人間未遂
四十内胡瓜
序
本を書かない人間は、本を書く人間の養分だ。
そう、思って生きてきた。
いまだにそれが正しいと、僕は思っている。
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思えば迷子だったのだ。
迷子、子供、幼児。
自分の振る舞いさえもよくわからず、手探りに己の小さな手に掴めるものを探して這い回る赤子。
暗い胎内という永遠の孤独から、光の向こうを透かし見て求める胎児。
今思えば、そうだったのだ。
しかしながら当時の私はもう四十年にも近づこうという歳月を生きていて、社会なんてものは大抵知り尽くした気になっていたし、若さなんてものは欠片も残さずに忘れ去ってしまっていたと、羨むように思い込んでいた。
端的に言えば、生き疲れていたのだ。
私、清水唯はしがない書店員だ。
かつて、大好きな本に関わる仕事がしたいと就活に向けられていた情熱は今の職場にはとうになく。かといって仕事は仕事と割り切ってプライベートの充実を図るなんてこともせず、四十路にして未婚、彼氏もいない。しかしそれを悲観できるほどの元気も……
やめよう、こんな人間はいくらでもいる。
わざわざ清水唯がどれほど平凡な人間であるのかなど、改めて書く必要はないのだ。
あなたが今ちょっと目を閉じれば、少し傷んだ黒髪を適当に束ね、気難しそうに鼻の上に皺を寄せた、エプロン姿で化粧も薄い、地味な中年手前の女が見えるはずである。
それが私である。説明は要らなかった。
ある日。そう、平凡で疲れ切った女が小説の主人公になるのには『ある日』が必要なのだが、そのある日。私は小さな書評を書くという仕事をもらった。
もらった、というのは正確ではないかもしれない。店長にとって面倒だった仕事が副店長の私に押し付けられた、というのが厳密なところだろう。
店長、熊谷晃は、医師の警告を受けるべき肥満体型をゆさゆさと揺らしながら、億劫そうに一枚のコピー用紙を手渡してきた。
ざっと目を通して見れば、小さな新人賞で佳作を取った作品が、良作だったため例外的に書籍化されることになり、販促として雑誌に書評を載せたいのでその依頼が来た、ということらしい。
「これ……やってみない?」
やってくれ、ではなく提案のように言うところがこの男の小狡いところである。
いつもの私なら眉間の皺をさらに深くし「店長に来た仕事ですよね?」だとか「なんで私なんです?」だとか言い返していたことだろう。たとえ最後には私が引き受けることになるとわかりきっていてもだ。
しかし今回は特例だった。
「ありがとうございます、やってみます」
ぽんと一言で引き受ける。
店長も断られると思っていたのだろう、驚いたように口をぽかっと開き、そのまま開き切った喉で「あぁ」とか「えぇ」とか返事のようなものを唸った。
それから気を持ち直したように、またいつもの調子でぼそぼそと言う。
「そこのゲラ、持っていって良いから……打ち合わせ、したいらしくって、連絡先の付箋も、ゲラの上にあるからね、連絡とって」
厄介を部下に投げられれば、あとはもう適当なものだ。
店長は何が映っているかもわからないPCモニターに目線を戻し、ぼりぼりと顎を掻いていた。
付箋には担当編集のものであろう連絡先が、綺麗な字で記されている。
手に取ったゲラ、本の卵のずっしりとした重さに思わず頬が緩む。
本が好きだ。
昔からずっと、それだけは変わらない。
むしろ本だけが好きだ。
小説家になりたかった学生時代、ちょっと現実を見て出版社を志した大学時代、もう少し現実に浸って結局小さな書店員に落ち着いた現在に至るまで、本が好きじゃなかった時代はない。
小さな一コマとはいえ雑誌に書評が載る、ということは、私の書いた文章が不特定多数に読まれるということだ。
学生時代の私が、心底嬉しそうに笑う。
私は生き疲れて擦れた大人ではあったが、ペシミストやニヒリストに振り切っているわけでもなく、また怠惰と退廃にも浸れてはいなかった。
つまるところ、夢の残滓を抱いていた。
バッとデスクに放置されていたゲラを掴んで、大事に、大事に麻のエコバッグに仕舞い込む。
「わかりました。それじゃ店長、お疲れ様です」
バッグを米袋のように抱きかかえて、ふと店長を振り返る。
「……そういえば、どうしてこんな小さい書店に書評依頼が?」
全国チェーン店とはいえ大型店舗でもなく、立地は微妙、売り上げだってギリギリの弱小書店だ。
言われて初めて不思議に思ったのか、さぁと首を傾げる店長に、私も同じ角度に視点を動かすしかなかった。
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夜は短い、本を読むには。
日々の雑事を終えてゲラに向かえたのは、二十三時もすぎる頃。
明日が水曜で良かったと、コーヒーカップを片手に思った。
平日休みは接客業の特権だ。別の言い方をすれば連休がない苦難でもあるのだが……。
そのうえ独り身で辛いのが、家事も全て自分でやらねばならぬということだ。もちろん誰にも見られないからと手抜きができるのは利点であるし、実家にいたら何一つとっても口うるさく言われて堪ったものではなかっただろうが、それでも自分のために自分のことを毎日やる、というのは存外疲れることである。
ガサガサの肌に化粧水を染み込ませるのも、自分のためでしかないと思えばやる気も起きない。
まぁ、なんだかんだと言ったところでやるのだが。
高校時代から変わらず使っている家用の弱い眼鏡をかけ、おしゃれグッズのつもりで買ったヘアバンドで濡れた髪を色気の一つもなく押し上げ、思い切り濃く淹れたホットコーヒ―に舌をひたす。
それから数時間、紙を捲る音にこの部屋は支配された。
コーヒーを啜る音も、カップを机に置くかたりという音も、いつの間にかしなくなっていた。
それは異空間とも呼べる静寂。
本の作り出す静寂だった。
小説にのめり込んでいく私を、俯瞰する私が文字を読み込み続けるだけの機械になったかのように感じている。
ただ読むだけの時間、私、空間。
「……ふぅ」
異空間を壊したのは私の吐息で、紙束が机に置かれる音と同時だった。
カーテンの向こうでは夜の色が青くなっている。時計を見れば三時半すら過ぎようという頃だった。
冷め切ったコーヒーを一息に飲み干す。
読める本だった。
新人賞の佳作、正直それほど期待して読んだわけではない。
読み始めてすぐこれが高校生同士の恋愛小説だと気づいた時には、書評を引き受けたことを後悔したくらいだった。
恋愛小説は得意じゃない。日頃から読むこともないし、そんな青春の経験もないから良し悪しだってわからないだろう。
そう思いながら読んだ。
しかしこれがどうしてか、面白い本だった、と言い切れるものだったのだ。
主人公の少女は、おそらくは作者の持っている、鋭敏な感性を言葉に乗せて人間の感情に深く深く潜り込んでいく。自分のこの感情はなんだ、これは恋なのか、彼に強く揺れる心はそんな一文字や二文字で表して世俗化できてしまう、低俗なものなのだろうか。
若い感性だ。
潔白にこだわり、平凡を嫌い、特別を求める。
そうして最後に彼女は、主人公の口をもって言い切る。
これは恋ではないと。
そんな名前をつけるような真似をして、私の感情を私自身の手で汚したくはないのだと。
名付けられないことによって、私の心は永遠になる。
「……人生、恋愛の一つでもすれば良かったかな」
少しだけ羨ましく思う。
若い女性と思われる作者がこんなに心を揺らす言葉を書けるのが、彼女の経験によるものであるならば、私にもそんなものがあればあるいは……。
しかしそこで、いや、と考え直す。
私だって恋のようなものくらいはしていたはずだ、と。
それに情熱を向けるのが恥ずかしく、どうでも良いものとして真剣に向き合わなかっただけだ。
この作品を作り上げたのは作者の経験ではなく、人生への真剣さ。
荒削りで、小説というよりも言葉の奔流のような作品だったが、これは大賞でなくても本にしたいと思うのがわかる。
この本が売れるかどうか、多くの人の手に渡るのかどうか。それが多少なりと自分の手にかかっているのだと思えば、俄然やる気が出るというものだった。
付箋に貼り付けられたアドレスに、事務的な連絡と少し余計な自分の熱意を書きつけてから、送信時間を設定する。
九時過ぎ、相手方にメールが届く頃には私は夢の中だろう。
今日は良い夢が見られそうだ。
すでに微睡みかけた脳の端でちらりとそんなことを思う。
今日の私は、きっと青く、燃えるような夢を見るはず。
すとん、と意識は真っ暗闇に堕ちていった。
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