、知ってるのかい。


 大烏は近場の大地までゆっくり降下すると、地面に着く寸前に彼の身体を離した。そのまま自分は神殿の屋根へと飛び去って行く。

 役割を終えたらしい。大烏にとっても長旅だったのではないだろうか。


『わ、っ…とと』


 離される予想はしていたのか、数度転がりつつもアルトは危なげなく起き上がった。ふぅ、と安堵の溜息を吐いている。


『いや、生きた心地がしなかったな…戦いより緊張したかもしれない』


―お疲れ様、アルト。


『おつかれ、さま?』


―あー、何と言うか、私の国の労いの言葉だよ。疲れたよね、ゆっくり休んでくれみたいな意味だ。


『へぇ、良いなぁ。思いやりのある言葉だな…有難う』


 アルトの干乾びた顔に柔らかな笑みが浮かんでいる。

 私としては何気ない労いの科白だったのだが…彼にとっては思っても見ない言葉だったのだろう。


『…あぁ、でここが何なのかなんだが』


 そう言い置くと、彼は建築物への入り口へ振り向く。

 石造りの建築物だったが、外側はかなり植物で覆われている。何なら木の根が石壁に食い込んで浸食していた。


『俺の記憶が確かなら…ここが各地の巡礼へ向かう入り口だ。熾火の祭祀場、と呼ばれている』


 おきび。読みから察するにあの熾火だろうか。薪が燃えて炭火になったものを、意味する筈だが。


―熾火の祭祀場、かぁ。


 何とも意味深な場所である。

 アルトは周辺を見回しながら入り口らしき場所へと進んでいく。入り口の奥は薄暗く、視認出来ない。

 彼の足音ばかりが響いて、後は微かな葉擦れの音が鳴るばかりだった。余りにも静かで、落ち着かない。

 扉すらない入り口を潜る。目が慣れるまで暫くかかったが、やがて祭祀場内の全貌が視えて来た。

 灰色の壁を背景にして、祭壇とも椅子ともつかぬものが牢獄にも在った篝火をぐるりと囲っている。祭壇は全部で5つだろうか。

 篝火の炎はそのまま同じ色だったが、唯一違うのは楔の様な物が頭蓋骨に向かって穿たれていた。

 どこか、異様な雰囲気だった。

 そしてその祭壇付近の階段に、1人の女性が座っていた。

 身長よりも長い杖らしきものを携えた、黒衣の女性だった。髪色も黒く、それを後ろで緩く三つ編みにしてある。

 それだけなら良かったのだが…彼女はなぜか目にあたる箇所を布と蝋で固めて覆い隠していた。あれでは視えないのではないだろうか。


『あれは――火守の巫女か』


―ひもりのみこ?


『文字通り、火の番をする神職の事だ。祭祀場の篝火の番をする存在が居る、と聞いた事がある』


―ははぁ。火を守るで火守か。でも、何故目を覆っているんだろう。


『何でだろうなぁ…うっ』


 と、アルトが一歩新たに踏み出した瞬間彼女がこちらを見上げて来た。

 視認出来なさそうな姿なのにばっちりと顔へ視線が合ったからか、怯んだアルトが一歩退く。

 そのまま固まった彼を意に介さず、下の女性はゆっくり立ち上がると笑いかけて来た。


「いらっしゃいませ、そしてお待ちしておりました。火の巡礼様」


 そう告げると、優雅に会釈する。鈴の鳴る様な、聞き惚れそうな程美しい可憐な声だった。

 会釈されたアルトは、暫く固まっていたものの我に返ったのか慌てて頭を下げた。

 心配になって顔を覗き込むと困惑した様な、何かに怯える様な表情をしている。


―アルト?


