本を書こうとするのは随分久しぶりだった。

 昔は何を書いていたのだったか、とベッドに寝転びながら、ぼんやりと思い起こそうとする。


 高校生の頃は文芸部だった。部誌を発行していたのだから、当然私も何か書いていたはずである。何かデータでも残っていないだろうか。

 PCのフォルダをいくつか開いてみようとして、「あるわけないじゃん」と思わず口に出す。


 当時は個人でノートパソコンなんて持ってもいなかったし、手書きのものを、学校のPCに打ち込んで印刷していたはずだ。

 思わぬところで時代と加齢を感じてしまう。


「……実家に置き去りだろうな」


 帰って探してみようかと思って、すぐに考え直す。

 親と顔を合わせたらきっとまた小言を言われるだろうから。

 結婚、子供、仕事、実家に帰って来なさいよ。

 今の私なら全て無視できるだろうと思えたが、それでもやはり億劫に思えた。

 高校の友人、例えば元部長なんかに連絡をすれば、部誌を持っているかもしれない。


 どうしようかと迷って、結局何もせずにスマートフォンをどさりとベッドに落とす。

 思い出せもしないようなかつての小説なんて、どうでも良い。

 どうせ大したものではなく、私の中で価値を失ったから、私に忘れられたんだろう。


 ちらと時計に目をやって、まだ二十一時かと確認をする。

 明日は土曜日。

 私だけでなく、大概の人間が休みだろう。

 私は少し迷ってから、メッセージアプリを開いた。


 一色千里、と生真面目にフルネームで登録されたアカウントが一番上に表示される。電話とメールだけでは不便だろうから「何かあれば」と、この前の別れ際に交換したのだ。


 それ以外にはバイトの休み報告と、時折家族や元友人から来る時候の挨拶という名の生存確認しかない、無機質なメッセージアプリ。


 私は何をアイコンにしたら良いのかもわからず、適当な旅行先の写真にしていたが、一色は何も設定していないようで、初期のアイコンのままだった。


「やっぱり人間っぽくないんだよな……」


 ポツリと呟く。

 我ながら軽率なことに、以前まで彼に感じていた警戒心や嫌悪感は、あの倒錯的な会話と彼への優越感でさっぱり無くなってしまっていたのだが、かといって、そうして人間として接したところで、やはり端々には違和感のある男だ。


