演技の代償

いちはじめ

演技の代償

 女が両手でしっかりと握りしめた刃物の先から血がしたたり落ちている。その先には、左肩から血を流した男が片膝をついていた。

「私が妻だからって油断した?」

 女の端正な顔にしてやったりの笑みが浮かび、刃物を持ち直した。

 とどめを刺そうと女が刃物を振り上げたその時、警官が室内にどかどかとなだれ込んできて女を取り囲んだ。

 その輪から一人のスーツ姿の刑事が一歩女に近づき女に告げた。

「そこまでだ、御厨麗子」

 女の手からゆっくりと刃物が落ちた。

 自嘲と安堵が入り混じったような笑みが浮かぶ女の横顔をカメラがズームアップしてゆく。

「カーット、OK」

 監督の声で緊迫していた撮影現場が一気に緩んだ。

「ナッちゃん、ばっちりだよ」

「う~ん、最後の笑みはもっとサイコパス感を加味した方がいいかしら」

「出たな、ナッちゃんの演技オタク病が」

 彼女は磯村奈津子。中堅女優切っての演技派と評される女優だ。

 いろんな役者を見てきたが、ここまで役に対して真摯にのめり込む俳優を私は見たことがない。

 演出側としばしば揉めたりもするが、それでいて彼女の悪口を聞いたことがない。

「皆さん、お疲れさまです」

 それまでの表情から一転しての屈託のない笑顔。彼女はスタッフ一人一人に笑顔で挨拶をしながら現場を後にした。

 さて私は駐車場から彼女のために車を廻してこなければならない。それが私の仕事だ。

 ほどなくして身支度を整えた彼女がエントランスに現れた。演技の時とも、またスタッフに対応している時とも違う表情。それでいて夫に対するものでもない。それはマネージャーに向けたものと言えようか。

「疲れたのでは?」

 今日で一週間連続の現場だった。

「仕方がないわ。先月の時代劇が雨に祟られたんだもの」

 そう言うと彼女は後部座席から身を起こし、運転席の私の耳元に顔を寄せた。

「この後、葉山さんのところに寄ってもらえる?」

 葉山さんとは、彼女がメンタルケアのためのカウンセリングを定期的に受けている心療内科の医師である。

「予定は今月末では?」

「予約を変更したの」

 そう言うと彼女は再びシートに身を預けた。

 最近カウンセリングの回数が増えているような気がする。葉山さんからは一度夫婦で来るようにと言われているのだが、彼女はどうもそれを嫌がっているようでまだ実現していない。

 彼女を送り届けた後、私はデパ地下で、彼女から渡された買い物リストに従い食材を買った。撮影後は外食をするのが常なのだが、今週はそれが続いたので久しぶりに自宅で料理をしたいのだそうだ。

 彼女を拾い郊外の自宅に戻った頃には日も暮れてかかっていた。

 彼女は疲れた様子も見せずにキッチンに立ち、ご機嫌な様子で料理を作っていた。

 妻の手作り料理とワインによる少し遅めのディナー。たわいもない話題に花が咲き、食卓に笑いがこぼれる。

 私だけが知る、役の時とは似て異なる極上の妻の笑顔がここにある。

 やはり疲れもあったのだろう、私が洗い物をしているうちに彼女はソファーでまどろみ始めた。そんな彼女を寝室に運び、私は一人ウィスキーを楽しむことにした。

 私もそろそろお開きにしようかと思った時、スマホがメールの着信を知らせた。葉山さんからだった。

『大事な話があります、ご足労願えますか。なお、お一人でお越しください』

 氷がカランと音を立ててグラスの底にズレ落ちた。


 その日、私は病院の一室で葉山さんと対面していた。

「妻に何か」

「奥さんに何か変わった点は?」

 そう言われても特に思い当たる節はなかった。

 葉山さんは言いにくそうに、しかしはっきりと私に告げた。

「奈津子さんは自我が崩壊しかけています」

「なんですって」

「完ぺきな演技にこだわるあまり、知らぬ間に自我を削っていったようです。日常生活でさえ演技の場と考えていたようですから」

 以前彼女から聞いたことがある。三歳の時にTV番組に出演してから、女優を目指して演技の勉強をし、普段の生活でも演じることを意識していた、と。

「カウンセリングの最中に突然叫んだり、急にふさぎ込んだりと感情が不安定で、このところそれが顕著になっています」

「そんな……。現場でも家でも彼女がそんな素振りを見せたことはありません」

「やはりあなたの前でさえ演じていたのか……」

「そんな馬鹿な……」

 頭をいきなり鈍器で殴られたようなショックだった。

 今までの彼女の仕草や表情が頭の中を駆け巡った。自分だけのものと信じていたそれらは、どれもこれも今まで彼女が演じてきたときの表情とぴったりと重なった。

「……私はどうしたら」

「落ち込んでいる場合ではありません。一刻も早く手を打たなくては」

「そうですね、今すぐ連れてきます」


 急いで家に戻ったが人の気配がない。嫌な予感がして車を路上に置いたまま、私は玄関のドアを開けた。

「奈津子、帰ったよ。居るのかい」

 どこからも返事がない。私はリビングの扉をそっと開けた。

 薄暗いリビングに突っ立っている彼女の後姿が目に入った。

「明かりも点けずにどうした」

 彼女はゆっくりと振り返った。暗くて表情はよく見えないが何かぶつぶつとつぶやいている。近づくと彼女は能面のような笑みを浮かべていた。

「おい、大丈夫か」

 さらに近づこうとしたところで足がすくんだ。鈍く光るものが彼女の手に握られていたからだ。

 本能的に距離を取ろうとしたその瞬間、彼女がぶつかってきた。

 冷たく鋭利なものが私の脇腹に深く差し込まれていく。体中から力が抜け私は床に崩れ落ちた。生暖かなものがゆっくりと床に広がって行く。

 妻が私を見下ろして言った言葉に私は戦慄を覚えた。

「私が妻だからって油断した?」

(了)

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