一
その日はまだ七月の初頭だったというのに、空は炎天の日差しをもって、街と人々を焼いていた。
シートで汗を拭って、扉の前に立ち「よし」と胸の中で小さくつぶやく。
担当編集との打ち合わせの日だった。
社会人として模範的な余裕を持って私が待ち合わせのカフェにたどり着いたときには、約束の彼はもう、まるでずっと昔からそこにいたかのように、奥まったボックス席に腰掛けていた。
店内には彼と、あとは学生バイトだろうか、制服の少女しか見えない。『尾倉カフェ』。雰囲気は良いが流行らない個人カフェ、なのだろうか。
内装も凝っておりアクセスも悪くないのだから、インフルエンサーにでも見つかればすぐに流行りそうなのになと思う。
そんな考えを巡らせつつ、順番のように私は彼に目を向けた。
初めて会う人の観察をするのは、もしかしなくても失礼なことだろうが、私の癖であった。
一見して、彼は風変わりな男だった。
編集者というから中年の男性を、働き盛りのエリートがそこにいるのをイメージしていたが、ソファに座る彼はどうにも年齢不詳な容姿で、スッと伸びた背筋や体つきからは若く見えるが、白髪混じりの長髪を結えているのはまるで老人のようだ。
サラリーマンというよりも、どこか彼自身が作家や芸術家、あるいはその蒐集家のような雰囲気を感じる。
さて髪の長い男性というのは珍しい。
白髪を染めていないのも気を遣っていないのか、逆に気を遣っているのか。どちらにせよ珍しさに少し身構えてしまうのは、私の対人経験の少なさ故だろうか。
時間と席の連絡は済んでいるので問題はないが、彼は待ち合わせ中とは思えない様子で手にしている文庫本に集中しており、周りなど見えていないようであった。
声をかける前に、ちらと本の表紙を盗み見る。『マノン・レスコー』だった。
「フランス文学、お好きなんですか?」
テーブルの端を微かに叩いて、私は彼に声をかけた。
「お待たせしてすみません、ふくよ書店K店副店長の清水と申します」
ちなみにふくよ書店のふくよというのは創業者の苗字らしい。
ふくよかでよろしいことで、と太鼓腹の店長に無茶な仕事を言われた時に呟く秘密が私にはある。
本に熱中していた様子の彼は、しかし突然かけられた声に驚くこともなく、顔を上げてにこりと立ち上がった。
「初めまして清水様。さかき出版の一色千里と申します」
さ行が多いな、と耳が心地よさを感じる。
昔からさ行の音は好きだった。澄んでいて、何かが流れるような涼やかな雰囲気を聞けるからだ。
さかき出版というのも決して大きな出版社ではないが、それでも無名というわけではない。どこかで身構えていた私の緊張が、心地よい音で流されていってくれたような感覚があった。
「マイブームなんです、これまであまり触れていなかったもので」
マノン・レスコーを指の背でそっと触れて、一色は微笑む。
「こちらからのお願いでしたのに、お呼び立てしてしまって申し訳ありません。本の話は、静かな場所でするのが好きでして」
それは儀礼的な挨拶のようで、彼の個性を思わせるのに十分すぎる言葉だった。
本にこだわりがある。好き。大事にしている。
なんと表現しても良いが、好感の、仲間意識の持てる発言だった。
一色千里。
柔和で中性的な印象だが、立ち居振る舞いは安定しており、堂々としてすら見える。改めて顔を見ればせいぜい三十歳かそこらのように見えたが、しかし若さを全く感じさせない。
とりわけ優れた容姿ではない、というよりむしろ平凡さや地味さを感じる顔立ちではあったが、色の薄い瞳のせいか、どこか奇妙な魅力を感じさせる男であった。