 死神。


 一人の部屋でも、声に出しては呟けなかった。

 同じ人間と思うには狂気的で、しかし人間をよく知り、人間の運命を動かす存在。

 そう思っているのだと本人に言ったら、どんな顔をするだろうか。

 そんな馬鹿な想像をしつつ、私はメッセージを打ち込んだ、


『夜分にすみません、今お手隙ですか?』


 いつ頃返信が来るだろうかとスマートフォンから手を離しかけて、しかしすぐに着信音がなったので慌てて画面をもう一度開く。


『ええ、大丈夫です。何かご相談ですか?』


 七つも歳が違うのだ。

 そこには当然ジェネレーションギャップがあって、若い人というのは誰でも、こう返信が早いものなのかもしれない。

 それでもどこか安心したような、嬉しいような気分だった。


『小説、書こうとはしているのですが題材で悩んでいて……。こういう案出しとかって作家さんはどうやってされているんでしょう』


 既読から少し間が空いて、またすぐに返信がつく。


『清水さんはそもそも書きたいジャンルなどは決まっていますか?』

『なんでしょう……普通の現代小説と言ってしまってはそれまでですけれど……』

 ミステリーやファンタジー、時代物などを書きたいという気持ちはないし、知識もないので書けるとは思わない。

『本を書きたいというのは漠然とした思いで、何か明確にこれと言ったものがないのかもしれませんね……』


 自分の空っぽさが暴かれていくようで、居心地が悪かった。

 何者かになりたかっただけで、何かがあったわけではないから今の自分がここにいるのだから、急な思い立ちでそれが変わってくれるはずもない。


 返信の間が随分空いて、底の浅さがバレたかと胸の奥が気持ち悪くなってくる。

 しかし一分ほど置いて一色が返したのは、失望の言葉でも責める言葉でもなかった。


『僕は私小説的な作品が好きです』

『作者の為人が知れるので』


 二件続けて送られてきたメッセージに、一瞬何を意図しているのだろうと迷って、それから彼の傲慢さに声をあげて笑ってしまった。


 この男、自意識が過剰、ではなく正常なのだ。

 あくまで自分が言ったからこの女は本を書くのだと、それをはっきり認識して、認識していることを隠そうともしない。


 自分と同類だと私を思い込んでいてもなお、いやだからこそか、私が、彼がために本を書くのだということに疑いがないのだ。


 そしてそれは事実でもある。


『一色さんはそういうものが読みたいんですか?』


 半分意地悪のつもりで尋ねる。


『はい』


 返答は簡単だった。


『まぁ、どんなジャンルでも、作者の両目というレンズを通した脳から生まれる以上、私小説的にも読めるのですけれどね』

『私の人生を書いても、別に面白いことはありませんよ』

『そうでしょうか。人間誰しも、面白い部分の一つや二つあると思いますよ』


 私に面白いところがあるとは、彼は言わなかった。


『一色さんは正直ですね』

『それは良い意味ではないような気がしますね』


 画面の向こうで、彼は今あの困ったような顔をしているのだろうか。それともいつも通り、淡々とした微笑みで私の発言を観察しているのだろうか。


『四十路女の独白って、需要あるんですかね』


 どうせなら究極まで困らせてやろうと、わざわざいう必要もない自虐めいたメッセージを送る。


『今の人生に面白いことがあるわけでもありませんし、これまでもなかったからこんな今があるわけですし』

『需要ですか。単純にその面で捉えるなら、あるとは思いますよ。読書に割く時間や精神的な猶予があり、また人生に変化を与えるかどうかを迷う局面の年代だと思いますから』

『私が小説を書き始めようと思ったように?』

『何かを変えたいと思うのは人の常であるようで、踏み切るには固い地面が必要ですからね』


 ふと、一色は自分より歳上の女に対して人生論を語ることを、どう感じているのだろうと気になる。形式的には礼儀正しい男だが、どこか年齢不詳な彼のことだ、歳なんて本質では全く気にしていないのかもしれない。


 もし有紗に対してもそう接しているなら。

 子供扱いせず、対等に話してくる大人という存在は、なるほど背伸びしたい年頃の少女には魅力的だろう、と勝手に納得する。


『僕程度の歳ですと、仕事も生活もまだ安定させるのに必死ですから、新しい物事や変化はまだ望みません。逆にもっと若い頃には、変化したくてもできる資本、金銭や自由がなかった。清水さんも、そうではなかったですか?』


 問われて、確かにそうだなとあっさり納得する。


 十代の私は夢を持っていたが無力で。

 二十代の私は生きるのに夢中で。

 三十代の私は自分を見定めるのに必死だったように思う。

 生き疲れたと、そんなある意味では余裕とも思える思考の隙間が生まれたのは、つい最近のことだった気がする。


『確かに、おっしゃる通りです。一色さんはお若いのに、その先のこともわかっているようですね』


 ただ感想として打ってから、嫌味っぽかったかと眉を寄せる。

 困らせてみようとは思ったが、悪意があるわけではないのだ。

 何がこんな矛盾した、子供じみた言動を私にさせるのか、私自身でもわからなかったが、それでも嫌に受け取られたくはないと思えた。

 スッとすぐに返信が表示される。


『僕の思う加齢が、想像に過ぎないものだとは自覚していますよ』


 やはり嫌味だと思われただろうか。

 弁明を打ち込んでいるうちに、しかしもう一つメッセージが届いた。


『ですが、主観が常に正しく、客観が常に現実とずれているということもないと思うのですよね』

『なるほど?』


 書きかけた文面を取り消し、先を促す。


『僕にそう見えているならば、それは単純に僕の視点の幼さである可能性もありますが、当事者の自覚の鈍さであるかもしれない。何にせよ、僕は僕自身を見るときに、僕の視点から離れたいんです』


