4 高校時代
元彼女兼幼馴染と水瀬が二人で話している場面をよく見かけるようになった。いや、そもそも幼馴染以外の誰も水瀬に話しかけようとしていないだけかもしれない。あの攻めた自己紹介のせいか無口な性格のせいか、水瀬は全クラスメイトから若干の距離を置かれていた。そこで幼馴染が、水瀬がなんとかクラスの輪の中に入れるように尽力しているというわけらしい。でも当の水瀬は、そんなお節介は望んでいないように見える。
その日の昼休み、俺は友人に食堂へ誘われる前に素早く教室を出て、旧校舎に向かった。木造の古びた旧校舎には人の気配がなく、新校舎に遮られているせいで日光が入らず薄暗い。階段をひたすら登って、屋上手前の踊り場で腰を下ろす。俺はポケットから小さな剃刀を取り出して、制服の袖を捲った。
慎重に、力加減を見誤らないように剃刀の刃を手首に押し当てる。そのまま、ゆっくりと刃を引いていく。すると、手首から赤い血の滴がぷくりと浮き出てきて、腕を伝って肘のあたりで、ぽたりと床に落下する。自分の中の意識が、熱い液体と一緒に手首から外へ出ていくのを感じる。ゆっくりと意識が遠のいていく。視界の端から徐々に暗くなっていく。耳の奥からキーンと耳鳴りが響く。壁に寄りかかって、目を閉じる。
リストカット。中学三年生の頃に始めて、高校二年生の冬に至るまで、俺は常習的にその行為に及んでいた。自死を目的とした行為ではない。血が滴る程度の浅い傷をつけて、ゆっくりと長い時間をかけて出血することで、眠るようにゆっくりと意識が薄れていく。五感が曖昧になって、自分と世界との繋がりが消え入りそうになるこの感覚がとても心地良くて、現実逃避をしたいときは学校であろうと関係なく、俺は自分の手首を切っていた。
「あ〜! やっと見つけた!」
階下から女の声が聞こえて、俺は薄く瞼を開いた。階段の下から水瀬がこちらを見上げていた。反射的に、まずい、と思った。リストカットをしているのがクラスにバレたら、面倒なことになる。
しかし、水瀬が俺の手首の赤色を確認して、なぜかニヤニヤしながらこちらに近づいてきたので、俺は動揺して何も言えなかった。
こいつはどうして、流血している人を見て笑っているんだろう。
「あはは。なにそれ、リストカット? 真島くん、意外とそういうキャラなんだね。おもしろ」
「いや、これは」
と、俺が弁解しようとしたそのとき、水瀬は流血した俺の手首を強引に掴んで、自分の顔に寄せた。
そのまま、ぱくりと、俺の傷口を水瀬の口が覆った。
「…………」
さっきまで意識が曖昧になっていたせいもあって、俺は咄嗟に反応できなかった。彼女の舌が、俺の手首を舐め回す。血液を余すところなく舐め取ろうとする。彼女の長い髪がしなだれかかって、俺の腕をくすぐる。目を閉じて俺の手首を吸う彼女の横顔は、確かに美人に見えた。
水瀬は口を離して、ごくりと喉を鳴らした。俺の血液が水瀬に飲まれた。俺の手首は、水瀬の涎によっててらてらと輝いていた。
「真島くん、人間の血液を無駄に垂れ流すなんてもったいないよ。世の中には真島くんみたいな健康優良児の血液を必要としている人がたくさんいるんだよ。リスカするくらいなら、ちゃんと献血に行ったほうが良いよ」
「…………」
「今日は私が飲んだから、真島くんの血液は鉄分として私の健康に貢献できるから良かったけど、今後はできるだけ自分の血を無駄にしないほうがいいよ。真島くんのためじゃなくて、世界中の病気で苦しむ人たちのためにね」
水瀬は自分の口元を拭いながら、早口でそう言った。そのまま俺の隣に腰掛けて、蒼白になった俺の顔を覗き込む。
数秒間、二人で見つめ合う。何か言うべきだと思ったが、喉に力が入らなかった。
すると、水瀬が不意に破顔して、
「あ、ごめん。急になんだって感じだよね。喜多川さんがしつこくてさぁ。逃げてきちゃったの」
とフレンドリーに話してきた。喜多川さん、というのは、例の元彼女兼幼馴染のことだ。
「喜多川さん、なんか真島くんのこと避けてるっぽいからさ、真島くんといれば喜多川さんは私に声かけてこないと思うんだよね。だから、しばらく一緒にいさせてもらってもいいかな?」
「……まぁ、うん」
頭がぼーっとする。視界の輪郭が定まらない。水瀬の声が頭蓋の中でぼんやり響く。
「真島くん、この前まで喜多川さんと付き合ってたんでしょ? 別れた直後だとやっぱり気まずいよね。同じクラスだと特に」
「……うん」
「クラスの人に聞いたんだけどさ、真島くんが不感症だって本当?」
「うん……え?」
「なんか喜多川さんがそんなようなこと言ってたって聞いたからさ、本当なのかなって思って」
「……どうでもいいだろ、そんなこと」
「え〜? 全然どうでもよくないけどなぁ〜。そういうの気になっちゃうんだよね、私」
水瀬がずいと俺に身を乗り出してくる。俺はそれに合わせて身を引いた。水瀬の表情に悪意は含まれていないように見える。本当に単純な好奇心だけで、そんな質問をしているのか。
なんとなく、水瀬が前の学校でいじめられていた理由がわかった気がした。
「……本当だよ」
「え〜! ほんとなんだ! 男の子なのに珍しいよね! なんで?」
「……なんで?」
「なんでそんな風になっちゃったんだろうなって。原因とかないの?」
しばらくの間、絶句する。
そういうことって、原因がない人のほうが多いだろう。ただの性的嗜好なんだから。大抵の人は生まれつきとかなんとなくとか、そういう答えになってしまう。
しかし、俺の場合は明確な原因がある。
その過去は誰にも話したことがなかった。もちろん、ほとんど初めてまともに会話をした水瀬に、その過去を話す理由はない。だから俺はすぐに、適当にはぐらかそうとしたはずだった。
「……母親、に」
「母親に?」
そのまま、俺は自分の口が動くままに任せて、母親との間にあった出来事について水瀬に話してしまった。自分でもなぜそんな判断をしてしまったのかわからない。ただそのときは、せっかくできた恋人に振られて、母親にはいつものように身体を求められて、投稿したボカロ楽曲の再生数も全然回らなくて、つまり何もかもが上手くいっていなくて、精神的に参ってしまっていたのかもしれない。だから、とにかく誰でもいいから自分の話を聞いてほしかった。水瀬に話すべきではないとわかっていながら、自分の弱さに負けて、頭の内に蟠る負の記憶を、心の赴くままに吐き出してしまった。
「へ〜。世の中にはそういうお母さんもいるんだね」
それが、俺の話を一通り聞いた後の水瀬の感想だった。一切何の同情の言葉もなく、水瀬は感心したようにそう呟くだけだった。
「そういえば真島くんさぁ〜、音楽作ってるんだよね?」
あまりの話題転換の振り幅に混乱する。俺は基本的に学校では音楽をいじらないし、吹奏楽部や軽音楽部に入っているわけでもないのに、どうしてそのことを知っているんだ?
「喜多川さんから聞いたんだよ〜。知ってると思うけど私も作曲活動してるからさ、良かったら色々情報共有しようよ」
「…………」
こういうとき、俺はどう判断をすればいいかわからなくなる。この界隈には、ろくに制作をしないのにむやみやたらに他人と繋がろうとする人が多くいる。基本的に創作活動とは苦しいもので、だから支え合う仲間が必要だ。その考え方自体は大いに結構だけど、自分の作品よりも人脈を誇るような奴は創作者として終わっていると思う。水瀬もそういう種類の人間だったらどうしようか。
「真島くんは、ユーチューブに動画投稿とかしてる?」
「……一応」
「ほんと? じゃあ私のチャンネル見てよ」
アプリを開いて、水瀬に言われた名前を検索窓に打ち込む。チャンネル名はアルファベットで「Minase」だった。本名をそのままハンドルネームにしている時点で、少し嫌な予感がしたのだが。
出てきたチャンネルの登録者は、一万二千人だった。
俺のチャンネルの、軽く十倍以上。
一瞬、喉から変な音がした。ずしんと胃が重くなって、口内が渇く。背中が一気に熱くなる。
動揺を悟られないように、少し長く息を吐いてから、俺はそのチャンネルを開いた。
投稿本数は二十五本。俺はこの前十五本目を出したところだから、投稿本数が多い分俺より登録者が多いのは当然かもしれない、と気休めに考える。しかし、動画一覧の画面を開いた瞬間、その気休めは完全に打ち砕かれた。
全二十五本の動画はどれも再生数が一万を越えている。中には五万回や十万回再生されているものもあった。登録者の数以上に、動画の再生数が回っていた。
俺の動画は、どれも一万回未満だ。一番よく再生されたものでも千五百回くらい。五百回を越えていれば良いほうだった。
それに比べて、水瀬は桁が違う。
俺と同世代のクリエイターで、俺よりも結果を出していて、企業から案件を貰っている人もいることは知識として知っていた。でも、同じ学校の同級生のクラスメイトが、ここまで結果を出しているなんて。
俺は、同世代の中なら結果を出しているほうだと自負していた。今のユーチューブは完全に飽和状態になっていて、現在人気のクリエイターのほどんどがニコニコ動画の時代から十年以上活動を続けてきた人たちだ。今更活動を始めた新参者が、圧倒的な実績とネームバリューを持ったその人たちに並ぼうとするのは無謀だった。この世界では、再生数の多さがそのまま動画の価値として捉えられる。投稿した三時間後に一万回以上再生されるほど人気の人は、動画の価値を保証されるからどんどん再生され続けるし、逆に投稿して一ヶ月経っても十回くらいしか再生されない動画は、動画の価値がそれだけ低いと判断されて、その先もずっと再生してもらえないままだ。このあまりに残酷な好循環と悪循環の差があるせいで、素人の高校生が作った曲を投稿したところで、百回も再生されないのが普通だった。全動画の再生数が二桁しかないチャンネルだっていくつも見たことがある。その中でも俺の動画はそれぞれ三桁以上再生されているし、四桁の動画もいくつかあった。
自分には才能があるのだろうと、傲慢にも思い込んでいた。このまま研鑽を続けていれば、いずれ毎回五十万回以上再生されるような凄腕クリエイターになるのも夢ではないと考えていた。
その幻想が、水瀬によって粉々に打ち砕かれてしまった。
「私のチャンネル、良かったら登録してほしいなぁ〜」
意味もなく、水瀬のチャンネルのページを上下にスクロールする。何度見てもそこに表示されている数字は同じだった。全ての動画に「〜万回」の表示がある。
信じたくなかった。
同じ学校の同じクラスに、俺より作曲が上手い奴がいるなんて。
「ねぇ、真島くん? 登録してほしいなぁ〜って。私も真島くんのチャンネル、登録してあげるからさ」
「えっ? あ、ああ」
言われるまま、俺は水瀬のチャンネルに登録した。登録者が一万以上あるので、俺が登録ボタンを押しても表示される数字が変わることはない。
俺のチャンネルを教えたが、水瀬は特に俺のチャンネルの数字に対してリアクションをすることはなく、流れるように登録ボタンを押した。登録者数の数字が、ひとつ増える。
「家帰ったら真島くんの曲聞いてみるね。真島くんも、私の曲聞いてね」
「……わかった」
そこで、うっすらとチャイムの音が聞こえていた。旧校舎には放送の回線が通っていないから、いつもチャイムの音が聞こえにくい。
「あとさ、私、正直喜多川さんのこと苦手だから、教室でもできるだけ私と一緒にいてくれないかな? 真島くんと一緒にいれば、喜多川さんは私にあんまり近付いてこないと思うから」
「……わかったよ」
「ほんとに? 嬉しい! ありがとう!」
水瀬は満面の笑みで、俺の手を両手で握ってきた。少し冷えた滑らかな指が、既に乾いた俺の手首を包む。
俺たちは自分のクラスの教室まで、手を握ったまま二人で歩いた。水瀬が手を離してくれなくて、俺も特に離す理由がないからそのままにしていた。話題は主に喜多川との恋愛事情についてだった。水瀬が喜多川を嫌っているようだったので遠慮なく喜多川の悪口を言えて楽しかった。作曲活動については何も話さなかった。俺が意図的にその話題を避けていた。
このときの俺は、自分が何もかもの選択を間違えていたことに少しも気付いていなかった。
ここで気付いていたとしても、もう遅かったのかもしれないけど。
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