『あ、いや、その。…ええと、降りて、挨拶しないと、駄目、だよな』


―大丈夫かい、その…。


『う、うん。だ、大丈夫だ。大丈夫…』


 私にと言うよりも自分に言い聞かせている。ぎこちない動きで火守の巫女の近くまで降りた彼は、そこでもう一度一礼した。


「ここに来訪者が来るのは久方振りです。…おや、巡礼様…?」


 すぅ、と彼女の手がアルトの顔へと伸びる。反射的に身を引いた彼は、咄嗟に謝ろうとして――声が出せない事を思い出したのか再び固まる。

 干からびた顔のまま口をぱくぱくさせていたが、結局どうしたら良いのか判断出来ずに硬直してしまった。

 そんな彼の姿が視えているのかいないのか、女性は伸ばした手を降ろした。替わりに、首を傾げる。


「もしや、お声が出せませんか? 私にはよく視えませんが…貴方の中のソールも弱々しい状態ですね」


 心配してくれているらしい。優しい人なのかもしれない。

 彼女は暫く沈黙していたが、やがてアルトに向かって手を差し出した。


「巡礼様、なればこちらへ。完全な状態にお戻しするのは難しいでしょうが…貴方が苦難に臨める様にする為の備えが有ります」


 差し出された手と、火守の巫女の顔をアルトの視線が往復している。

 手を取るべきかどうか迷っているのだろうか。

 彼の様子からして、彼女を信頼していないと言うより自分が触れて良いのかと言う葛藤が垣間見える気がする。

 これは、私が背を押してやるべきなのかもしれない。


―アルト、アルト。行ってみよう、大丈夫だよ。手を取ってあげてくれ。


 そう私が囁くと、漸くそっと彼女の手に自分の手を置いた。置かれたグローブ越しの感触に、巫女はそっと笑いかける。


「有難うございます、巡礼様。お連れしましょう」


 その手を優しく握ると、火守の巫女は階段を上がっていずこかへとアルトを誘導し始めた。

 歩幅は完全にアルトの方が大きいのだが…ゆっくりと歩く彼女を追い越さない様に速度を調整している。

 彼は気が利かない訳では無い、寧ろ優しい方なのは短い付き合いだが私でも分かる。

 ただ、他者と向き合う事―――これに関しては、苦手と言うよりも…恐れている気配があるのだ。何と言うか、虐げられた者特有の卑屈さがある。

 もしや、過去に虐待とかされていたのだろうか。

 牢獄で、蘇生する合間に見えたアルトの記憶の残滓。そこに移っていた群衆の目付きは、尋常では無かった。

 学校でよくあるいじめとかの比ではない。あれは、どうする事も出来なさそうなくらいの差別の目だ。

 あんなものを常々向けられていたのなら、堪ったものでは無いだろう。

 巫女に連れられている彼の背中を見る。オスカーの科白も、彼が非道な扱いをされていた事に対する怒りらしきものがあった。

 …思っている以上にアルトの出自は悲惨なものなのかもしれない。


「こちらです」


 火守の巫女が連れて来たのは、入り口とはまた別の階段を上った先の広場だった。植物に囲まれた庭の様な空間の中心に、これまた石造りの人口の池が設置してある。水面は風も無いのに揺れており、白い光が水中をゆっくりと泳ぎ回っていた。


―池の中のアレは何だろうか。…ソール?


『多分、ソールだ。…こんなにはっきりと可視化されているのは、この地の特性なのか』


―君の故郷では、ソールは視えないのか。


『視えないな、よっぽど集積していないと』


 アルトを池の前まで連れて行くと、彼女は手を離した。そして彼に向き直る。


「この泉は、過去に祭祀場を訪れた方々の遺された遺産です。有事の際に使う様にと仰せつかっておりました」


 これがそうなのか。有事とはつまり――…アルトみたいに何らかの理由でソールを失った者が訪れた際に、と言う事なのだろう。

 しかし、使うとはどう使えば良いのか。使うにしても色々ありそうだが。


「御遠慮なさらずに、お禊ぎくださいませ」


 しゃがんだ彼女は、水を掌に掬い上げた。戸惑うアルトを見て、笑いかけている。

 禊ぎかぁ。禊ぎと言うのなら…水浴だろうか。この場合は。


―禊ぎとは、所謂水を浴びる宗教行為みたいなもの、で合ってるかい?


『…お、恐らくは』


 アルトはそっとグローブを取った。その中の手は、矢張り干乾びている。

 とてもじゃないが、怪物を相手に対峙していた猛者の指には思えないぐらい頼りない。

 巫女の横に並ぶ様にしゃがんだ彼は、躊躇ってはいたもののその手を水の中に差し入れた。


―どうだい、痛みとかはないかい。


『痛くはない、かな。…あれ?』


 私からでも見えた。水の中に入れていた指が、いつの間にか生者の潤いを取り戻していた。

 びっくりしたのかアルトは水から手を引き抜き、その様を見詰めている。

 どういう仕組みなのか、水に差し入れたその部分だけが彼の本来の色合いであろう白い肌になっていた。


―えぇ? 凄いな…。


 アルトはしげしげとその指を開いたり閉じたりしながら観察していたが、横の彼女が立ち上がったので我に返った。慌てて自分も立ち上がる。


「申し訳ありません、私が居てはやり難いでしょう」


『あ、いや』


 聞こえる筈は無いのだが、アルトは横でわたわたしている。

 戦闘の時とはまるで違う情けない彼の姿に、思わず苦笑してしまった。


「篝火の傍でお待ちしておりますので、禊ぎが終わったらお越し下さいませ」


 そう告げて優雅に一礼すると、彼女は長い杖を携えてゆっくりと去って行った。

 後に残されたアルトは、申し訳なさそうに頬を掻いている。


『…気を遣わせてしまったかもしれない』


―ただ、やりやすくはなったんじゃないか。


『まぁ、そう…なんだが』


 そう言うと、彼は何故か後ろを振り返って虚空を見上げる。私の居る位置とは少しずれていたが、私の事を見ている様な気もする。


―もしかして、私も居ない方が良いかい。でもなぁ、うーん。


 彼の中に戻った場合、それは彼の操作権を私が貰う形になる。それはそれとしてどうなのだろう。


『うーん、いや、だ、大丈夫だ。き、気にしないよ』


 目が泳いでいるので明らかに気にしている。裸を見られる可能性があるのが落ち着かないのかもしれない。

 …そも、私は男性と女性どちらなのだろうか?

 それすらも曖昧なのだ。

 アルトは男性なのは間違いない。意識内で会話する穏やかな声は低く、骨格も鎧の上からだと判り難いが男のそれだ。

 では、私は?

 意識の中の私は、どちらとも取れる声をしている気がする。今まで取り戻した意識の残滓からはそれっぽい物を窺えないし…。

 …いや、気にしてしまうと私も気まずくなってきた。取り敢えず、彼が装備を脱いで水浴している間はあらぬ方を向いておこう。双方その方が気楽だ。


―アルト、その。君が禊ぎをしている間は、私も視線を向けないようにするよ…正直自分の性別がどっちか判らないんだ。


 そっちの方が良いだろう、と訊くとアルトはほっとしたような顔をした。


『済まない。恩に着る』


―いや、構わないよ。


 彼がごそごそと皮鎧を脱いでいる音を聞きながら、私は抜ける様な青空を見詰めていた。暫くは空を眺めていよう。

 ここの厳かな雰囲気とは違って、その青さだけは変わらない。妙に、穏やかで長閑だった。

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