 その言葉は少し逸れていたが、彼の本質部分に微かに触れられたような気がして、私は何も送らずに次の言葉を待った。


『まぁ、ですから、僕は貴方が見た貴方の世界を知りたいんですよ』


 一色も話題の逸れに気づいたのだろう、軽い調子でまとめられてしまった。

 惜しかったな、と思う。

 思って、そんなふうに思った自分に驚く。

 清水唯はそこまで一色千里に興味を持っていたのか。


「貴方の世界が知りたい、か」


 画面をなぞって呟いて、もし自分があと十歳若かったら、こんな言葉に舞い上がっていただろうとぼんやり思う。

 そのくらい深く、一色は安定していたはずの私の世界に入り込んでいた。


 あと十歳若かったなら。

 そんなことを思った時点で今の自分だって舞い上がっているのだ。


 それを行動に移さず、勘違いをしないだけの理性と良識が備わったというだけで。

 ぽつぽつとメッセージのやり取りを続けながら、それならお前のことを本にしてやろうかと、そんな復讐めいたことをぼんやりと考える。

 バンドマンが恋人や元カノを歌にするように。


 ただの数回会っただけで、そんなことができるほど私はまだ一色を知り得てはいなかったが、それでもそれは私の安穏な人生を掻き乱した彼への良い意趣返しであるように思えた。


 ……別に、一色は何も悪いことをしてはいない。

 私の目の前に座って、話して、自分を偽らなかっただけだ。

 それでも私には彼の言葉のひとつ、表情のひとつ、どれをとっても恨めしく感じられた。


 四十路女の人生を、その気もなくめちゃくちゃにしてしまう若い男の話でも書いてやろう。どこにでもいくらでもある、レディースコミックのような、そんな。


 彼はそれで失望するだろうか?

 どんな顔をするだろうか?

 そういう惨めな復讐心のその陰に、私はある感情をこっそりと自覚していた。


 狂気の孕む、圧倒的な魅力。


 月の光は女を狂気に陥れるというが、それを思わせるような、やわらかでしかし強い怪しい光のきらめき。


 一色千里は被写体として魅力的だった。


 優れた容姿があるわけではなく、華やかな言動で人を惹きつけるわけでもないが、その内側の確かな狂気は、私に書きたいと思わせるに十分な光量を発していた。


 つまるところ、私は、初めのあの時から彼に魅了されていたのだ。


 しかしまだ気づいてやりはしない。

 なけなしの矜持が、私に私を保たせる。

 本を読みたい彼と、本を書きたい私。

 本を間に介さないものを認めることを、私は私に許さなかった。

 

──────────────────────── 

 

 翌日、私は尾倉カフェの扉を開いた。

 レジ横にいた有紗が、以前より少し和らいだ表情でぺこりと頭を下げる。


「おはよう、有紗ちゃん」


 私はニコッと、できる限り明るく笑って、手を振った。

 慣れないことをして、笑顔が引き攣っていなかった自信がない。

 有紗は少し驚いたように目を瞬かせたが、以前のようにキッチンに逃げ帰ることはなかった。

 一色との間に何もないと知って、敵対心を緩めてくれたのだろう。


 そう考えて、ふと今の状況はよろしくないのではないかと、今更ながら思い至る。

 あの瞬間は嘘をついていなかったが、一色と個人的な関わりを持つようになった以上、今は彼女に嘘をついていることになるのではないだろうか。


 知られることはないだろうとは思うし、なんら倫理に反した何かがあるわけでもないが、それでも後ろめたくて彼女には隠し通そうと決める。

 情けない大人だと思った。

 全て、中途半端。


「有紗ちゃん、この前は急に話しかけちゃってごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げて謝ってみれば、彼女は首を横に振る。

