第三話「夏祭り」
その日は、夏祭りだった。私は朝から憂鬱で、布団から出たくなかった。窓の外は晴れていて、もわっとした暑さを感じる。クラスのSNSグループを開くと、みんなが「今日は夕方に集合しよう」と盛り上がっている。
私は誰にも誘われていないから、溜息をついて見ているだけだった。そのとき隣の席の子が、「白石さんも来るよね?」と書き込み、思わずスマホを何度も見返した。
「行く!」と短く返事を打って送信すると、「楽しみ!」とスタンプを返してくれた。屋台で何を食べようとか花火はどこで見るかとか、みんなが楽しそうに話している。私もその輪に混ざったのは初めてで、思わず泣きそうになってしまった。
浴衣を着ようか迷ったけれど、せっかくのお祭りだからと母に頼んでみたら、最近はケンカをしてばかりの母が「いいわね」と笑顔で言ってくれたのが意外だった。
夕方になり、母は仕事の手を止め、浴衣の着付けを手伝ってくれた。着慣れないから、帯をきゅっと結ばれると息苦しくなる。母は「お嬢さん、髪もまとめましょうか?」と楽しそうに提案してくれて、私は照れながらお願いした。
いつもは文句ばかり言ってしまう私だけど、こういうときは少し「ごめん」と思う。
「せっかくだから楽しんできなさい」
母はにこりと笑って、背中を押してくれた。素直に「ありがとう」が言えなくて、私はぎこちないうなずき方しかできなかったけれど、とても嬉しかった。
祭り会場は海沿いにある広い広場で、屋台のにぎわいと人ごみがすごい。赤提灯が揺れ、たこ焼きやトウモロコシの香ばしい匂いが漂っている。遠くでは太鼓の音がどんと鳴り、夏祭り特有の熱気が一気に広がっている。
「白石さーん! こっちこっち!」
声が聞こえて振り向くと、誘ってくれたクラスメイトたちが手を大きく振っていた。10人ぐらい集まると、皆で祭りの話をする。こんな風にクラスメイトたちと話すのが新鮮で、ちょっとこそばゆい。だけど、私はつい考えてしまう。
――このまま祭りを楽しんでいいのかな、と。
もし燈も地上に来られたら、この楽しい雰囲気を一緒に味わえたのに……。そんな思いが心に広がってしまう。
私はクラスメイトたちと一緒に屋台をひと通り回る。みんなで「何食べる?」とか「くじ引きでもする?」なんて相談する。私は一緒に笑いながらも、心のどこかに「燈も連れてきたかった」と思う自分がいる。
ふとスマホを見たら、時間がけっこう経っていて驚いた。空はさらに暗くなって、夕陽のオレンジが暗い藍色に溶けて沈んでいく。
クラスメイトたちは、いつ花火が上がるんだろう話している。そのとき私は、燈の優しい微笑みを思い出した。一緒に祭りには行けないけど、もしかしたら花火なら見られるかもしれない。そう思うと私は、いてもたってもいられなくなった。
「……ごめん。ちょっと用事を思い出した!」
突然そう言って、皆をびっくりさせた。
「え、どうしたの?」と言われたけど、私は言い訳を考える余裕もなく、「ごめんね!」とだけ言って人ごみを抜け出した。せっかく誘ってもらったのに失礼だと思う。それでも、どうしても行かなきゃいけない気がした。
浴衣の裾を握りしめながら、海岸へ続く道を急ぐ。祭りから遠ざかるほど、夜は静寂を取り戻していく。私は息を切らしながら、「間に合って」と心の中で何度も願う。燈が祭りに来られないのは分かっている。だからせめてあの海で、花火を一緒に見たかった。
砂浜にたどり着くと、そこは祭りの賑わいなんて一つも感じない。
「燈……いる?」
走ってきたせいで、息切れをしている。すると、私の足もとに近づくように、何かが波しぶきをあげる。そのまま浜辺へあがってきた人影を見て、私は息が止まる。
青い浴衣を着て、下半身が尾びれではなく、人間の足になっていた。
