5
「今日、水瀬さんに会ってきた」
大学から帰宅して早々小雪にそう言われて、俺は自分の荷物を取り落としそうになった。小雪の胸ぐらを掴みたくなるような衝動が生起して、だけど必死に抑えて平静を装う。
「大学はどうしたんだ? 今日、授業あっただろ」
小雪は俺とは別の女子大に通っている。俺の通う大学はほとんどボーダーフリーだけど、小雪の大学はそれなりに偏差値が高くて、だから授業のレベルもそれなりに高い。軽い気持ちでサボっていたらすぐについていけなくなると以前に話していたはずだけど。
「サボった。今期はまだ一回も欠席してないから、別に大丈夫だよ」
小雪にとって、水瀬と会う用事は、大学の授業よりも優先されることなのか。
「あのね、色々、見せてもらったの。水瀬さんが普段制作に使っている機材とかスタジオとか、取引してる映像クリエイターさんのこととか。それで、なんとなく、イメージが掴めてきたかも」
顔を俯かせて、言いにくそうに、けれどどこか楽しそうに、小雪は語る。
水瀬との将来に可能性を感じていることを、俺に告白する。
「小雪は……水瀬についていくのか?」
俺が言うと、小雪は慌てて顔を上げた。
「あ、あのね! リョウくん。一回、ちゃんと話を聞いてほしいの。きっと、水瀬さんの要求していることは、リョウくんの思っているようなこととは違うから」
俺は荷物を置いて、テーブルの手前に座り込んだ。テーブルを挟んで正面に、小雪が座る。
「水瀬さんは、今やっているバンドの活動はそのまま続けてもいいって言ってくれてるの。水瀬さんが作った曲の、歌声の収録をするときだけ来てもらえればいいからって。ライブとかそういうのはまだ計画してないから、そんなに忙しくならないだろうって」
「水瀬は、まだ、って言ったんだろ?」
「う、うん……」
水瀬は将来的に自分の作った曲でライブに出ることを既に計画しているはずだ。そうじゃないなら、わざわざ人間のボーカルを引き入れる意味がない。良い曲を作りたいだけならこれまで通りボカロで頑張ればいいのだから。小雪というわかりやすいシンボルを自分の曲にくっつけて、様々なメディア展開をしていくことを企んでいるのだろう。
「水瀬みたいな奴の言葉を簡単に信じるべきじゃない。水瀬は、小雪がスカウトを承諾してくれればこっちのもんだと思ってるんだ。スカウトを承諾してくれるまでは都合のいいことばかり言って、いざ承諾してみたら聞いてた話と違うようなことをやらせたりするんだよ。水瀬は、そういう大人の汚い世界の住人なんだ。俺たちのバンドが小雪をスカウトしたときとは全然事情が違う。それはちゃんとわかってるのか?」
「わ、わかってるよ、ちゃんと」
小雪は、少し悲しそうな顔で俯く。
「水瀬は、俺たちみたいに甘い人間じゃないぞ。何の信念もポリシーもない、売れるためなら手段を選ばないような奴だ。そんな奴に本当についていけるのか?」
「……ねぇ、リョウくんは、なんで水瀬さんがそんな人だってわかるの?」
「…………」
「リョウくんは、水瀬さんの何を知ってるの?」
小雪が顔を上げて、俺の両目を射抜くように見た。
その瞳は、微かに震えている。
「……水瀬は、高校が同じだったから色々知ってるんだよ。そのときからお互いに作曲活動してたから、情報交換したりして……」
「高校の頃から付き合いがあるんなら、リョウくんもわかるでしょ? 水瀬さんは、リョウくんの言っているような人じゃないよ。売れるために、お金のために作曲をしているような人じゃない。水瀬さんはちゃんと信念とポリシーを持って、真摯に音楽に向き合ってる。リョウくんだって作曲してるんだから、水瀬さんの曲を聴けばわかるはずだよ」
「それは違う」
「どうして言い切れるの?」
「……あのな、お前は、いつだって甘いんだよ。社会のことを何も知らない。俺がバンドのリーダーとして、曲を作る人間としてどんな苦労を背負っているのかとか、想像したこともないだろ。信念とかポリシーとか、そんなふわふわしたもんでどうにかなるような世界じゃないんだよ」
「ねぇ、言ってることが矛盾してない? 信念やポリシーがないから水瀬さんのことが信用できないんじゃないの? リョウくんの言葉をそのまま解釈したら、リョウくんにも信念やポリシーがないってことになっちゃうけど?」