 相変わらず少ない表情だったが、これに関してはむしろ彼女も申し訳なく思ってくれているように見えた。


「今日は何にしよっかなぁ」


 わざとらしく声に出してメニューを覗き込む。

 前回通り奥まった席に案内してくれていた彼女は、そんな私をしばらく見つめていたが、ふっと一つのメニューを指さした。


「クリームソーダ?」


 有紗がこくりと頷く。

 おすすめなのだろうか。

 彼女なりに頑張ってくれているのか、父親から何か言われたのかはわからないが、私は思わず笑顔になっていた。


「ありがとう、じゃあクリームソーダと……平仮名の方の『おぐらトースト』で!」


 有紗はまた頷いて、それからぺこりと頭を下げると足早にキッチンへと向かっていった。

 いつも通りの二つ結びが揺れていた。


 冷静にみれば、年頃の少女だ。

 何もおかしなところなどない。

 あの秘密めいた微笑みは、恋する少女特有の無敵感なのだと、そう思う。


 そういえば書評を書いたあの本にも、秘密を持つ少女は艶かしいものだという一文があった。

 なるほど、恋が有紗をああさせるのだ。

 そう思えばむしろ可愛らしいものではないか。


 私にそんな熱情の思い出はないが、それでも恋をしていた同級生が随分大人びて見えたのは覚えている。実際、化粧だなんだで大人びていた部分もあったのだろうが。

 ことりとクリームソーダが置かれ、顔を上げれば、トーストの皿を置きづらそうに傾けている有紗の姿があった。


「あぁ、ごめんね!」


 慌ててPCを閉じ、机を広げる。

 今日の『おぐらトースト』はピザトーストのようだ。

 古典的なクリームソーダの緑色がよく映えて、仕事場のつもりだった机が途端に愛らしい空間に変わる。


「クリームソーダ、綺麗ねぇ。選んでくれてありがとう」


 素直に伝えてみれば、有紗はまた無表情で小さく頷く。

 それから少し迷うように後ろを確認して、ポケットから取り出したメモにサラサラと何かを書きつけた。


『お父さんに私のこと、何か言われたの?』


 さて、どう答えるのが正解だろうか。

 考えようとしてすぐに、確信があるからこそ彼女はこう訪ねてきたのだろうと思い至る。

 あの父親だ、隠し事も下手だろうし、心配する気持ちに至っては隠す気もなさそうだ。もちろん隠す必要などないのだが。

 それならばここで嘘を吐くことは、彼女からの信頼を損なうことになるだろう。


「うん、仲良くなって欲しいって、頼まれたわ」


 小声で、内緒話のように答える。


『じゃあもう来てくれなくて良い』

「……おばさんが来るのは嫌?」

『嫌』


 それはまっすぐな拒絶だった。

 こんなことは久しぶりで、頭がぐわんとするような衝撃を受ける。

 あぁ、大人になってからは遠回しな言葉ばかりの世界にいたのだ、少女の純粋さは刺激が強すぎる。


「……うーん、でもおばさんも有紗ちゃんのこと心配だし、このお店のことも好きだからなぁ。どうして嫌なのか、教えてくれる?」

『要らないから』


 彼女の筆致は徐々に激しく、書き殴るようなものになっていた。

 怒りすらも滲んで見える。


『心配なんて要らないし、母親代わりなんてもっと要らない』


 あっ、と気付かされる。

 尾倉父は、この年齢の女性客が少ないと言っていた。

 その時は不思議にも思わなかったが、本来なら主婦層なんてのはカフェのメイン客層のはずだ。

 なぜその年代が少ないのか。

 有紗が拒絶していたのだと、ようやく、今になって気が付く。


「有紗ちゃん」


 ふぅと息を吐き、私は両手をそっと有紗の手の上に置いた。

 手を塞がれた彼女は何も書けない。言えない。

 ずるい状況にしてしまったとは思いつつ、これが親愛として伝わることを祈った。


「私の名前は清水唯。ただのしがない書店員で、あんまり面白いこともないおばさんだけど、有紗ちゃんが困っているのならね、あなたのお友達になりたいの」


 困ってない、と言うように彼女は首を横に振る。

 しかし私は動じずに言葉を続けた。


「お父さん、あなたのことを心配してるわ。だからね、騙しちゃいましょう」


 ふっと彼女が目を見開いて、握った手首から抵抗の力が抜ける。


「私と仲良くできてるところ見れば、たとえ声が戻らなくても、学校に行かなくても、お父さんも少しは安心できると思うわ。お父さんのために、演技してみない?」


 あれほど娘思いの、妻思いの、家族思いの父親だ。

 やり方や思いの方向のすれ違いはあれど、娘の有紗にも父を思う気持ちはあるだろう。

 そっと手を離せば、有紗は迷うように手をメモの上でゆらつかせる。


「そのためにね、私から有紗ちゃんに一個、絶対の約束をするわ」


 後押しするように、小指を立てる。


「私は有紗ちゃんからも、有紗ちゃんのお母さんからも、居場所を奪わないよ」


 有紗の拒絶はこのためだったのだろう。

 少女の黒い目が、泣き出しそうにゆらゆらと揺れる。

 彼女は、父と母の作ったこの店に、家族の店に、他の女が入ってくることが娘としてたまらなく嫌だったのだろう。


 二年も経ってしまったから、自分の中ではまだ二年しか経っていないのに、もしかしたら父も新しい女の人と親しくなるかもしれない。娘の、自分のためだとか思って、母親を探すかもしれない。