ふっとこんなにも歳の離れた仕事相手に、そんな評価を下した自分を恥ずかしく思う。
外貌なんてどうだって良いことで、問題は為人をそこから知るところにあるのだ。
「いえ、素敵な雰囲気のカフェですね。行きつけなんですか?」
探るようなつもりで、砕けた調子で問いかけてみる。
一色は「ええ」と頷いた。
「一度気にいるとそれだけになる癖があって……ここもその一つです。何か飲まれますか?」
「おすすめはやっぱりコーヒーですかね?」
一色の手元に置かれたカップを緩く示す。
「あぁ……」
彼は苦笑をこぼしてから、カップを少し持ち上げた。
「これも癖の一つです。同じものしか頼まないもので、これは普通のブレンドですが、他を飲んだことがなくって……行きつけと言ったのにおすすめができませんね、困ったな」
「なるほど。でも毎回飲まれるなら、美味しいのでしょう。私も同じものを」
ちょうど良く、様子を伺うように近くに来ていた店員の少女に注文をする。
彼女は無言のままぺこりと頭を下げて、それから足早にキッチンへと去っていった。
若い子らしい低めの二つ結びが、奥へと揺れて隠れる。
「声の出せない子なんです」
不意に一色が言う。
「え?」
「店員の彼女です」
「……あぁ、気を悪くしたりなんてしませんよ」
確かに無言の店員には違和感を覚えたが、それに腹を立てるような歳ではもうない。
一色は目を伏せて微笑むと「良かったです」と呟いた。
不快にならなくて良かった?
彼女が誤解されなくて良かった?
そのどちらの意味でもないように思えて、何かが引っかかったような気がしたが、よほどこの店に愛着があるのだろうと思うことにした。
一色千里は風変わり、これで済ませよう。
麻のエコバッグを席に置き、私自身もようやく腰を据えて一色と向かい合った。
……芸術に関わる人は、みな風変わりなのだろう。
向き合うと同時に、嫌な思いが胸の底にぬるく広がる。
彼の色の薄い瞳が、品定めするように私を見ている気がした。
妙な居心地の悪さを覚えて、顔を逸らすためにバッグの中身を漁る。
凡庸な私と彼との違いは机一つの間に、深淵や混沌として、距離も測れない概念の渦として存在しているように思えた。
「原稿、拝読しました」
ゲラをテーブルの上に出す。
「新人さんだと聞いていましたが、荒削りでも情熱的というか筆力があって……引き込まれる作品だと。上位賞に至らなくても、売り出したい本であると私も思いました」
一色は変わらぬ穏やかな表情のままで答える。
「それは良かったです、私もこの子は個人的にとても気に入っていて。書評をいただいてを雑誌に載せることで、少しでも多くの目に止まればと思っていたんです」
作家と良い関係を築けない担当編集も多くいると聞く。
いや、むしろ担当編集と良い関係を築けない作家、か。
そのなかで『この子』と呼べてしまうほど親しい関係を構築していると考えれば、この薄膜を隔てたような他人すぎる印象は、一色の本来のものではないのだろうと思えた。
「どんな作家さんなんです?」
好奇心から尋ねてみる。
一色は少し間を空けてから、にこりと笑った。
「秘密なんです。誰にも自分が本を書いていることをバレたくないと。若い作家さんには多いですよ。自己を顕示したい、という人も同じくらい多くいますが」
「あら、思春期ですね」
「そういうことなのかもしれません」
肯定はされなかった。
改めて、ゲラの紙束へと目を向ける。
何か白い渦が胸の底で波立ち始めたのを感じて、違和感と戸惑いを覚える。
これはなんだ?