まずい流れだ。このまま問答を続けていればいずれ喧嘩に発展する。いや、もう既に喧嘩になっているかもしれない。小雪が素直に俺の言うことを聞いてくれないのも、俺が素直に小雪の言うことを聞かないのも、これが初めてのことだった。
小雪の中で、俺への信頼が揺らいでいる。俺よりも、水瀬を信頼しようとしてしまっている。
どうして、こうなったんだろう。
今まで約一年半、小雪と積み上げてきた時間は、こんなにあっけなく崩れ去るような脆いものだったのか。
小雪は本気で、俺の音楽よりも水瀬の音楽に魅力と可能性を感じているのだろうか。
俺のことが信じられなくなるくらいに、水瀬の音楽に魅了されているのだろうか。
——小雪も結局、その他大勢の大衆と同じだったのか。
俺よりも水瀬のほうが数字が回っているから。水瀬は、有名なクリエイターと共同でMVを作っているから。自分とそんなに歳の変わらない若い女性が、人に勇気を与えるような曲を精力的に作っているから。
そういう表面的な理由だけで音楽の価値を決めるような奴だったのか、小雪は。
「なぁ、小雪」
「なに?」
「水瀬がどうやって登録者数を伸ばしたのか、その理由を聞いたことはあるか?」
「いや、聞いてないけど。普通に、曲のクオリティが評価されたからでしょ?」
水瀬がどうやって人気になったのか。
確かに水瀬の曲の質は高い。それは俺も認めていた。高校時代、水瀬に手首の血を吸われた日に帰宅してから水瀬の投稿していた曲を聞いて、俺は素直に負けたと思った。水瀬は確かに俺よりも良い曲を作っていた。だから俺よりも数字が上回っているのは、単に実力がそのまま反映されているだけだと思っていた。
だけど、冷静に考えてみればそれでもおかしい。
ただの素人が投稿した曲は、いくら曲の質が高くてもなかなか数字は回らない。多くの人は曲の質なんかきちんと判断することはできないし、全くの無名の状態から質がわかる人に発掘してもらうのはよほどの運がないと難しい。それに、高校時代の水瀬は作品の質が安定していなかった。とにかく数を打つことを優先しているようで、たまに明らかに雑な作品があった。それでも当時、水瀬のチャンネルの動画は全て一万回以上再生されていた。
高校生が愚直に曲を作り続けているだけで、本当にそこまで数字が回るものだろうか。
「あのな、水瀬は——高校生の水瀬は、自分の人気のために自分の身体を売ってたんだよ」
「え……?」
小雪は、ぽかんと目を見開いて硬直した。
「水瀬は、自分が売れるために自分の性別を利用していたんだよ。今はどうだか知らないけど、最初に数字を伸ばしたきっかけは、それだった」
水瀬は、自分がそういうやり方をとったことを悪びれもせず、今も厚顔無恥に活動を続けている。小雪のような純粋な女の子を、自分の商売に取り入れようとしている。だから俺は、水瀬を許容することができない。
「……本気で言ってるの?」
数秒間ずっと同じ表情で沈黙していた小雪が、怪訝そうに言った。
「本気だ。俺はこの目で見たんだ」
「もし嘘だったら、私は一生リョウくんのことを軽蔑するよ」
「別に構わない。嘘じゃないんだから」
俺が自信たっぷりに言っても、小雪はなおも怪訝そうに眉を顰めていた。まだ嘘だと思っているらしい。俺が水瀬に嫉妬して、下らない虚言を吐いているのだと思っている。
小雪はもう、俺を信じてはくれないのかもしれない。
高校時代は負けていたけど、今なら水瀬に勝てると思っていた。だけど結局、久しぶりに見た水瀬のチャンネルの登録者数は俺のバンドよりも二万人多いし、小雪は俺の音楽よりも水瀬の音楽を選んだ。
俺は小雪に気づかれないように小さくため息を吐いて、立ち上がった。
「晩飯、まだだっただろ。買いに行こう」
コートを着込んで、小雪と二人で外に出る。二十四時間営業のスーパーで適当に売れ残りの惣菜を買い込む。その間、小雪はほとんど言葉を発さなかった。
小雪の心と繋がることができた感覚も、結局まやかしだったのだろうか。
音楽も恋愛も、真面目にやればやるほど裏目に出るだけだった。
今よりもっと前に、何もかも諦めてしまっていたなら、どれだけ楽だっただろう。
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