 それが彼女は嫌だったのだろう。

 だから遊びたい盛りか、そうでなくても家業の手伝いなんて御免被りたい年頃だろうに、店員としてカフェに張り付いて、ずっと父親のそばを離れようとしなかった。


「どうかな、有紗ちゃん」


 有紗はしばらく無言でメモを見つめていたが、やがって決心したかのように強い字で書きつけた。


『わかった、約束』

「うん、約束ね」


 そう言って、互いの小指を絡ませる。

 有紗の肩越しに、心配そうにこちらを見遣る父親の姿が見え、私はそれとなく微笑んでみせた。

 大丈夫、と。


「有紗ちゃん、もしよかったら、このまま一緒に少しおしゃべりしない?」


 言いながら『お父さんが見てる』とメモに書きつける。

 有紗はぎゅっと顔を顰めて、仕方ないと言うように頷いた。

 そのまま一度パタパタとキッチンに戻って、クリームソーダを、青いクリームソーダを持って席に帰ってきた。

 それからメモよりも大きめなノートを机に広げた。


「あら綺麗」


 私がそう零せば、彼女は少し自慢げに微笑んだ。


『特別メニュー』

「ふふ、素敵ね。お父さんが作ってくれるの?」

『クリームソーダは私の担当』


 長いスプーンでくるくると、白いアイスを鮮やかな水色の中に溶かし込んでいく。

 シュワシュワと軽やかな音が耳に心地よかった。


「綺麗ね。私、クリームソーダって随分久しぶりに飲んだわ」

『そうなんだ』

「大人になると、美味しかったものも忘れちゃうのね」


 学生時代、友人と駅前の喫茶店で永遠とも思える時間を過ごしていた頃のことを、ぼんやりと思い出す。

 こんな緑のクリームソーダを、テストがあったとか、体育がだるかったとか、そういう子どもらしい特別な日に飲んでいた。


 良い時代だった。


 今はもう、年賀状の付き合いしかない友人たち。

 クリームソーダの味も、いつの間にか忘れていた。


『つまらない大人』


 有紗の辛辣な一文に、「そうねぇ」と私は苦笑をこぼす。


「大人になると、つまらなくなっちゃうのよ」

『大人のせいじゃないよ。あなたのせい』


 少し、どきりとした。


『お父さんもお母さんも面白い人間だもの。千里さんだって面白い。あなたがつまらないだけ』


 じっとその文面を見つめて、それから順に有紗の顔を見上げる。

 彼女はいつもの能面で、そこに悪意は見て取れなかった。

 私のことが嫌いだから言うのではない。

 彼女はただ、まるで真実を伝える義務が自分にはあるのだと言うような、そんな態度だった。


「……そうね。おばさんがつまらないだけかも」

『そういうところだよ。なんで自分のことおばさんって言うの?』


 そういうところだよ、か。

 あなたも二十年後にはこうなるんだよ、と意地悪を言ってみたくなる。

 ならないほうが特別なのだ。


 この世にありふれているのはつまらない大人の方で、有紗が目にしているような、自分の店を持ったり、芸術家だったりする人間はごく一部、一握りの特別な人たち。

 有紗は言い足りなかったのか、ノートに再びペンを走らせる。


『あなたは自分を主張しないで、むしろ自分を一般化する。だからつまらないんだ。おばさんじゃなくて、清水唯さんなんでしょ』

「……難しいこと言うわね?」


 彼女の言っていることの意味はわかる。

 別に字面ほど難解なことではないし、自分の人生の中で痛いほど実感していることだ。

 ただ、自分を一般化しないことの難しさが、青く強い彼女にわかるだろうか。


「私は確かに清水唯だけど……そうである前に、書店員で、四十路の女で、やっぱりおばさんなのよ。主張できる個性なんて、そういう言葉で説明がついてしまう範囲にしかないわ」