かたり、と目の前にコーヒーが置かれた。
「ありがとう」
平静を装い微笑んで見せれば、彼女は無表情に頷いて、また足早で隠れるようにキッチンへと去っていった。
「あ、そういえばこの作品、タイトルはまだなんですか?」
表紙に作者も題名も何も書かれていなかったことを思い出し、一色に尋ねてみる。
彼は困ったように頷いた。
「製本にあたって新しく私が決めてくれと、作家さんに言われたのですけれどね。なにぶん少し荷が重くって、迷い中なんです。そんな状態での依頼で、すみません」
「そっか、編集さんがつけることもあるんですね」
「結構多いですよ。タイトルには頓着しないという作家さんもいますし、売り上げのこともあるので、最終的には出版社の判断が強いですからねぇ……」
快く思っていないような口ぶりであった。
私は思わず笑って、つい余計なことを口走る。
「名前をつけるような真似をして汚したくない、ですか?」
作品のラストを思い出してのことだった。
一色は一瞬目を開いて、それから「そうなんです」と苦笑を浮かべた。
「駄目ですね、本好きに商業は難しい」
そう言った一色は本当に困っているようで、想いを馳せるように少し遠くへと目を細めた。
その所作に、心臓の端がぴくりと動く。
『主人公』は『彼』が好きで、一色はこの本が好き。
わざと安易な言葉にして、頭で考えてみる。
瞬間、私の頬に朱が滲んだ。
恥辱だ。
己の浅ましさに気づいてしまった。
胸の奥に潜んでいた白い渦が決壊して溢れ出す。
「あ、あの。私、やっぱり書評を書けないかもしれません……」
それは衝動と確信が混ざり合った、自分への失望の言葉だった。
一色が驚いたように首を傾げる。
「それはまた、どうしてです?」
「私……評価しようとして、この本を、読みましたから……。熱意ある方々に申し訳なくって……」
それがどれほどに恥ずべきことであるのか。
今この場に至り、一色の顔を見るまで気づかなかったことこそが、一番の恥であった。
自覚できるほど、泣きそうに表情を歪ませてしまう。
いい歳して、と叱りつける脳内の冷静な自分が打ち勝てないほど、この現実はあまりに情けなかった。
人が熱意を込めて書き上げた作品を、人が純然な愛をもって形にしようとしている作品を、本を書くことさえ諦めた私が傲慢に評価するなんてことが、どうして許されるだろうか。
そして何より私を苦しめたのは、私の中にこの顔も知らない作家や一色への妬みの感情があることだった。
本を書ける人、携われる人、それを諦めて中途半端に生きなかった、私ではない人たち。
ああ、心底妬ましい。
こんな子供っぽい感情に囚われたまま、傲慢にも、まるで世界や社会を知り尽くしたかのように本を評価し、人を観察している自分は、どうしようもなく浅ましく、また恥ずべき存在に思えた。
白い渦は激しさを増し、私の身体中から溢れ出していく。
一色は頭を斜めに傾けたまま、何も言わずに感情の濁流に翻弄される私を見つめていた。
窓の外、大通りで信号が変わる。
ピコン。ピコン。と、歩行者向けの気の抜けた音が鳴りだす。
一色はそれから少しの猶予を持って、ゆっくりと口を開いた。
「別に、期待していませんよ」
何を言われるか考えながら耐えていた沈黙だったが、その想定にもなかった冷ややかな言葉に私はハッと耳を打たれる。
「そんな高尚なこと」
一色は緩慢な手つきでコーヒーを混ぜ、「そうですねぇ」と悩むようにまた首を傾げる。
彼から目線を逸らした私は、店員の少女が、無表情でこちらを見つめているのに気づいた。
「わ、私、自分の書評が雑誌に載ることをまず考えたんです。自分の功績でもないのに、その時点で、もう資格なんてなかったんです」
沈黙に耐えきれず口を開く。
「誰でもそんなものなのだとしても、それでも、自分の凡庸な浅ましさに気づいたのに、作品を汚れた手で扱うことなんてできません」
「……個人的な話をしても?」
切実だった私の表意は、一色の言葉でふっと気勢を削がれてしまった。
「個人的な?」
「ええ。価値観の問題と言いますか」
「……構いませんが」
