爪痕

如月姫蝶

またね、大好き、お姉ちゃん……

「桜吹雪を見て、私の名前を閃いたらしいのよ、うちの親」

 俺にしなだれ掛かりながら、美散みちるは言った。

「そんな名前のおかげで、私は、こんな病気に……」

「おい、痛いってば」

 爪を立てられて、耐えかねた。

「私、この世に爪痕を残したいの。あなたの中で生き続けたい……」


「またね、大好き」

 棺が火葬炉へと吸い込まれる最後の瞬間、聡美さとみは呟いた。

 聡美は、美散の姉にして喪主である。

 俺は、喪主の夫として、その傍らに寄り添い、何一つ無駄口を叩かなかった。


 葬儀の一切を終えて帰宅した時、聡美は憔悴しきっていた。

 未だ二十代の美散を喪ったことで、より大きな痛手を負ったのは、俺ではなく妻だろう、間違いなく。

「またね、大好き——か。美散ちゃんへの愛情が滲み出すような言葉だったな」

 俺は、熱い茶を淹れて、聡美の前に置いた。

「え?……私、そんなこと言ったっけ……もしかして、美散が言ってくれたんじゃない?」

 聡明な妻らしくもない返事だった。俺は、少しばかり動揺した。

「やっぱり疲れてるみたいだね。お義母かあさんのことは、俺が看てくるよ」


 俺たち夫婦に子供はいないが、同居人なら一人いる。

 聡美の母親だ。

 彼女は早くに認知症を患い、介護用ベッドで寝たきりなのだ。

 腹を痛めて産んだ娘二人のうち、妹のほうに先立たれたこともわかっちゃいないはずだ。ましてや、その妹が、姉の留守を狙ってこの家に出入りしていたことなんて……


 またね、大好き——それは、逢瀬を終えた美散が、しばしば去り際に口にしていた言葉だった。


 俺は聡美の幼なじみだ。聡美が小学生の頃、美散の大病を我が事のように嘆き悲しみ、「私、お医者さんになる!」と奮起したのも、俺の目の前でのことだった。

 裕福とは言い難い母子家庭の子供でありながら、聡美は、懸命の努力の末にその夢を叶えたのである。

 そして、友達以上恋人未満のはずだった俺を、夫に選んでくれたのだ。

 認知症で寝たきりとなった義母の介護のために、俺が専業主夫になろうかと提案した時には、涙ながらに頭を下げて感謝してくれた。


 誘ってきたのは、美散のほうだ。

 医師である妻には、美点が二つある。高収入であることと、宿直の際には絶対に帰宅しないことだ。

 美散は、聡美の留守中に、この家に上がり込んだのだ。

「大好きなお姉ちゃんが愛したあなたの中で、私、生き続けたいの……」

 美散の熱い告白に、俺は、聡美に対する狂愛じみたものを感じ取った。おかげで気が楽になった。美散は、俺の体を踏み台にして、結局、聡美を見ているだけなんだと……


 元カレにあれこれ教わったとかで、美散は案外、床上手だった。

 闘病中であっても二十代の女が体を投げ打てば、受け止める男たちがいるということだろう。俺もその一人だ。

 萎びた老婆の介護をこなした直後、美散の体は、十二分に瑞々しく魅力的だった。


「アッブラー、カータブラー!」

 美散が、情事の後に、そんな調子っ外れの鼻歌を歌うことはいただけなかったが、死への恐怖を和らげるおまじないなんだと言われては、俺には、返す言葉もなかった。


「アッブラー、カータブラー!」

 葬儀から帰宅して、夜遅くに入浴していた俺は、耳を疑った。

 バン! と、浴室のドアを打つ音まで響いて、思わず湯船の中で腰を浮かせた。

 さらには、「またね、大好き」なんて言葉まで聞こえてきたではないか!


……女が、浴室の前をウロウロと往復しながら、ドアに掌を叩きつけ、声を発しているようだった。

 声は聡美のものだ。しかし、聡明な彼女には有り得ない奇行である。

 そして何より、言葉や口調や鼻歌の調子っ外れは、秘密裏にこの家を訪れていた、生前の美散そのものだった……


 恐ろしい考えが、俺の頭を侵食した。

 まさか、美散の霊なり残留思念なりが、聡美に取り憑いているのではないか……

 怖い話が苦手な俺は、湯船の中でも体が冷えてゆくのを感じた。


 どうすればいい?——清めの塩なんて、今手元にはない。

 消臭剤!——そんなもん、なおさら風呂場にあるか!

 エロいことを考える……それなら既にやってたよ! 美散との情事を反芻していたさ!

 巷で噂される除霊の手段の数々を、俺は必死に検討したのである……


 聡美はついに、浴室へと押し入ってきた。

 俺は、洗い場に立ち、些か斜に構えて、両腕を不死鳥の翼のごとく高らかに掲げて、迎えうったのである。やむを得ず全裸だった。

 それは、サンバの決めポーズだ。大御所俳優の踊るそれが、除霊の効果覿面であると、SNSで語られていたのを思い出したからだった。

「あなた……何してるの?」

 聡美の物言いは、普段の彼女らしい冷静さを通り越して、ひどく冷淡だった。


 俺は、風呂から上がって、最低限の衣服のみ纏って、妻の前で正座することになった。

「私が死んだら中身を見て——美散がそう言って寄越した封筒を開けたのよ。お姉ちゃん、あなたは本当に幸せでしたか?——そんなことを書いた便箋と一緒に、動画のデータが出てきたわ。美散が何を考えていたのかなんて、もう問い詰めることもできないけど、この動画は、決定的な証拠エビデンスと言わざるを得ない!」

 美散は、俺との逢瀬を隠し撮りしていたのだ。

 そして、聡美は、動画にあった言葉や鼻歌を物真似していたにすぎなかったのである。


「お母さんには、施設に入ってもらうわ。あなたとは、さよならよ」

 それが、聡美の下した結論だった。

 俺が、義妹と、一夜の過ちどころか、ズルズルと浮気を続けていたことは事実だ。

 けれど、義母の介護を卒なくこなしていたこともまた事実なのに……

 それに、聡美が医局長に抜擢されて、仕事が増えて以来、夫婦生活はレスだったじゃないか!


「そうそう、美散は、癌を患ってただけじゃない。▪️▪️▪️ウイルスに感染していたのよ、知ってた?」

 聡美は、もののついでのように、とんだ爆弾発言をしたのである。

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