「海音……来てくれたんだね」
燈は少し苦しそうな笑顔を浮かべていた。私は驚きのあまり、思わず口が開けっぱなしになってしまう。だって燈が人の足で立っているなんて、考えもしなかった。
「どうしたの……。その足……」
「きみのために、がんばってみたんだ」
その瞬間、私の胸にいろんな感情があふれた。嬉しさと、どうしようもない不安。だけど今は何も言えなくて、とにかく彼がここにいることに、胸がいっぱいになってしまう。
「さあ、海音……。祭りを、見に行こう」
私はぎこちなく手を伸ばし、燈と指先を重ねた。夏の夜の海風が吹く中で、浴衣を着た人魚と砂浜を歩く。私の心は、確かにときめいていた。
私たちはゆっくりと祭りの方へ歩き始めた。燈は人の足で歩くのに慣れていないみたいで、時々よろめく。私が心配そうに見つめると、「大丈夫だよ」と無理に明るく笑う。
祭り会場に近づくにつれ、人の波が増えてくる。燈は興味深そうに周りを見回している。
「人間の世界って、こんなにも明るくて、賑やかなんだね」
「このあたりは人も少ないし、お祭りのときだけだよ」
燈と歩き、なんでもないような会話をすることが、とても新鮮で楽しかった。花火が上がるのにはまだ時間があるみたいだから、しばらく二人で歩いてみることにした。
屋台が並ぶ通りに入ると、燈の目が輝いた。「あれは何?」「これは?」と次々に質問してくる。チョコバナナを見て「この黒くて曲がった棒みたいなものはなに?」と首をかしげたり、金魚すくいを見て「あんな小さな網で魚が取れるの?」と不思議そうにしたり。その様子があまりにも愛らしくて、私はたくさん笑った。
「何か食べてみる?」と聞くと、燈は少し考えてから「君が好きなものを」と答えた。
私は綿菓子を選んで、一緒に食べることにする。燈には話していないけど、綿菓子を男の子と食べるのが憧れだった。彼はきょとんとした顔で綿菓子を眺めたあと、ぱくっと食べた。
「なにこれ! ふわふわで、空気みたいなのに、とても甘い!」
燈がこんなに感情を見せて話すのが初めてだったので、私の笑いが止まらなかった。
「私も一口ちょうだい……?」
ドキドキしながら言うと、燈は私の口に綿菓子を持ってきてくれた。こんなに甘い食べ物は、生まれて初めてだと私は思う。全部が特別で、キラキラと輝いていた。
だけど燈と会えるのもこの夏の間だけということを思い出すと、泣きたいぐらい切ない気持ちにもなった。
人ごみの中を歩きながら、クラスメイトに会わないかと緊張もした。でも不思議なことに、みんなの姿は見当たらない。もう別の場所に移動したのかもしれない、そんなことを考えていると、突然燈が立ち止まった。
「大丈夫?」
「うん……。少し、疲れただけだと思う……」
その声には力がなかった。
「ねえ、もう戻ろう? あそこの海からでも花火は見えるかもしれないよ」
燈は何も言わずにうなずいた。途中で何度かよろめいて、なんとか支えながら歩く。祭りの喧騒は遠ざかり、かわりに波の音が近づいてくる。私たちは人気のない浜辺まで、ゆっくりと歩いた。
「ごめんね……」
砂浜に着いたとき、燈がかすれた声でつぶやいた。
「もっとお祭りで、一緒にいたかったのに」
「ごめんなんて言わないで。私は、すごく楽しかったよ」
そのときふいに燈の体が、月明かりに透けるように見えた。人間の姿でいるのが、もう限界なのかもしれない。私にはそれが分かった。ただ不安で、燈の手を握りしめることしかできなかった。
その時、遠くで空に、大きな花火が上がった。ドンという音が響き、夜空が金色に染まる。燈は顔を上げ、その光景を見つめた。花火の光が、彼の儚げな横顔を照らしていた。
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