 有紗が渋面を作る。


『じゃああなたは書店員の四十歳のおばさんで良いの?』

「それで良いなって、思うようになっちゃった」


 二十八歳の時に三十歳と言われたら、まだ二十代ですよと言い返していたかもしれない。

 だが今はもう、そうしない。

 そうやって慣れて、馴染んでいくのだ。


『あなたはそれで良いの?』


 クリームソーダをイライラとかき混ぜながら、有紗はもう一度そう書き殴った。

 私、クリームソーダは混ぜない派だったな。

 混ざらないままのメロンソーダを飲んで、私はのんびりと微笑む。

 メロンソーダは、メロンの味はしない。


「どうでも良くなっちゃった」


 良い悪い、ではない。

 どうでも良いのだ。

 そういうことにいちいち悩んで、努力なり工夫なり何か行動して、時には誰かや何かに噛みついて、そうやって真剣に物事に向き合うことに疲れてしまったのだ。

 それすらも悪いことだとは思わない。

 だって生きるって、そういうことでしょう。


『私、自分のことよりあなたのことの方が心配』


 有紗にそう書かれて、少し驚く。


「そう? みんなこんなもんだと思うよ」

『アイスみたいに溶けて消えちゃいそう。私、もしあなたの友達になっても、街中であなたを見つけられない』


 随分詩的な、文学的な表現だと思った。

 何かが引っかかりそうで、そのままするりと通り抜けていく。


『私は“母親が早逝した可哀想な女子高校生”になるのが嫌だから学校に行かない。制服を着ないの。可哀想と思われたくもないから、泣き暮らしたり暗い顔したりなんかもしない』

「……頑張ってるのね」

『これは頑張ってるんじゃない。自分の尊厳を守るための、当然の行為だよ。誰かの食い物にされないための』


 有紗は強い言葉を書く。吐く。

 それでも一番に、私のことを心配だと言った。

 皮肉や嫌味の一種だったのかもしれない。しかし私の目には、それは彼女の誠実さ、真剣さとして映った。


「食い物にされる、か」


 つまりは、一色の言い方にすれば養分になる、ということ。

 誰かの養分にされることを、私は少なからず受容した。


 本を書くという選択を一色に示したとしても、それは私だって違う立場を味わいたいと思ったからというだけで、誰かが誰かを養分にする食物連鎖から外れようとしたわけでも、そういった連鎖を否定したわけでもない。


『あなたからでも、親戚やお父さんからでも、憐れまれるのは嫌。誰かのことを可哀想だと思って、自分をマシだと思って、それで自分の人生を頑張ろうと思うような動機にされたくない』

「そんな悪く受け取らなくても……」


『人間が無意識にやっていることは全部悪だよ。声の出せない娘のためだからお父さんは頑張って、自分の悲しみとかを後ろに置いて見ないようにして、毎日ああやって笑ってるの。私のために私のためにって、そうやって思考停止して、いつか”私のために”が”私のせい”になって押し潰される。勝手に私を動機にしたのに』


「例えそうなっても、誰もあなたを責めないよ」

『責められなくたって私にはわかる。言葉にならないことはなかったことになるの?』


 強い感受性。

 無敵の思春期。


 ああこれを若さでまとめてしまうのは、彼女が嫌う一般化で、決してやってはいけないことだろう。

 だがどうしてもそう思ってしまう自分がいる。

 それは、そう思いたいからなのだろう。


 そうでも思わないと、今の自分が惨めになってしまう。


 かつての私は彼女のように思っていたのではないか。


 いや、そうやって年齢で同じように感じていたと思い込むのも、また一般化であり、彼女の言葉への冒涜なのではないか。


 もう遠く、思い出せない私の少女時代。

 その時私は何を感じ、何を考え、何のために生きていたのだろう。

 有紗のように強く、命を生きていただろうか。


 手をつけられないまま冷め切ったトーストや、混ぜられるだけでちっとも減らない有紗のクリームソーダ。


 何も言えない私。

 何も言わない有紗。


 彼女の言葉が積もっていくそのノートだけが、そこに書き連ねられた言葉だけが、この空間で命を持っているように思えた。


「……有紗ちゃんは、一色さんは特別だって言ったよね」


 有紗が恋したあの男は、この彼女のまっすぐさに何を返したのだろう。

 あの男だって私のように、いやもしかしたら私以上に、社会や人間の退屈さと、食う食われるで作られる世の中の仕組みを受容しているはずだ。


「どうして、あの人は特別だったの?」


 有紗はなぜ一色の話をというように少し眉を寄せたが、そのまま短い回答を書きつけた。


『あの人は私の表面に興味ないの』


 それは意外な理由だった。

 何か、特別な何かが“ある”のだと思っていたが、“ない”ことが特別になり得たのか。


「興味がなくって、特別なの?」

『声が出ないと知っても、お父さんから私の事情を聞かされても、何も変わらなかった。「そうなんですか」って、それだけ。そんな人は初めてだったから』


 ふっと、初めてこの店に来た時のことを思い出す。

 有紗のことを声が出せないのだと説明した一色は、気にしてもいないと言った私に、良かったと微笑んだのだった。


 あの時、あの言葉と笑みの意味が私にはわからなかった。

 だが本を書かないかと彼から言われた今、一本の線として繋がったような気がした。


 彼は私が自分とどれほど近くにいるのか測っていたのだ。

 書評を書くのに値する人間か。あるいはすでにその時から、本を書くのに値する人間か。


 もしあの時私が、可哀想だとか、なぜウエイトレスをそんな子がやっているのかとか、そういう言葉を口にしていたら、書評の話は無かったことになっていたのだろう。だから「良かったです」だったのだ。


『理解がある人の器用な対応じゃなくて、人間の表面的な情報には何も興味がない人の、本質がわかる人間の対応だと思った。だからその瞬間から、あの人は私の特別なの』

「そっかぁ……」


 私は溜め息のように、言葉を漏らした。


「確かに、それが正しさだね」


 平等。

 どこまでも平等なのだ。彼にとって、本を書かない他人は。

 それは確かに一つの、徹底された正しさだろう。


 私たちは正しさに公平を持ち込んでしまう。皆に同じを与えるのではなく、同じ状態の結果を与えようと手を回そうとしてしまう。


 これも別に間違いではないのだ。

 一つの正しさの形ではあるし、きっといつか、外にもう一度出ようと思った有紗には必要になるものだろう。


 ただしかし、無機質で無慈悲にも思える平等さこそが、確かに今の有紗に必要な正しさだったのだ。


「変わった人だと思ったけど、有紗ちゃんにとってそこが大事な部分なんだね」


 そう呟けば、少し迷うようにペンを回してから、有紗はカリカリと何かを書き込む。


『でも、あなたも少し変な人だよ』

「私?」


 きょとんとすれば、不服そうに有紗は続きを書く。


『だって、普通子供にこんなこと書かれたら怒ったり、気を悪くしたりするでしょ』

「……そうかな?」


 有紗の言うことは、純粋さに彩られてこそいるが、的は射ている。

 正しいことを言われて気分を害するほど幼稚ではない。

 私は苦笑を浮かべた。


「大人の余裕よ。子供の言うことに必死になったりしないわ」

『そうやって、子供の言うことだからってあしらうならわかるけど、あなたは真面目に聞いているように見える。あなたは言葉と現実がちょっとちぐはぐで、やっぱり少し変わってるよ』

「そうかなぁ……」

『自分のこと一般化しちゃうから、自分でも自分がわからなくなっちゃってるんだよ。あなたの内側には、あなたが自覚してないあなたがいるんだ』


 自分でも自分がわからない。

 そうかもしれなかった。

 一般化。平均的で凡庸な自分で生きるのに慣れ続けて、それ以外を取りこぼしてしまった。

 有紗の言葉通りだと思いたい私に、また脳の隅が否定の言葉を冷水のように浴びせてくる。


「うーん、元々何もない人間だから、変に聞き分けが良いだけじゃないかな。反論したいだけの自分もないんだよ、元々」


 微笑みながらそう答えれば、有紗はぐっと表情を厳しくして、淡々と何かを書きつけると放り投げるようにしてペンをはなした。


『そうやってつまらない人間でいれば良いよ』


 もうドロドロに溶け切った青いクリームソーダを勢いよく啜って、有紗はキッチンへと去っていった。

 二つ結びが、いつもより重たく揺れる。


 ジブリの映画や漫画には髪の毛が感情を表す表現があるが、あれも案外誇張じゃないのかもなと思った。彼女が怒りに顔を伏せているからなのか、はたまた私の心がそう見せるのか。


「つまらない人間……か」


 人間誰しも面白い部分の一つや二つあると、一色は言った。

 本当だろうか。

 ありのままの自分を書いて、それは本当に『読める』ものになるのだろうか。


 PCを開いて、ぼんやりと、何も浮かばないままカチカチとテキストソフトの画面をいじくりまわす。

 打って、消して、打って、消して。

 ほら、消したからもう何もないじゃないか。

 そうやって私の人生も、何もなくなっているのではないか。

 今更何か思い出そうとしたって、書こうとしたって、何も……

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