私は困惑しきってコーヒーを口に含む。
白い渦はもうおさまっていた。
感情が長続きしなくなっているような気がした。
熱意や意識は諦めを持って勢いを失いやすくなり、しかし動かされる時は突然で暴力的だ。
更年期なんて歳ではないが、キレる老人、というのに近づいているのだろうとぼんやりと感じた。
嫌だな。クレーマーになって、店員に怒鳴り散らす私。
私より幾分も若いはずの一色は、私にはない、あるいは私はもう失ってしまった落ち着きを持って、ゆったりと話し始めた。
「私、昔は作家を目指していたんですよ。本に携わる職についている人には、よくある話だとは思いますが」
自分のことをも言われているようで、なんだか居心地が悪かった。
しかしこんな人でも、こんな、特別に見える人でも作家は諦めたのかと、コーヒーのものではない苦さが口の中に広がる。
「そうだったんですね」
「ええ。ですから……作家になれた人、いえ、本を書く人に私は崇拝感情を持っているんですよね」
「崇拝感情」
あまり耳にしない、しかし意味ははっきりとわかる、人生に馴染まない言葉を、私の口も繰り返す。
それは、神や何かそれに等しいものに向けられるべき言葉が比喩や誇張として当てられているのではなく、彼自身が大真面目に、言葉通りに作家のことをそう思っているのだと、私は肌で感じ取っていた。
一色は淡々と言い切る。
「だから、本を書かない人間は、本を書く人間の養分なんです」
私はきっと、酷い顔でその言葉を聞いていただろう。
「例えば執筆という苦しい時間の助けになったり、様々な経験を与えたり、出版というルートを作ったり、それらはみなこの世に本が生まれるためのものです。音楽、絵画、風景、あらゆる既存の創作作品、生きた人間も、全て、本が作られるための養分になる」
「…………」
とても真面ではない。
なぜなら世界は本のためにあるのではないのだから。
そこにあるだけで、意味なんてないのだから。
私の人生で得ていた真理が、彼の言葉を否定する。
一色の瞳は仄暗い光を湛えているように見えた。
「……それで、何が言いたいんです?」
冷たい言い方だったろう。
顔も声も強張っていた。
「貴方は本を書きますか、清水様?」
「……書けません」
「貴方のように本のことを真剣に考えてくださっている方が、その葛藤を抱いたまま書評を書くのは、とても苦しいことでしょう。もっと何も考えていない人に頼むこともできますが、私は貴方の苦悩を好ましく思いました」
机という隔たりのカオスは、今やもう私を飲み込もうとしていた。
「苦悩する貴方はきっと良い書評が書ける」
「…………」
「本を書く人間のために、苦しんでくださいませんか?」
この男を単に風変わりな人間として留めておいて良いのだろうか。
気分だけなら警察に通報したいくらいだった。
「……あなたは作家が必要としたら殺人でもするんですか」
それは皮肉ではなく、事実の確認だったかもしれない。
一色はコーヒーを啜って、平然と答えた。
「そんなことしたら、その本は出版できませんよ」
「……はは、そうですよね」
私は乾いた笑みを浮かべた。
嫌悪感と、理解できないものへの恐怖。
一色は、私が意味を持たせなかった世界に、本という意味を持たせたのだ。
いよいよ交われない。
いや、交わってはいけないと本能的に感じる。
私は何も言わないまま席を立って、コーヒーの値段もわからないまま、レジスターの前に多めの金額を置いた
そして逃げるように炎天下の街路へと飛び出す。
一色のあの瞳は、私の背を追っていただろうか。
逃げたつもりなのに、彼の声が、目が、言葉が私の脳に染み込むように広がっていく。
カランと軽やかなドアベルの音がして、店員の少女が街路に姿を見せた。
それは区切られていた世界が混じってしまったような奇妙さを持った一瞬だった。
思わず足を止めた私を、彼女は追いかけるでもなんでもなくじっと見つめ、それから、微かに笑った。
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