最小限と最大限
手術室内。
患者の右側(患側)に彩葉が立つと、より一層緊迫した空気に包まれた。
「タイムアウトを」
彩葉が口を開くと、室内にいるスタッフ全員が静止する。
そして、その場にいるスタッフ全員で最終確認が行われるのだ。
(タイムアウト:麻酔導入前に執刀医・麻酔医・看護師等が一斉に手を止め、患者の氏名・カルテ番号・生年月日・血液型、術式、手術部位等の確認を行い、手術における事故を防止する取組みのこと)
最終確認を終えた執刀医二人はアイコンタクトを取り、小さく頷く。
「津田くん、宜しくね」
「宜しくお願いします」
「外傷性血気胸、胸腔ドレナージによる脱気を行います。……メス」
**
胸部外科の女医としては、日本トップクラスの腕を誇る彩葉。
花の二十代、三十代を仕事に注ぎ込んで来た賜物でもある。
神技とも言える手技は、臨床の授業で見たどの手術よりも早く、そして正確である。
「津田くん、覚えておいてね」
「……はい」
「医師として必要な処置であったとしても、患者さんにとったら、例え1㎝の傷痕でも、残さないに越したことないの」
「……はい」
「この患者さん、再来月に結婚式を控えているそうよ」
「えっ」
「ドレスで隠れる部分かもしれないけれど、こうしてメスで傷をつけたことを医師として受け止めなければならない」
「……はい」
「勿論、命を救うのが私たちの役目だから、手術は時として必要だけれど。傷痕は最小限に、処置は最大限に……だからね」
「はい」
切開する時も
津田は執刀の介助をしながら、指先に愛おしい人の姿を想い重ねていた。
**
胸腔穿刺・胸腔ドレナージ術が無事に施された。
血圧、心拍数、体温、SpO2(酸素飽和度)に異常はないか、呼吸回数、呼吸音、呼吸の深さ、左右差の有無、胸郭の動き、呼吸困難感の有無などから、呼吸状態が安定しているか確認する。
「10分毎に、バイタルの確認を」
「はい」
術後、1時間ほど手術室内で経過観察を行う。
彩葉は無事に手術が成功したことをご家族に伝えるためにオペ室を後にする。
手術室に隣接する相談室に呼ばれた、患者のご両親と婚約者の男性。
心痛な面持ちで、手術の無事を必死に祈っている。
「お待たせしました、執刀医の財前と申します」
彩葉の入室で、4畳半ほどの部屋に緊張が走る。
「無事に胸腔ドレナージによる血気胸は処置しました。右膝の骨折具合ですが、ヒビが入っている程度なので、それほど心配は要りません。後ほど整形外科の医師による説明があるかと思います。それから、右股関節の脱臼は救急搬送されて来た時点で、私の方で応急処置を施しておきました。こちらも整形外科の医師からお話があるかと思います――――」
無事に手術が成功したことが伝えられると、
「先生、ありがとうございます」
「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます」
「娘を助けて下さって、本当にありがとうございました」
涙を流しながら何度も頭を下げる母親。そんな妻の肩を抱き寄せる父親。
そして、ぎゅっと握られた手が震えている彼女の婚約者。
「大丈夫ですよ。胸腔ドレナージは難手術というほどでもないですし、切開した傷はこれほどで……1、2カ月ほどしたら、傷痕も殆ど目立たなくなりますから」
指先で2㎝幅ほどのジェスチャーをして見せる。
その行為が、家族にとってどれほどの安心材料になるのかを知っているからだ。
「こんな時に何ですが……、これをお願いしても宜しいでしょうか?」
「……はい?」
「私が執刀した患者さんとそのご家族に、毎回お願いしているものなんですけれど……」
彩葉は、その場の空気を更に和ませる秘密兵器を差し出していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます