六
「……水、清水」
ハッとして、顔を上げる。
倉庫作業に没頭していたら、声をかけられているのに気づかなかった。
慌てて振り返って、そこにいた店長に「すみません」と頭を下げる。
「大丈夫?」
かなり長く声をかけていたのだろうか。
店長が、いつも通りの不健康そうな顔に、微かに心配の色を滲ませている。
「いやぁ、全然、集中しすぎちゃって。問題ないですよ。どうかしましたか?」
「……何でもないなら、良いんだけども」
とんとん、と太い指で腕時計を示す。
「閉店時間だから……。今日ずっと倉庫にこもってたって、木村さんがね」
「あー、すみません……」
昨日の今日だ。考え込んで店舗に出ても使い物にならないだろうから、裏方の仕事をやらせて欲しいとバイトの面々にお願いしていたのだが、流石に一日中というのは拙かっただろうか。
しかし店長は「いや良いんだけどね……」と手を振る。
「別に俺も店舗には出られますし……でも、なんかね」
「はい……」
「……いや、やっぱ俺は向いてないね。何か問題とかあるなら、木村さんとかに相談してください……」
いつもは使わない敬語を使って、調子はずれに裏返りそうな声で、モゴモゴと店長は呟く。
気まずそうに。
所在なさそうに。
「……私、そんなに調子悪そうに見えますか?」
店長は、否定とも肯定とも取れない曖昧さで、首を傾けた。
「なんか今日は……怖い顔を、しているからね」
「怖い顔」
復唱しながらイメージしたのは、イライラして、他人に当たるようなクレーマーのおばさんの顔。
だが頷いた店長が付け加えたのは、違う言葉だった。
「何かに脅されてる……みたいな、怖い顔」
私も、店長と同じ角度に首を傾けてみる。
鏡合わせに、同じように。
「怖い顔、かぁ……」
わからなかった。
店長が何を考えているのか、私がどんな顔をしているのか。
やっぱり、形だけ真似ても同じではない。
「店長、このあと飲みに行きましょう」
誘いというには、少し断定的に言ってしまった。
店長は困ったように、面倒くさそうに頭を掻く。
「そういうの苦手なんだって……」
「ちょっと付き合ってくださいよ、どうせ帰ってもコンビニ飯でしょう」
「そりゃあ、そうだけれど」
「明日は店長休みじゃないですか。私も遅番ですし」
あくまで交流を避けようとする店長に、なぜ自分が勧誘しているのかも曖昧なまま、私は少し冷たく言った。
「店長、私のこと苦手ですか?」
唐突な言葉に驚いたように眉を上げて、小さい目をうろつかせる。
「人間は大概苦手で、やってきたからそりゃな……」
「私も人間は嫌いです」
「じゃあ、コミュニケーションとか、やめようよ。そういうものだっただろ……」
そのくらいが居心地良いよ、と。
互いに無関心だから今までやってこられたのだろうと、言葉にはせずとも突きつけられる。
そう、確かにそうなのだ。
それでも。
私は床にしゃがみ込んだまま、両腕の中に頭を落として呟いた。
「でも、誰かに愚痴らないと疲れちゃう夜ってありませんか」
こうしていれば店長の、思っていることをを正直に反映させてしまう、あの顔は見えない。
あくまで私を面倒に思うのか。
それとも珍しい弱音に驚くのか、気まずく思うのか。
なんにせよ彼は、諦めたように溜め息をついて「わかった」と応じた。
「駅前の適当なところで……明日に響かないくらいにな……」
「……ありがとうございます」
物音で、店長がバックヤードに戻ったのがわかる。
私も深い溜め息をこぼした。
「何やってるんだろうな」
迷走してばかり。
本を書くということは、自分を見つめるということで、自分を見つめるということは、己の空虚さから逃げられないということで、己の空虚さから逃げられないと人は……。
私に一色のような狂気はない。彼が本に対して見せるような執着を持てるものはない。
私に有紗のような鋭さはない。彼女が持つ世界を切り裂く青い感性と、怒りは私の中にない。
私に尾倉父のような愛はない。彼にとっての店と娘と妻の思い出のような、大切なものはない。
私に木村のような強かさはない。彼女のように明るくしなやかに、人生を楽しめたことはない。
私には何もない。
店長は、どうなんですかと、そう聞いてみたかった。
あなたは私と同じですよね。
何も選べず、何にも選ばれず、漫然と怠惰に生き疲れた日々を過ごすだけの、空っぽな人間ですよね。
「……なんで今、私を、心配したんですか」
同じだと思っていたい。
そうでないと、生きられないと思った。
────────────────────────
こんなに重苦しい席も珍しいだろう、賑やかな大衆居酒屋。
私たちはビールと適当なおつまみを間に挟んで、陰鬱な顔で向かい合っていた。
ああ、うん。同じだ。
少し安心する。
「……店長、人と飲みに来るのって何年振りですか?」
「飲み会はどうしても断れないと……思い込んでいた年齢以降だよ」
「いつからか断れるようになっちゃいましたよねぇ」
そう言いながら、乾杯もせずに私はビールを煽る。
店長も少しだけ口をつけた。
「店長、お酒苦手ですか?」
「家では飲むよ……」
「じゃ、無理に誘ったんじゃなくて良かったです」
「いや無理に誘われたけどね」
私は肩を竦めてみせた。
「なんで乗ってくれたんです?」
店長は少しの間押し黙って、しかし私がその間はなんだと問い詰めるよりは早く答えてしまった。
「……断った方が、面倒そうだったから」
「……あはは、確かに!」
百パーセントの真実ではなくても、まぁ五十以上の真実ではあるだろう。
「私、この歳にもなってメンヘラ女みたいですね!」
ほら最近流行りのジャンルの、といくつか漫画のタイトルを挙げれば、やはり気まずそうに店長は無表情をさらに深くする。
「そういう自虐は対応に困るな……」
「私今日、ずっとこんな感じですよ、多分」
木村や有紗と話している時に作る、妙なおばさんキャラクターの自分も、一色と話すときのぐちゃぐちゃな私もここにはない。
ただただ今は、自分に素直だった。
店長と話す時はいつもそうだ。
長い付き合いで、お互い人生終わってて、取り繕っても仕方がないから。
「……なんでそんな荒れてるの?」
枝豆を不器用に剥こうとしながら、店長が穏やかな口調で言った。
その声には興味なさげな、仕方ないから礼儀として聞いてやろうというような雰囲気はなく、じわりと私の両手に焦りが滲む。
店長は、茹できれていない枝豆をポンと諦めたように殻入れに放る。そこまで真剣になることじゃないというように、ゴミとして手放す。
そのくらいじゃないのかと、私は両の手をきつく握り締めた。
私のことだって、そのくらいに扱えるだろう。
私がそうあなたのことを、誰ものことを、扱えるのだから。
「私、小説を書こうと思ったんです。一色さんに誘われて」
ビールを飲み干して、勢いで言ってしまう。
酔いなんてまだ回ってはいないが、そういう名目が必要なのだ。
店長は驚いたのか、手を止めてこちらを見た。
「おぉ……思い切ったね」
「でも全然書けません。だって私、何もないから」
「…………」
「生まれてこのかた三十八年、まともに読めるような人生を送ってきませんでした。なんの経験もないのに枯れた大人にはなっちゃったから、想像力なんてものもないし」
「……まぁ……作家なんてすごい人たちだからねぇ」
「店長だったら、何書きますか」
俺も書くことなんてないよ、と。
そう言ってもらうことだけを期待した、最悪の問いかけだった。
私は店長を見下している。
軽蔑している。
自分より劣る人間もいると、不摂生な容姿や、コミュニケーション能力の低さや、ほんの数歳しか違わない年齢で、そう判断して安心しているのだ。
そういう外面的な情報付けで、自分と同じかそれ以下だと思って、安心を得ようとしている。
だがもう、なんとなくわかっていた。
そんなふうに考える私は、店長の様子を伺ったことなんて一度もなかった。
体調が悪いと聞けば不健康な生活しているから、と思うだけだ。
不機嫌な顔をしていても、中年ってのはそういうものだよなと深く考えたりなんてしなかった。
しかし店長は、私にチョコレートを投げ渡す。
怖い顔をしていれば、木村さんに相談しな、と声をかける。
木村の名前を出すのは、自分が逃げるためではなく、むしろ私と自分を正視した結果に、彼が出した最適な判断なのだろう。
人間性の決定的な違いがそこにあると、もう、ちゃんとわかっていた。
それでも最後の希望のように、聞かずにはいられなかったのだ。
同じであってくれ、と。
店長は長い間悩んでから、短く答えた。
「俺は書かないよ」
「……書くとしたら、です」
「書けって言われても、書かないかな……」
そう言いながら、のんびりビールを啜る。
シュワシュワと弾ける炭酸に、青いクリームソーダと黄色のビールは補色だななんて、宙に浮いた気付きが浮かぶ。
有紗と店長は……尾倉有紗と熊谷晃は、正反対にいる。
「俺も書くことなんてないから……書きたいなんて思わないよ」
そして多分、正反対とは、同じを意味する。
私は緑色。
中途半端だった。
「……小説家になりたいと思ったこと、ないんですか?」
「昔はあったかもなぁ……。でも読む方が好きだよ……」
「何者かになりたいとか、ないんですか」
熊谷晃は驚いたように答えた。
「もう、なってるよ」
それは彼にとっては当然のことだったのだろう。
「別に本を書かなくたって、清水は、清水だろ……」
やはり、清水唯と熊谷晃は同じ人間ではなかった。
彼はちゃんと、自分の内側を満たしていた。
堅く作り上げられてしまった球体、その内側の渦や揺らぎに私は苦しめられる。
だが波が起きるのはなぜか。
空洞があるからだ。
核まで堅く詰まっていなくても、ちゃんと液体が満ちていれば、渦が起きても穏やかな循環が起きるだけだろう。
球体にならない、尖った人間は特別で面白い。
そんな特別でもなく、面白くもない人間たちが蔓延る世の中で、何故みんな私のように激しく揺らがないのか不思議でならなかった。
いや、みんな揺らいでいるのを押し隠しているのだと思っていた。
思っていたかった。
だが現実は非情で、答えは簡単なところにあった。
球を割ってみればすぐにわかることだったのだ。
私は何も、自分の中に何も注ぎ込めなかった。
みんなはそれぞれ何かを注ぎ込んで、安定していくのだろう。それは例えば与えられる愛情で、与える慈愛で、学問や教養で、趣味への意欲や関心で。
店長は、熊谷は、そんな何かを経年と共に球体の中にしっかり注ぎ込んでいたのだ。
私は。
外側だけ歳を食って、まるで中身は思春期の子供のよう。
恥ずかしい存在だった。
ここのところ何度も何度も痛感させられている。
私は浅ましくて、恥ずかしくて、醜い人間だ。
私ほど酷い人間は滅多にいない。
「あー……そう、ですよね……」
呻いて、テーブルに突っ伏す。
「そう思えるようになれれば……良かったんだ……」
「…………」
店長は何も言わなかった。
何も言えなかったのか、それとも私に悔恨の時間をくれたのか、どちらにせよ今の私には助かることだった。
そのまま、長い時間が過ぎたと思う。
明日店長が休みで良かった。
明日も顔を合わせるなら、気まずくってしょうがなかっただろう。
一時間ほども経ったかもしれない。
机のものが綺麗に片付いて、それまでずっと私を放っておいてくれた店長が「そろそろ帰りましょうね……」と、また似合わない敬語で声をかけてくれる。
「……すみません、ありがとうございました」
「別にね……」
適当に会計を割って、「やっておくよ」との言葉に甘えて狭いレジスター前から外気に出る。
夏の夜風は温い。
頬を過ぎる風に目を閉じて、何も見ないふりで汚い街に私はただまっすぐ立っていた。
「あれ、清水さん?」
幻聴かと思った。
今一番聞きたくない声に、慌てて目を開ける。
「……こんばんは、一色さん」
仕事帰りなのだろう、少し疲れた様子の彼は、それでもいつも通りの笑みを浮かべた。
「こんばんは、飲み会ですか?」
「……そんなところです。ちょっと、飲み過ぎましたね」
誤魔化すように笑って、本当はビールの一杯しか飲んでいないことを思い出して、少し本気で笑ってしまう。
「一色さんは、どうして?」
「あぁ、最寄りなんです」
確かに近くに住んでいるとは言っていたが、そこまで近いとは思わなかった。これまでもどこかですれ違っていたのだろうかと、不思議な気分になる。
会計を終えた店長が店から出てきて、それから一色を見てぎょっとしたように足を止めた。
「あ、お久しぶりです、熊谷様」
にこりと笑う一色に、店長は無愛想に返す。
「ええ……」
「昔、一緒に企画展とやったことがあるんですよ」
一色が説明するように、私の方を向いて言う。
確か、この明瞭じゃない記憶に間違いがなければ、店長は一式と知り合いではないとは言っていたはずだ。
嘘を吐いたな、と店長を横目で睨む。
「別に知り合いじゃないとも言ってないから……」
店長は言い訳のように顔を背けた。
そのやり取りで察したのだろう、一色が苦笑を浮かべる。
「私、熊谷様に嫌われてましたもんね」
「……そういうわけじゃ」
「別にいいんですよ。展示は上手くいったんですから、全く気にしません」
「この人、誰のことでも嫌いなんですよ」
私が笑い話のようにそう言えば、「良いですね」と一色はそれを肯定した。
「誰のことでも好きな人より、信用できます。個人的感情を仕事に挟まないという点でも好感は持てますし」
「……そうやって分析しても、何も出ませんからね……」
店長は不機嫌にそれだけ呟くと「じゃあ」と足早に店から立ち去ろうとしてしまった。
「え、ちょっと」
追いかけようとして、同じ電車に乗りたくもないなと足を止める。
そのまましばらく立ち尽くしてしまった。
「……どうしました?」
一色が案じるように、私の顔を覗き込み、そのまま少し固まる。
一色の表情に空白ができたのを見て、私は自覚した。
ああ、私はきっと今泣いている。
「あはは……飲み過ぎましたね」
この人に泣き顔を晒すのは二度目だ。
大人になってからは、泣くことなんてほとんどなかったというのに。
「どこかで休まれますか?」
一色の手が気遣うように背に置かれる。
「遅くまで開いてる店もいくつかありますから……」
「……いえ、明日、仕事なので」
私は首を横に振って、ふっと身を離してからぺこりと頭を下げた。
温く感じていた夜風は、今は冷たく思えた。
涙で体温が上がったのだろうか。
「ご迷惑おかけしました。また、今度改めてご連絡します」
「……そうですか、ではまた。お気をつけて」
彼はそれ以上何も言わなかった。
駅に向かって歩き出し、カツカツと自分の靴音にだけ意識を傾ける。
かろうじて底があるような、何年も履き潰してぺったんこの靴。
昔はもっと高いヒールを履いて、背筋を伸ばして雑踏を歩いていなかっただろうか。
いや、そういうものすらテンプレートという幻影で、私にそんな若かりし頃はなかったかもしれない。
美しき少女、青年時代。
そんなものは一度だってなかった。
その方がしっくりとくる。
私は何もなく生きてきた。
では、この先は?
ただカツカツと、音だけが残る。
私の後ろ姿は、一色の目にはどう映っていただろうか。
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